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中世芸能の発生 457 パラオ 植民地における日本語 学校教育の観点から 中島敦



つづき


パラオ。南洋庁が置かれていた。
当時、中島敦が教師として赴任していたと聞いて心が惹かれた。

教科書に載っていた中島敦の『山月記』は、
思春期の子供たちに読ませるために選ばれた。
研いだ夜のようなあの文章。
新学期には、新しい国語の教科書を一気に読んだ。

そうか、
まだ読んだことのないい中島敦の『南島譚』は、
南洋に住んでいたから書かれたのか。


パラオは美しい島という印象。
青い海、生い茂る椰子、海の音、子供の声、鳥、魚。絵葉書のような島。
夢のようなイメージ。
つまり私は太平洋ミクロネシアの島々の歴史をまるで知らないということ。
そのことにも気が付いていなかった。
私には遠い島々だった。

ただ、ずっと以前、
テレビでパラオの人々の暮らしの中に
今も日本語がわずかに残っているのを見て胸が痛んだ。
それがずっと胸にある。


中島敦とパラオのつながりをきっかけに、
日本と関わりあった時代を中心に、ほんの表面的な部分にすぎないけども、
パラオのことをなぞってみた。


日本の中世期、
西洋では海運が発達し、多くの西洋人宣教師や商人が、
西洋人にとっては未知の場所だった世界中の島や土地に入っていった。
日本へも。
中世以降日本を訪れた宣教師達が残した日本についてのレポートは、
大変興味深く参考になるので私も時々読んでいた。

太平洋、ミクロネシアの島々へも、
スペイン人、ポルトガル人、他西洋人が入った。

1885年、パラオはスペインの植民地になった。
西洋からきた伝染病や厳しい支配から、
スペイン統治時代の15年間で、パラオの人口は1/10に減ったそうだ。

たった15年間で、人口が1/10に減少。
たとえば誰かが、私があなたが生き残ったとして、
生き残った人にとって、15年後には、
身近な人々がほとんどがいなくなっていたという現実。
これはどういうこと。
西洋列強の植民地ではめずらしいことではないのだが。それでも。

このような経緯があり、パラオから統治国スペインが得る利益は減っていた。
また西洋各国の国力も変化しつつあり、
スペインは、1899年、パラオを含むスペイン領ミクロネシアのほとんどをドイツへ売却。
その後15年間ほど、パラオはドイツの植民地となる。

やがてドイツが第一次世界大戦で敗戦。
パラオは、第一次世界大戦では戦勝国だった日本の委任統治領下になった。

委任統治とは信託統治の前身で、敗戦国の植民地だった土地を戦勝国が預かるもの。
植民地支配でなく、現地が自立独立するまで
戦勝国が統治を担当するという形のものだったが、
実際には世界中の委任統治領の多くは
以前の植民地時代とさほど変わらない統治状況がされていたようだ。


スペイン領時代とドイツ領時代のパラオでは、
宗主国による現地の人々への交通、教育、医療等、社会福祉の整備や普及は
ほとんどなされなかった。

日本領時代になると、2万人以上の日本人がパラオへ移住した。
この時代、パラオのインフラ、社会福祉の整備は急速に進んだ。
日本は西洋秩序のルールに従い、また生来の日本人の価値観に沿って、
真面目に委任統治に取り組んだようだ。

それで現地の人々のための学校も作られた。
ただしパラオは、併合して日本、日本国籍の人となった台湾、朝鮮とは異なって、
学校と教育内容は日本人とは別だった。

朝鮮には日本国朝鮮の人の高等教育のため、
大阪帝大、名古屋帝大に先立って帝国大学が作られた。
パラオには大学は作られなかった。



日本本土で教師をしていた中島敦は、
パラオへは教師として赴任したのでなく、
現地の人々のための教科書編纂のため南洋庁の書記として赴任したようだ。

これはwikiからではあるけれども、
教育の軽視など、現地住民がおかれた状況を悲観的に分析した手紙を家族に送っている
とのこと。
教育の普及への真摯さがうかがえる。

そういえば先日何かで見たが、
当時の日本領の学校も含む日本全国の小学校の学力テストで、
パラオの学校は総合二位、算数では一位だったそうだ。
もともと学校の多い本土よりも成績が良く、他の地域に比べて抜きんでていたとは。
教育への熱意。



現在中国では日本由来の言葉が多く使われている。
よく例えに挙げられるのは中華人民共和国という国名の、
中華、人民、共和国、それぞれが日本で作られた言葉だというもの。

ほか経済用語、宇宙に関する用語、科学用語、哲学語、政治語、等々、
中国語中で様々な分野で日本で作られた造語が使われている。

同様に、たとえば朝鮮語の文法の授業で、
名詞、動詞、形容詞、副詞などの和製語が今も使われている。

これら品詞を表す語は、日本で造語された文法用語なので、
これら和製語は日本人にには直感的に理解しやすいが、
朝鮮語ハングルを用いる朝鮮の人々にとっては直覚しずらい言葉になるそうだ。


言うまでもなく中国朝鮮には充実した母国語があり豊かに用いられてきた。
その中で現在使われているこれら日本由来の言葉から、
何が見えるかというと、

近代社会のスタンダードとしての西洋の学問や概念が、
アジアでは早い時期に西洋文明を取り入れた日本で、翻訳、日本語化、体系化され、
まとまった学問の形態として中国・朝鮮の教育に取り入れられた経緯だ。


パラオを日本が委任統治していた時代、
現地の、パラオの人々のための学校では、日本語で授業が行われた。

日本統治下で近代的な教育を行うにあたって、
現地の言語でなく日本語が用いられたことは、

単なる言葉と文化の押し付けでなく、
近代の教育を総合的に学ぶ共通語としての日本語、という一面があっただろう。

現在、現地語でない言語を用いることは、
ただ言語による支配の一点のみに捉えられがちだ。
私自身、各地に日本語が残っている理由をそう解釈し、
そうした行為を疑問に思いつづけていた。

しかし、現地語で近代教育用の用語や体系を作り教育に用いるためには、
十分な現地語の知識と、膨大な学問体系を現地語に組みなおす長い時間と労力が必要だ。

西洋列強の植民地になる可能性のきわにあった日本でも、
明治時代、西洋近代国家にならい近代文明を体系的に取り入れるために
多くの和製語を作ることに腐心した。
文化が大きく変わる時、こうしたひとつひとつにどれほど力を尽くしたかと思う。

(古代思想に興味のある私は、
古代日本で漢字を導入した時に少し似ていると感じた。
日本語の音に漢字の音と意味をあてはめていった苦心が、
太安万侶の古事記の編纂に記録されている。)



国内に数多くのローカルな言語を持つ東南アジアの国々は、
土地々々に固有のローカルな言語とは別に、共通語で教育を行っている。
(例えば200以上の現地語があるいわれるインドネシアの共通語、インドネシア語。)



現在、隣国では、日本併合時代に
朝鮮語の使用を禁じられたと教えられているけれども、
そうだろうか。

日本統治下で、学校で朝鮮語を教えた教科書が残っている。

日本が併合した台湾・朝鮮における日本語の教育、日本語による学校教育は、
ただ支配にだけ結びつくものだろうか。
近代文明の導入と表裏した一面はあったのではないだろうか。


戦後朝鮮で、日帝残滓だからと日本の影響の痕跡を消すことが行われている。
同様に和製語も朝鮮語に置き換えることがされている。
システム全体を別の何かに置き換えることは
代替があるかという問題からはじまるので難しいことが多いだろうが、
和製語については朝鮮語に換えていけばいいと思う。




太平洋戦争で日本が敗戦した後、
パラオはアメリカの信託統治下になった。
以降パラオの方々の教育は英語で行われるようになった。
そしてパラオの人々にとっては、アメリカでの高等教育への道も開けた。

行政の一部をアメリカが行う保護国となったパラオだが、
アメリカ領になったハワイのようにはインフラや社会福祉の充実は行われなかった。
太平洋の島であるので、現在産業は漁業を中心としている。

パラオ共和国がアメリカの保護国から独立したのは、1994年。
太平洋戦争での国連の信託統治領の中では、最後の独立だったそうだ。


パラオやいくつかの国、日本も、
アメリカが軍を置いて防衛を担うかたちで現代まできた。


太平洋の島々を思う時、
島々に今も残る日本の言葉の切れ端が、胸に疼く。




南洋の美しいパラオでも、
中島敦の病弱は治らなかった。

たった33歳で亡くなった。

はじめて『山月記』を読んだ頃、
33歳は、十分に生きた年齢だと思っていた。









・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ
漢字導入よりも前の古い日本語の音。
漢字の意味と異なる、もともとの日本語の意味。

漢字の意味をはずした古い日本語の音から、
その語がもともとなにを表すものだったかがわかる。

漢字を取り入れた時代、
日本語と概念の異なることば(漢字)を日本語に対応させる苦労は、
太安万侶(おおのやすまろ)の古事記編纂の記録にもある。

もとの日本語の意味と、
そこにあてはめた外来の漢字の意味には、どうしてもずれがあるけれども、
そのずれを試行錯誤しながら長い時間かけてすりあわせていった。

漢字の意味を取りこんでいく過程で、
中には、もとの日本語の意味よりも漢字の意味の方に近づいて、
もとの日本のことばの意味から離れ忘れられてていったことばもある。
「ヨ」の語もそのひとつ。

漢字導入よりも前から使われていた古いことばは、
そのものをあらわすのにふさわしい音(ことば)がつけられていた。

したがって古いことばの音の響きに、私たちは、意識しなくても
そのものの性質を感じていると思う。




・2010-08-31 生物多様性 言語の多様性
・2007-06-28 言語のレッドゾーン
漢字の導入よりも前から使われていたことばは、
そのものをあらわすのにふさわしい音(ことば)がついていた。

だから古いことばの音の響きに、私たちは、意識しなくても
そのものの性質を感じていると思う。

日本でも英語を共通語にしろという人が、
なぜ生物多様性、命の多様性の重要性を語れるのかと思う。

世界中の各土地の、生物の多様性、命の多様性のあらわれ出たものが、
土地の言語であり民俗であるのに、

ことばを、
ことばの一面である道具としてしか見られず、
土地の自然風土に生まれ、土地に根付き、
土地に適応して成長してきたことばを軽んじる人が、

滔々と生物多様性、命の多様性を語るのは、
うわごとに聞こえる。




・2010-08-18 中世芸能の発生 340 母語
留学生のH君は、変化に富んだ大きな国土の多民族国家出身。
英語と日本語の他、自分は○○語と○○語が話せる、と言ってた。

○○語の一つはH君の国全体の共通語。
もう一つはH君の出身の民族のことば。

H君の国の共通語とH君の民族のことばはかなり違うの?と聞くと、全然違うと言った。
方言くらいの違いではないという。違う言語って感じだそう。

数百の言語のあるH君の母国。
豊かな自然と多様な動植物の生きてるH君の国の、H君の民族語。





・2008-08-13 「ほ」を見る。
古い日本語の音。性質を表す音。

注意を惹くようなものやこと、身体感覚を起こす性質のもの、
それを昔の人は「ほ」、
「ほ」のあらわれと感じた。

折口信夫。
“人は「ほ」の出来る限り好もしい現れを希ふ。”

“寿詞(よごと)を唱へる事を「ほぐ」と言ふ。「ほむ」と言ふのも、同じ語原で、用語例を一つにする語である。「ほむ」は今日、唯の讃美の意にとれるが、予め祝福して、出来るだけよい状態を述べる処から転じて、讃美の義を分化する様になつたのである。”

“たんに現状の賛美でない。「ほむ」・「ほぐ」という語は予祝する意味の語で、未来に対する賞賛である。その語にかぶれて、精霊たちがよい結果をあらわすものという考えに立っている。”


ことほぎ、言葉で「ほぐ」。よごと。
近年まであった正月の門付けの家褒めなども、
現実にそのようになるよう、ことばとからだでする予祝。
ものごとがそうなるように願って、ほめる。

「ほ」ということばの音の中に、期待がある。


稲の「穂」は、
「ほ」の出現であり、
豊かにみのった「ほ」の結果だ。





“当時、台湾・朝鮮などに対して、日本は一視同仁のひたすらな皇民化のため、強力に「国語普及」の運動をすすめていた。「国語」を唯一の拠りどころとするこの同化方針に、私はまず疑問を感じた。それから「民族と母語」というものに関心をいだいた。はじめ、なぜそれほどまでにして、国語に依存するのだろうかと思った。”
(豊田国夫『日本人の言霊思想』)

各国の植民地への言語政策への言及のあるこの『日本人の言霊思想』を読んだ後も、
どうしても解けない疑問のかけらが残っていた。

思いがけなくパラオのことを通して、
そのかけらの一粒が、少し解けた気がした。

まだうずくまる小さなかけらたちが胸の中にある。
無事に生きて少しづつ私の視野が広がり、少しづつものを知っていったら、
ひとつづつ溶ける日がくると思う。
・2009-06-29 中世芸能の発生 158 母語 母国語 民族語
・2009-06-28 中世芸能の発生 157 『日本人の言霊思想』




・2008-01-21 みつ 08 大伴の御津(みつ)

大戦の時代にふたたび、平時より意識された日本語の言霊思想。

奈良時代に言霊思想(当時の言霊信仰と言えると思う)が隆盛した。
万葉集。遣唐使の出立と帰港。
国を背負うような時、期待された言葉(和歌)の作用。
古代、遣唐使の無事を祈ってかける和歌は、
素朴な願いをからくる呪(まじない)でもあった。
日本のことほぎの伝統。日本の芸能の伝統。

命の際に立つ時には、
ことばにすがるような、ことばによって命全体をふるい立たせるような
心境があったのだろうと思う。当時の人々に強い願いがあったのだ。

今も、心を込めて「元気でね」と声をかけるようなことも、同類だ。


万葉集 山上憶良
旅立つ遣唐使へ別れを告げ無事を祈った好去好来の歌

 神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 倭(やまと)の国は
 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ

    ・・・ 中略 ・・・

 還らむ日には またさらに
 大御神たち 船の舳(ふなのへ)に 御手(みて)うち懸(か)けて
 墨縄(すみなは)を 延(は)へたる如く あちかをし 値嘉の崎(ちかのさき)より
 大伴の 御津の浜辺(はまび)に 直泊(ただは)てに 御船は泊てむ
 恙無(つつみな)く 幸(さき)く坐(い)まして 早帰りませ    (894)


(訳)
 神代から言い伝え来ることには、空に充ちる大和の国は、
 統治の神の厳しき国で、言霊の幸ある国と語りつぎ

    ・・・ 中略 ・・・

 帰国するでしょう日には、さらに大御神は舟の先に御手をかけ、
 墨縄を引き伸ばしたように、あちかをし値嘉の岬を通って、
 大伴の御津の海岸に、まっ直ぐに泊まるべく
 御船は寄港するでしょう。
 無事にしあわせにいらっしゃって、早くお帰りなさい。




つづく
by moriheiku | 2013-12-02 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 456 国家神道 天皇


つづき


母方のご先祖様は、中世期、今住んでいる所に定着した。
中世頃の先祖の方々について話す時母は、
ちょっとケンカが強かったような人たちのようよ(小声)と言っていた。

はは~~ん。
中世、戦国期の人の移動を考え、また後の時代を考えると、
母方のその辺が察せられる。
野武士山伏系か。

義経弁慶たち一行が山伏姿に変装して頼朝の探索からのがれ
東北までたどり着いたのは、
中世期、勧進などする聖、山伏、僧のような人々が
当時日本中をたくさん歩いていて、山伏の変装が違和感がなかったから。

こうした人々の中には、各地の、
母の家のあたりのような地方の山あいに定着していった人も多い。
中世期には多かった。

こうして土地に定着した人々の中には、勢力をもつようになっていったりして、
戦国時代につながっていく。

山間に山伏系の神楽が残っているのは、
こうした人々が各地を歩き、時には定着していった名残だ。
・2009-09-26 中世芸能の発生 206 山伏の延年
・2009-04-16 中世芸能の発生 108 武士の狩猟民的性質について
うわー、あかんやないの


ともかく、そうした経緯で母方の家系は今の土地に定着し、
それから代々、土地のとある神社のある山を守(も)りをする役をしている。
神主さんではない。
こんときの消防車はその役のために用意された)


母たちの話によると、その神社のお祭りや行事にあたって、
江戸時代までは明治時代からのような特別なことはなかったそうだ。

明治より前は、ほったらかしじゃないけど、その、
なんと言ったらいいのか、
今の宮内省にあたるところから使者でいらっしゃる方も、
使者の方から渡される品々も、
質素簡素、というのじゃないけど、その後とくらべればそういうものでね、と。

母が曽祖父母や祖父母から聞いた話では、
大政奉還から明治になって、それまでとがらりと変ったそうだ。

急に、使者の方々の挨拶(装束も)や行事が大きくなり、
御即位など特別なおりに賜る記念のお品は、
飾りの付いた短剣とか豪華なものになって、
その家の人はびっくりしたそうだ。


ああそれは。
天皇の神聖の強化のための、国家神道の流れだったのだ。






法律で、天皇を君主と明記しようとすることには、やはり違和感がある。

名前のなかったもの、名前のつかなかったものに名前をつけた時、
意味は限定され、変質して固定するから。
あまねくあるものの象徴としての存在から離れたものになる気がして。

しかし世界に通じるものにするためには明文化することが必要なのかな。
むずかしいことでわからないけど。



私は、神道は、
古来広く行われてきた生活態度と一体だった民俗信仰、習俗が、
宗教として社会化され体系化されていったものと考えている。
それでも神道に文字による教義は基本的にはない。

神道につながっているものは、
古来の日本の自然風土と、
そこで暮らしてきた日本人に生活態度のようなもので、
あまねくありつづけてきたもののように思う。


天皇はある時代から存在されている方々だけれども。
排除などされることなくこの国で長くつづいてきた天皇という存在のありかたは
これまで続いてきた日本人と日本という国のありかたのあらわれ。
その表出。

だから天皇というありかたは、
日本の歴史、風土、精神性全てと結びついていると日本人には感じられるし、

天皇という存在と天皇のありかたの否定は、日本人にとっては、
日本の歴史、風土、精神性全ての否定と結びつくのだと思う。

そこを狙って抹殺しようとする中朝の意図はすごいと思うけど。

ともかく外国の人々にはそのあたりがわからないことが多いみたいだけど、
時の権力者の王とはちがうのだ。
王様は国そのものもでもないし、自分たちの一部でもない。

また、上下関係をつけることで物事を判断する人々にはどうしても理解されないようだが、
日本人にとって神聖なものとは、
上にあるものでなく、あまねくあるものなのだ。



日本に限らず、
他国の長く続いてきた王家や、
ある国に続いてきたその国の人々が尊重する象徴的なものを
否定したり貶めたりすることは、
その国のありようの全てを否定し、貶めるのと同じだ。
ものや人への自然な尊重の心がある人ならば慎むのでは。
国でなくどこかの土地でもものでも人でも。




たまに、国家神道時代の天皇への崇敬の形が、
大昔からの天皇への崇敬の形と同じだと考えられている意見をみかけるけれども、
やっぱりそれは少し違うのではないだろうか。

案外長い時代を日本の一般の人々は、
おてんとうさまが見てる、って感じで、
何事か知らないけどありがたいと感じられるようなものやおてんとうさまのようなものを心に置いて
生きてたと思う。




お釈迦様も像を作るなと言いのこしたように、
様々な宗教がその初期には、偶像を作ること、偶像を祈ることを禁じた。
しかし多くの宗教がや、がて偶像を作り偶像を通して祈るようになった。





ただ実感の中で生きて、
むしろ意味や存在を限定するような像や教義、そして名前も、
ほんとうは必要ないのだ。

(と思う私は日本の神道的な考え方をしているんだろうか。)






万葉集  石走(いはばし)る垂水(たるみ)  白木綿花(しらゆふはな)に落ち激(たぎ)つ
・2010-09-02 中世芸能の発生 353 ことほぎ 自然
・2010-08-30 中世芸能の発生 352 滝 木綿花
万葉集に、
白くさらしたふっさりした木綿(ゆふ ゆう)が、木綿花と言われて
滝の飛沫に例えられることには、心が躍る。

急流を駈ける水が
岩にあたって白い木綿(ゆふ ゆう)の花のように咲きつづけるうつくしさは、
自然のエネルギーそのもの。

万葉人の目に、ふっさりした白い木綿(ゆふ ゆう)が振るわれる姿は、
そのように映っていたのだなあ。

上記の歌は、詠み人の感慨であると同時に、ことほぎ。

言わなくてもことばの中に自然のイ(威)があり、
これまでも、これからも、くりかえし咲きつづけるイノチの祝福がある。

万葉人が見飽きないと歌に称えた泊瀬吉野の滝の木綿花(ゆふはな)。

今も山間を駈けくだる水を見れば、
その音に、細かくあたる水飛沫に、山と水の匂いに、木綿花のように咲きつづける水に、
心は躍って(激(たき たぎ))って息を吹き返す。

山に行きたい。





・2012-09-13 中世芸能の発生 447 一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬 滝 こぶ取りの翁




・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元
白い水










母の通った幼稚園史  明治、大正、昭和の園児たち
・2012-12-22 幼稚園史

母方の人々  いざ江戸   忠義と消防車  桜の文化
・2013-08-20 消防車 忠義 桜

母方の人々  牛を連れて帰る
・2013-08-21 牛と退職金 幕藩体制の終了

母方の家の言い伝え  母屋は無事だった・・・
・2011-04-07 国土の保全 知恵と伝承

↑母方のエピソードあれこれ。
夫婦で浄瑠璃にくるった代のこととか、
学者のふりをした泥棒にだまされたはなしとか、
打ちたいけど、

あ、父方のはなしも打ちたい気がするけど、


でもそれより、早く松と鹿のこと、打たねば。

めちゃくちゃでもなんでも。

私はそれが打ちたい。ずっと。




つづく
by moriheiku | 2013-08-23 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 455 貨幣 勧進 大仏造営


つづき


幕藩体制の終了で、母方の当主さんが江戸から地元へ戻った時、
(今でいう)退職金の一部が牛だったという。生きている牛。
貨幣より前の、物がやり取りされていた時代を、少し身近に思った。



日本人にお金とお金の概念が知られはじめた初期には、
貨幣による物の流通は定着しなかった。
租税もお金で納めるのでなく物だったのだから。

物の交換になれていた人々は、
物とは違って、
それ自体の価値ではない価値で流通するお金というものによる流通の不思議さを、
お金にまつわる不思議な力と理解した。

そのため人々はお金を、不思議な力のあるものとして、
お金が手元に来てもお金として使わず、祀って大切にし、
実際には相変わらず物での流通がつづいた。
初期の貨幣は祭祀の場所から出土している。

奈良時代に富本銭が鋳造されたが、
経済活動の貨幣としては出回らなかったようだ。

中世になると、経済活動の中での貨幣として宋銭が流通している。
市で出回っていたようだ。
でもまだまだ経済全体では物での支払い物の交換の方がメジャー。


時代が下るにしたがって、
布教と寺社運営のための社寺の勧進活動が盛んになっていった。

奈良時代は作善として、労働力の提供が多かった。
その提供された労働力が集合し多くの土木工事が行われた。

人々は神仏に救いを求め、
滅罪や亡者の鎮魂のため、また徳を積み往生を願い、勧進作善に参加した。

一人一人の小さな作善を集めて大きなものをなすということにも、
宗教的に重要な意味があったのもその理由だ。

行基のような優婆塞(私度僧)達が、勧進で人々をいざなって盛んに行った
橋を架ける、道を作るなどの大規模工事は、
宗教的思想の実践でもある会福祉事業。

井戸を掘り、池を作り、道を作り、橋を作る。福祉施設を作り運営する。
後の時代までも勧進の僧、聖たちの多くが、
土木工事のプロデューサーでもあったゆえんだ。

自然居士 勧進の優婆塞 プロモーター ヒーロー 芸能
・2008/09/25 中世芸能の発生 29 勧進聖 自然居士
・2008/07/21 中世 07 芸能の独立
お能の設定にはこうした立場の人々への共感があるようだ


貴族は布施として物や写経を喜捨して後生を祈ることができたけれども、
民衆はささやかな物と、あとは自分の労働力を喜捨、作善とし、後生を願った。



聖武天皇は大仏を建立するにあたって詔(みことのり)を出し、
全ての人々に大仏造営の参加を呼び掛けた。
一枝の草、一把の土を持ってと。

全ての人が参加し一つの何事かを作り上げることは、
当時の仏教の実践でもあり、
古来の信仰を映した国のありかたの理想でもあった。

聖武天皇は官の認めた正式な僧でない私度僧の行基に、
大仏造営の協力を依頼している。

行基は、仏教を説き各地で福祉と大規模土木工事等を行い、
民衆の支持を広く集めていた。

聖武天皇が、朝廷が取り締まる対象ともなる私度僧の行基に
大仏建立への協力を依頼したのは、
単に行基のもとに集まる大勢の労働力だけをあてにしただけのものではなかった。

聖武天皇にとって、行基とそこに参加する人々のようなありようが、
華厳の教えや、古来の民俗信仰にある
無数の個あるいは森羅万象が結び合い一つの世界を成しているという理想の世界に
かなうものだったから。

行基
・2010-05-10 中世芸能の発生 305 勧進と芸能
作善 芸能の芸術化




行基とそこに参加する人々のありようは、
聖武天皇の願った国のありかたの理想に近かった。

聖武天皇にとっては、
どんな方法でもいいから大仏を完成させるのではなく、
人々が広く大仏の建立に参加することに意味があるった。
そのための詔の一文だ。

大仏の造営に皆自発的に関わった人々が実際どのくらいいたかはわからないが。


こうした大仏建立の例に見られるように、
奈良時代には労働力を喜捨とすることはめずらしいことではなかった。




古来の信仰の体系をベースにして渡来の制度をあてはめた律令制度は、
社会・思想の変化にともなって、奈良時代後期には崩壊しつつあった。

神祇信仰と租税の徴収
・2008/09/05 中世芸能の発生 05 神祇信仰と租税徴収
律令制度の崩壊 芸能者の立場の変化
・2010-02-05 中世芸能の発生 269 「神聖」の観念の変化


律令制度の崩壊により寺社は、それまで受けていた国による庇護を失った。
寺社は寺社維持のため、自身での経済活動が必要となった。

大きな寺社は貴族同様各地に大規模荘園を所有しそこから利益を受けるようになるが、
平安時後半には荘園制度も崩壊。
不安定な時代、戦乱も続き、社寺が焼かれたり壊されたりもした。

そのため、もとは仏の教えを知らせ、
人々を仏教にいざなう布教のための勧進活動は、
寺社の維持のため喜捨を募ることにより重きが置かれるようになった。

布施や喜捨の内容も、
仏教の慈悲の実践としての
(今でいうところの)社会福祉活動)への作善、労働力の提供よりも、物へ、
物よりもお金、へと変化していった。
※融通念仏 リンク



僧や聖、比丘尼他、彼らのような宗教性を帯びた人々が
各地を巡って行った勧進の活動は、
より人々を招くことが必要。

経典の教えを知らせ、霊験を説き、
人々の信心と同時に喜捨を募るため行われた勧進の芸能、歌や語りなどは、
より耳目を集めやすく共感(と喜捨)を得やすいものへと工夫され、
勧進の芸能化、興業化が進んだ。

中世芸能の担い手 説経 唱導 勧進 
・2009-05-25 中世芸能の発生 133 俗の土壌
・2009-05-28 中世芸能の発生 136 優しい誤解

後生を願い救いを得たいと勧進の場に集う人々を信仰に招くため、
勧進をする側は、難解な経典の内容を、
人々にとって身近な話題に置き換え物語化したり、
派手になったり、涙を誘ったり、
訴えかける抑揚や動作をつけたり、洗練されたりして、
芸能がさまざまに展開していった。



天岩戸の神話のアメノウズメノミコトのあそびや神楽に象徴されているるように、
古くは芸能は、
あらゆるものを活気づけ、命を活発化、再生させることが期待された
タマフリの実感的習俗だった。

古い時代の対象に直接働きかけ効果を期待された呪術的性質のもの。
・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽

霊や神仏の概念ができてからは、
イノチを活発化させる芸能は霊や神仏をよろこばせなぐさめるものにもなった
(結果として荒ぶる霊や神仏は鎮まるという考え方 鎮め、鎮魂)。

イノチを活気づけるたまふりや神仏や霊にささげる呪術性宗教性を帯びた芸能は、
人々の生活や願いとともに、広く一般化していった。


平安時代に京で猿楽が、それまで一対で行われてきた法会と離れ、
猿楽だけで単独に上演された記録などある。
芸能は、布教のための俗化をしながら、
同時に宗教から離れていくことになった。

宗教と芸能が未分化だった時代は過ぎて、芸能は、
人々へ宗教の周知の役割を持ちながら 同時に宗教と芸能の分離を内包している。
それは、芸能から芸術への分岐にも見える。
・2010-12-01 中世芸能の発生 368 今様

芸能のはじまりの性質上、
完全に宗教と芸能が離れるのはまだうんと後だけど。



信仰や宗教と分離していった芸能。
喜捨されるお布施も、
信仰の意味での作善や喜捨でなく、
芸能への対価になっていく過程。


勧進の僧や聖の行う土木工事も、
民衆の自発的な小口の作善を集め皆で行うことに意味があるという段階から、

徐々に、物やお金による大口の喜捨を募って、
それを労働者に支払うものに変化していった。




経済活動が、
労働力や物の交換と流通の段階から、
貨幣の流通の段階に進み貨幣経済が定着するでには、
結構時間がかかってる。

宗教にかかわる経済は、
経済全体の変化のうちの一例にすぎないことだけれども、
ともかく貨幣経済が浸透には、
社会と意識の変化両方が必要だったんだ。




・2008-06-10 『身毒丸』 折口信夫 01
「田楽法師は、高足や刀玉見事に出来さいすりや、仏さまへの御奉公は十分に出来てるんぢや、と師匠が言はしつたぞ。」
田楽法師。護法童子の名を持つ人。
宗教者の末に連なる芸能の人たち。
遍歴し勧進する芸能する人たちを描いた描写。




静御前 白拍子
・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし
祝福芸。ことほぎ。
呪術的芸能から世俗的芸能へ。
それにともなう芸能する人々の立場の変遷。





全然歴史を知らない私。てさぐり勉強しはじめた頃。
あー成長しない。未だ終わらず。

遍歴する芸能者と商売 傀儡子と櫛 櫛宋銭と唐人(宋の商人)
・2009-01-30 中世芸能の発生 57 遍歴する人々と外国
中世の市には宋銭が流通していた。
宋銭は、日本列島の北から東南アジアまで広く流通していたそうだ。へー。 

勧進 経済の多様化 宋銭
・2008-09-25 中世芸能の発生 28 勧進

供御人 遍歴する人々の経済活動 宋銭
・2009-01-24 中世芸能の発生 53 供御人


こうしてみると、
貨幣が流通するようになった時期と理由が、少しだけわかった気がした。
2013年の今頃。




もー、一気に書いてめっちゃくちゃ。

あとでゆっくり打ちなおそ。



つづく
by moriheiku | 2013-08-22 08:00 | 歴史と旅

牛と退職金 幕藩体制の終了


こちらで母方の家の、明治時代の手動消防車(?)のこと打ったけど。
母方の家のこといくつか打とうと思う。

会話の途中、たまたまあるゴルフ場の名前が出た。
母が、あそこのコースの半分は、昔おじいちゃんの牧場だった、と
さらっと言った。

ええっ。牧場してたことあるの?

びっくり。
母んちは、昭和の途中まで牧場を持ってた。
牧場を持つにいたった経緯は、
時代が江戸から明治に移ったことに端を発する。

幕藩体制が終了し、明治政府になった頃、
母方の当時の当主さんは、江戸からこの地方、もともとの地元に戻った。

世の中が大きく変化する時代で、
幕府、諸藩の財政はどこもずいぶん大変だったようだ。

幕府や藩がなくなることは、
幕府、藩から給与(禄)ていた人々にとっては、
現代なら勤めしてきた会社自体なくなってしまうことでもあり、
(体制が変わる意味はそれだけじゃないけど)、
当時の当主さんもいったん失職ということになった。

その時お上から皆に、今で言う退職金のようなものが出たんだけど。

財政難のため、
ご当主さんに支払われた当時の退職金うち、
一部が 牛 だったという。

牛?

現物支給?! いきもの支給?

当時の退職金って何で支払われてたか知らないけど、
牛ってあるの? びっくり。

わりと最近(といっても江戸明治)まで
生き物も立派に行き来する財産の一部だったんだー。それともたまたま?

物々交換の原始時代の価値観まで想像しちゃった。
金銀でできた大判小判の類ならともかく、
素材自体はさほど価値の高くないものが価値のあるお金による経済活動って、
思えば変わってる。


さて牛を受け取ったご当主さんは、
この時は消防車(?)を押して往復した)○○街道を、
自身で江戸から牛を引いて地元まで帰ったという・・・。

「えーー、アハハハハハ!大変そう。」

「そりゃ大変でしょう。人が一人で歩いても大変なんだから。」

江戸は遠いの。
牛を連れてあの峠を越え、牛と一緒にあの大川を船で渡りして。
人が歩くのと違って、牛には餌もやらなきゃならないし。

「牛は何頭?」

「退職金の全部じゃないから、一頭だったと思うけど。」


地元に帰った当主さんは、その一頭を育て牛を増やした。
牧場ができるほどに・・・。

で牧場を始めた、と。

各代の方々の本業は別として、牧場の所有はあとの代の人たちに引き継がれた。
戦時中は、牧場で牛さんの出してくれるミルクが、
食糧不足で栄養不足の母や周囲の人々にずいぶん助けになったそうだ。
遠いところから子供のために牛乳を頼みに来る人もいたそうだ。

はー。知らなかった。
宮沢賢治も、結核の妹トシのために、玉子や牛乳をなんとか手に入れて、
アイスクリームを作って看病したんだった。

生きるための牧場。
生きるための牛乳。

「牛乳の牧場だったの?」

「そう」


母がある程度成長する頃まで、その牧場はあり、
母たち兄弟も、牧場を手伝ったそうだ。

昭和の途中お祖父ちゃん(母の父)が、
牧場を市と、ゴルフ場、他に売却することにした。

牧場が好きだった母は、牧場を売ることを聞いた時、
祖父に、自分にゆずって、自分にやらせて、と頼んだそうだが、

祖父は「女が仕事をするものじゃない」(外の仕事、男の仕事という意味)
とかなんとかで、やらせてもらえなかったと言っていた。


私の初めての犬体験は、母の実家のコリー犬。
子供だった私は、コリー犬におんぶしてもらって遊んでもらった。
母の家がコリー犬を飼っていたのは、牧場の名残か。



母の夫(私の父)は、牧場のあとにできたゴルフ場の会員だけど。
これはたまたま。そこが良いコースだから。






けがに味噌を塗った話
・2011-08-21 立ち話

母の通った幼稚園史  明治、大正、昭和の園児たち
・2012-12-22 幼稚園史

母の家の言い伝え  母屋は無事だった・・・
・2011-04-07 国土の保全 知恵と伝承

母方の人々  いざ鎌倉江戸   忠義と消防  桜の文化
・2013-08-20 消防車 忠義 桜
by moriheiku | 2013-08-21 08:00 | 歴史と旅

消防車 忠義 桜



母方の建物は古く、今も広い土間がある。
その土間の一角に、大型の古びた箱型に車のついたのものがもうずっと置いてある。
あれは何と聞いたら、
母が子供の頃にはもうそこにあったそうだ。
それは昔の消防車のようなもの。
大きな箱型の中に水を入れ、手押しの柄で水が出るしくみ。

母によると
あれが前回動かされたのは、江戸から明治に移ってそうたたない頃。
幕藩体制がなくなり新政府がはじまって、当主はここ地元に戻ってきていた。

ある日江戸(東京)で大きな火事がおきていると聞いた当主は、
江戸が、お上(かみ)が大変だと、
すぐに消火のためこの手動消防車?を押して江戸(東京)に向かったそうだ。

「行くまでに、火、消えてるって!」(私)

当主は○○街道を江戸へ向かった。

「舗装してない道を、この車輪(木製)で!」(私)

「そうそう。○○峠も越えてね。そのあと○○も越えなきゃいけない」(母)

ここから東京は遠いの。
箱型の中に水が入っていない状態でも、押すにはかなり重いだろうこの昔の消防の車を。
何日かかかるだろうに。何人で行ったの。一人?

けれど街道の途中○○あたりで、江戸(東京)の火が鎮火したことを聞きおよび、
当主はそこから引き返してきたそうだ。
また消防の車を押して(あるいは引いて)。

屋敷に戻った時、消防の車は土間のその位置に置かれた。
以来ずっとそこに置かれたままだって。長っ。


もとはこの周囲に火事がおきた時、消火に使うため用意された。
以降動かす必要のなかったことは幸い。

今となっては笑い話のようなかなしいような顛末を聞きながら
「アハハハハハ」と笑ったけれど、

それは現代の私ののほほんとした感覚だからってことも、同時に感じてる。


当時の忠義の心のせつなさ、まっすぐさを思う。
結果的に長く戦がなかった江戸時代、
歴史の本や情報で当時の断片を見ると、
お城勤めばかりでなく日頃は畑を耕したり内職をしたりして日常を過ごしていた武士たちでも、
心身と技を鍛えることをやめておらず、
武士とその家族も、いざ何かが起きた時には、
身を捨てる覚悟があったことを思う。



桜の花は、

春の農耕の開始と、良い実りへの期待と結びつき、
満開のめでたさであり、
流れる時の一瞬を生きて死ぬ、くりかえし流転する、人やものの命と重ねられ、
武士においては、表に出さない覚悟の花でもあり。

桜は時代を生きた人々の思いと結んで、多くのモチーフになってきた。

桜の原産地はどの国かで桜の文化の起源や優劣を競い言い募るなど、
文化とは何かの実感のまるでない、ピントの外れた行為だ。




江戸や明治の人たちは、
中でも年配の方々の口から聞けば、ほんの数代前。
昔のおとぎ話の登場人物でなく、隣で息をして、
笑ったり食べたり悲しんだり、日常を共にした人たちの話は、
今生きている人のことを話すのと変わらない、生きた人々の息吹きがある。




年上の人のお話 

やけどに味噌を塗った話
・2011-08-21 立ち話

母の通った幼稚園史  明治、大正、昭和の園児たち
・2012-12-22 幼稚園史

母の家の言い伝え  母屋は無事だった・・・
・2011-04-07 国土の保全 知恵と伝承

母方の人々  牛を連れて帰る
・2013-08-21 牛と退職金 幕藩体制の終了
by moriheiku | 2013-08-20 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 454 共鳴 融通念仏



つづき


新聞をいくつかざっと読んでいた。
小澤征爾さんのインタビュー記事があった。

小澤さん。
“「みんなで響きをつくる快感を、若い時に一度でも味わっちゃうとね、一生音楽にとりつかれちゃうんです。社会人になってからも、アマチュアのコーラスに熱中してる人、いっぱいいるでしょ。美しいハーモニーのなかに、自分の声がとけこんでいる。そう実感することに、人生の本質のようなものがあると僕は思う」”


子供の頃の音楽の体験も、今の私の一部になってるんだろか。

“美しいハーモニーのなかに、自分の声がとけこんでいる。そう実感することに、人生の本質のようなものがあると”


いつも響きの一部ような、自他の境のない感覚がある。
こういうのは、理性より前にある、人間の感覚の根っこの方にあるものだと思う。


もの人は共振共鳴する。



子供時代の音楽の経験の名残か。
・2009-09-22 海中
・2010-03-17 井出くんの音
・2009-11-06 息を合わせる




念仏の響きが溶け合って和合する。融通念仏の発想も、
そうした感覚が影響していたと考える。

自然との共振共鳴 声の和合 融通念仏 
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏
万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。

後の時代から現代にいたるまでの表現「神“に”祈る」の場合、
神は自分から分離して「対象」になっている。

それより前の「神“を”祈る」は、神と自分が分離していない表現。

自然がひびけば自分もひびく(はやし)。
大昔は、自他の境のない、主客のない感覚があったと思う。

境がないから「対象」とならない。
自然との境のない、個々に相対化しようのないものだ。

自然と人の距離ができ自然を体感することから離れ、
身体感覚より優先するものができいって、
自他は分離していく。

自然と密だった原始的、実感的な信仰の時代を過ぎ、
やがて哲学的、観念的な思想を持つ宗教が誕生し、
風土や身体感覚を超えた精神的な救済へ向かおうとする。


日本の信仰の特徴として、
木も石も全てのものに命が宿っている、とか、
森羅万象全てに仏性がある、という考え方をあげられているのをよく見る。

私はそれは、
一人につき一つ心臓があるような、個別に神仏が宿るイメージでなく、
もともとは自他の境のないイノチの実感からきていたと思う。

念仏が溶け合って和合する融通念仏の発想も、
そんな感覚が影響していたと考える。




・2009-08-30 地続き
地鳴りがするような感じの土地に行けば、自分の身体が響くし。
あたたかい日があたっているのは、
自分の身体があたっているのか、土地があたっているのか、
虫が鳴いているのは、
自分のどこが聞いているのか鳴いているのか、
わからないような感じがすることがある。

つまり人も自然なので、
自然とは地続きなのだ。

自然にかぎりなく埋没する、没入したいということは、
自然と地続きの身体の自然な衝動としてわかる。




共振 共鳴 共感 と信仰の始まり
・2008-06-03 自然と我 06
自然に畏敬の念をおぼえ、
自然のありように、止まずときめくとき、

原始的な感覚が、身体を通じて、意識の底からのぼってきて、
具体的に何を祈るということはないけれども、

自、他の意識をはっきり分かれる前は、

自然や、
後の時代の神仏に祈る時は、
同時に、自分の中の自然を祈っている。

日本の信仰のはじまりに、
そんなところはなかったか。




「美しいハーモニーのなかに、自分の声がとけこんでいる」に似た感覚。
・2011-09-01 中世芸能の発生 411 こもる こもりく 参籠 たたなづく青垣
やまとはくにのまほろばたたなづくあおかきやまこもれるやまとしうるはし
大和は国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる 大和しうるはし

幾重にも重なる青々とした山の中で、もう私は無くなって、
青い山や自然の一部になっている感じ。

芸能のテーマともなっていった長い時代の、こもって再生する、
という日本の思想の原点には、

共感、共振、共鳴、(類感)という
すべてのものにあるごく基本的な性質があったと思う。




原始宗教。 人類学者フレイザーは、呪術を共感呪術と考えた。
・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応
人生哲学としての思想体系を持った宗教でない原始宗教の始まりは、
特に身体感覚と密接だったと感じている。

どろどろどんどんと地が鳴るような土地に立つと、
私の身体の細胞も沸き立って地鳴りがするよう。
ぴちぴちしたところに行けば、こちらもぴちぴちする。

身体は、土地に感応し、季節に感応する。

感応は、土地や季節ばかりでない。

音やリズムに同調し心が乗ることもそのひとつだろうし、
極めて日常的な
やわらかい日にあたって心がほどけたり、よい香に気持ちが静まること、
葉の鳴る音に心がざわめいたり、
うるさい音に精神が尖るのも、同じことだろうと思う。

自然物や人工物以外にも、人の発する声やことばの音調にもそれはあって、
例えば意味のない声であっても、
やさしい調子で言えばやさしいことばと同じ、やさしさが伝わり、
楽しい調子で言えば楽しいことばと同じ、楽しさが伝染する。

逆にどんなに丁寧な内容のあることばでも、
ののしる調子で言えば、それはののしることだ。

とまあ身近すぎる感応の例はともかく。

人類学者フレイザーは、呪術を共感呪術と考えた。
その呪術(共感呪術)には、類感呪術と感染呪術があるとした。

あるもの対して与える影響はそれに類似したものにも及ぶ(類感呪術)。
接触があったものは接触がなくなってからもつながりや作用が及ぶ(感染呪術)。


おめでたい場面でおめでたい言葉を言うこと、
逆に不吉な言葉をつつしむこと、
おせち料理に、だじゃれのように、
まめに暮らせるようにと黒豆、などと言われて作る習慣も、
類感のマジックを期待されたものだろう。

近代現代でも、
出征する兵士に渡された千人針の布は、感染呪術と言える。
またテレビで超能力者が行方不明者のスニーカーを手に持って
行方を探すなんていうのも感染呪術の一種で、
呪術の気持ちは現代にも忘れ去られてはいない。




梵鐘の響きと、もの人の共鳴  
・2013-01-10 中世芸能の発生 450 除夜の鐘 清め祓い 大乗の音
かつては、
年の明ける前の大晦日の夜に、
清らかな除夜の鐘の音を隅々まで響かせて、

清らかな梵鐘の響きに自然も土地も(国土草木)人も清まって、
新しい年を迎えようとした。





共振、共鳴、響きから展開した習俗  音や響きの利用と呪術化 (芸能化)
・2010-06-15 中世芸能の発生 324 後戸 後堂 しんとくまる
仏殿の後戸の芸能。
正月の修二会、修正会。呪師のオコナイ。
哲学的、抽象的な思想の芯にある古い習俗は、身体感に基づく。



つづく
by moriheiku | 2013-03-04 08:00 | 歴史と旅

街道の市(いち)


今年も街道の市(いち)へ行った。

昔ながらの酒屋さんで、
お料理に使う美味しい新酒の酒粕を、去年の倍買った。

街道に並ぶ屋台の間を通って、髪に屋台のにおいがついた。

植木の出店はにぎわいのおわりのほう。ここは大人ばかり。


一昨年は、みぞれの下に咲いていた、あの清潔な白梅の花は、
まだ丸い蕾だった。






◆ イチ  の 「イ」

・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ
古代の市(イチ)は、ミチ(道)を通って、
文物や人やさまざまのものの交錯するところで、
イノチやチカラ、つまり活気のあつまるところと考えられた。
古代の人は活気を、一種の力と考えていた。

「イチ」(市)の語を構成する「イ」の一音節は、
元来、
生命力・霊力の横溢する状態を意味。

その「イ」の音のイメージは、
たとえば今も「厳(いつ)」「いかし(厳し)」の語に感じられるように、
たけだけしいほどの
自然の生命力(昔の人にとっては呪力、霊力でもあった力)の横溢。

人々はそういう性質や力をやがて霊威・神威と考えるようになって、
元来の「イ」の性質を表す「イ」という一音節が
様々の神聖なものをあらわす語に用いられていったと考えられる。
(古代における神聖とは、生命力・霊力の強さ
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは


「イ」を語根とすることば
----------------------------------------------------------
いか・し 【▽厳し】 (大辞林)
(1)霊威が盛んである。神秘的な力に満ちている。
(2)たけだけしい。荒々しい。

いつ 【▽厳/〈稜威〉】 (大辞林)
(1)神聖であること。斎(い)み清められていること。
(2)勢いの激しいこと。威力が強いこと。
----------------------------------------------------------
いつ・いち【厳】 → 「いちはやぶる」 → 枕詞の「ちはやぶる」

例えば厳島(いつくしま)神社のある厳島(いつくしま)は、
「イ」の横溢する島。と、ことばの音から感じられる。
同時に、厳島(いつくしま)という言葉の中に「イ」があるのだという感覚。
・2008-10-03 中世の人の感性


元来、日本の「イノリ」(祈り)とは、
抽象的な神に敬虔な願いを捧げるような新しい祈りでなく、
たけだけしい「イ」を宣(ノ)る強い行為であったこと。
・2010-06-05 中世芸能の発生 320 祈(イノ)リ イ罵(ノ)り

このように古い時代の「イノリ」は、
強い行為によって効果の伝染を期待する身体的実感を元にした行為で。

それは、自分から分離した遠ところにある抽象的な神などの存在に祈るものでなく、
イノリの対象が自分とつながっているという、
自他が分離していない、したがって伝染する、という
身体的実感に基づくものであったことがことばや歌からもわかる。



他、「イ」の性質を含む行為の例  斎(い)む 忌(い)む 祝う 呪(いは)う
・2010-02-06 中世芸能の発生 270 イハフ
・2010-02-07 中世芸能の発生 271 イハフ言葉 イハフ行動
・2010-02-08 中世芸能の発生 272 マツル
・2010-02-09 中世芸能の発生 273 イム




◆ イチ  の 「チ」

・2012-02-14 中世芸能の発生 426 道(ミチ)のチ
・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花
漢字より前からの古い時代の「チ」の音を含む語、例えば
「ミチ」(道)、「チ」(血)、「チチ」(乳)、「ヲロチ」(大蛇)、「イノチ」(命)、等々は、
「チ」の音のあらわす種類の性質を内蔵するという感覚に基づき
「チ」の一音節を語根としたことば。

イノチ」は「イ」の「チ」であって、
「イ」は生命、「チ」はチカラ(力)。

例えば「イカツチ」(雷)は「イ」変化の「イカ」つ「チ」。
「カグツチ」は「カグ」つ「チ」。
「チ(血)」「チチ(乳)」「ミチ(道)」「ヲロチ(大蛇)」他、
これら名詞は生命力・霊力をしての「チ」の性質を内蔵するという観念に基づく。

また「チカラ(力)」は「チ・カラ」で、「カラ」はウカラ・ヤカラのカラと同じ。

つまり「チカラ」は「チ」そのもの、霊力・霊威の観念を顕す語とみられる。

昔、租稲・租税を「チカラ」と言った。(例:主税寮 ちからのつかさ)
今も秋祭りでその年の初めの収穫を神前に奉ずるが、
それは最も「チ」に満ちていると考えられていた最初の収穫を神(王)へ捧げ、
繁栄を願う(イハフ)行為だった。

「チ」を語根とする動詞の「チハフ」は、「チ」の恩恵的な働きを意味する。
また「チハヤブル」は、「チ」が烈しく活動する意で、
「チ」には、恩恵的な働きと、破壊的な働きとの両面がある。

語源的には、
チは、力そのもの。

静でない動的なありかた、チの性質そのものがチ。



イチの分配。厄除けのおまんじゅうの分配。去年の市。
・2012-02-15 中世芸能の発生 427 厄除けのおまんじゅうの分配
・2012-02-12 中世芸能の発生 424 市(イチ)
by moriheiku | 2013-02-09 08:00 | つれづれ

中世芸能の発生 453 日本の命の概念



つづき

日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も、

と昔の日本人は思っていた。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚が、やがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。
日本の信仰の流れ。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、岩にも木にも仏がいるとされてきた。
古来の日本の神の概念と、大陸的な神の概念とは違う。


こうした古来の命の感覚の流れから、
日本では、例えば人工物である刀の持つ力・性質を神として祀ることになり、
なにかの中の鎮まらない力、あらぶる力も、神となっていった。

日本の神はたとえば全知全能の神という観念とは異なる。あたりまえだけど・・・。


日本の信仰の行為ないし芸能の行為の根本は、
こうした力に伝染する(=あやかる)ことを期待するもの。
またはその力をなだめ、慰めコントロールしようとするもの。

神威の満ちた祓い串で穢れを祓う行為も、
寺社で神仏にささげるため行われる法楽の芸能なども、
願いをかなえようとする重いとともに複雑化形式化したが、もともとはそれだ。

寺社で買うお守りなどの授与品は、
その横溢する力の及ぶものを受け取ることで
その力が自分に伝染しますように(=あやかりますように)と期待した、
遠い昔からの人々の切実な願いの行為の伝統だ。

お相撲さんにぴちぴちさわるのも、
お相撲さんの晴れ晴れとした強いイの伝染を無意識に期待してのことと思う。



現代の日本人も、大樹のもとでその生命感に圧倒される。
ぴちぴちした新鮮な食べ物を食べると、元気になる気がする。
とどろくイナヅマと閃光に、恐怖したり興奮する。
やわらかい香りに気分は落ち着き、
力士の体のぶつかり合いや超人的なスピードで走る走者心身は湧き立つ。


日本におけるイノチとは何か(何だったか)
自然の中に一歩入ったり、万葉集や古い詞章を少し聞けば、身体でわかる。


こうした古来の命の考え方をベースに置かずに、
日本の神を議論するのは、おかしいと思う。



神の系譜を追っても、けして信仰の本質にはたどりつけない。むしろ離れる。

古い芸能も同じこと。




神について説明もできず、説明もせず、
靖国神社などに勝手な理屈解釈でねじこまれるばかばかしさ。

なぜたったそのくらいのこと政治家さんがたは説明しないのだろう。






万葉集歌にみるイノチ
・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花
「イノチ」は、「イ」の「チ」でのことで、
「イ」は生命、「チ」はチカラ(力)の意。

「イ」の印象は、たけだけしい厳(いか)しの語でイメージしやすいだろうか。
例えば「イカツチ」(雷)は「イ」変化の「イカ」つ「チ」。
「カグツチ」は「カグ」つ「チ」。
「チ(血)」「チチ(乳)」「ミチ(道)」「ヲロチ(大蛇)」他、
これら名詞は生命力・霊力をしての「チ」の性質を内蔵するという観念に基づく。

また「チカラ(力)」は「チ・カラ」で、「カラ」はウカラ・ヤカラのカラと同じ。
つまり「チカラ」は「チ」そのもの、霊力・霊威の観念を顕す語とみられる。

イノチとは、「イ」の「チ」。強い命の力。




・2013-01-11 君が代 03
日本の古いことほぎの伝統。
そのおまじないのような、切実な祈りの習俗。

ことほぎは、自然に寄せてイノチが盛んで栄えることを祈る。
横溢する自然の命の祝福がイノチに反映するように願われた。

ことほぎの特長は、
周囲と無関係に個人を祈るものではないということ。

つながりあっている森羅万象、国土草木(山川草木)、全てのイノチが、
共に盛んであればこそのもので、
共に盛んで長く栄えることを祈る共栄の思想に基づく。

これは抽象的で体系化された思想ができるより前からの、
自然で素朴、原始的な、身体的な共感の感覚に基づくいている。
こうした類感の感覚が日本文化のベースにある。

という伝統の末にある「君が代」について。




つづく
by moriheiku | 2013-02-08 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 452 狩りという行為の神聖 狩人 武士 弓矢 



つづき


たとえば犬の温かい毛に指を埋めて首を撫でてる時。
生きるために獲物となる生きものを殺すことのこわさを思ったりする。

こうした息をしているものを殺すことは、
ただならぬエネルギーの要ること。

その行為自体がエネルギーだ。



古い祭祀の道具や古墳の副葬品に、狩りの様子が描かれてる。
もちろんそこに描かれた画は、単なる景色や風俗を描いたものじゃない。


祭祀の道具や古墳など神聖なものや場所に狩りの様子が描かれたのは、
狩りの獲物が大変貴重な自然の恵みだからというだけではなく、
野生の獲物の強い生命力への憧れだけでもなく、

きっと狩りという行為自体にある激しいエネルギーも全部こみで
狩りが神聖ととらえられていたためだと思う。


日本の古代における神聖とは、
現代にイメージされる神聖と少し異なっている。

たとえば古い詞章や歌に見る、古代における「神聖」の観念内容は、
生命力の強い状態のことであり、必ずしも清浄・タブーにつながらない。

土橋寛(著) 『日本語に探る古代信仰』
古代における「神聖」とは、生命力の強い状態。
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは
古事記、日本書紀の元来生命力・霊力を意味する語「イ」の語と、「イ」の変化と用例から。


古い詞章や歌、習俗を見れば、
昔の日本人は、命が盛んな状態であることに何よりも憧れていた。
(生命を活発化させ再生させようとするタマフリの習俗等)
現在のおはらいも、もとは
強い生命力(昔の人が霊力、呪力ととらえた)を伝染させることで命を強化し、
その結果魔やケガレが払われる、という成り立ちのものだ。
(現在のような神威で魔やケガレを払うという考え方は、
ものにある生命力を霊や神と概念するようになっていってからの考え方)

日本の古い呪術や信仰は、
まず命(生命力)を盛んにすることが基本にある印象だ。

古代人にとってのイノチとは。

命イノチということば自体、「イ」の「チ」、
たけだけしい命(イ)のチカラ(チ)ということば。
・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花
・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ
・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方と違いがある。
昔の日本人は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命ととらえていたこと。


芸能と呪術や信仰が分離する前の芸能も、こういった性質のもので、
説経、浄瑠璃、唱導、猿楽、イノチの復活、死と再生を語るものの多いこと。
(芸術と信仰、芸術と生活が分けてとらえられるようになったのは、
長い歴史から見れば最近のことだ。)


古い祭祀の道具や古墳に、狩りの様子が描かれた。

狩りは縄文時代から主要に描かれたてきたもののひとつだが、
狩に関わるモチーフとして、
獲物となる旺盛な野生してのシカ、イノシシ、魚だけでなく、
弓矢や狩人を、
それから狩り全体の様子描かれていることにはやはり意味があると考えられる。


祭祀の道具や古墳に描かれた画に描かれるモチーフは限られている。
たとえば歴史の教科書で見ることがあるような
死者を死者の国へ運ぶ乗り物としての船、馬、船を導く鳥、太陽、亀、
シャーマン、祭祀する人、祭祀する人の持っているヒレ等の呪具、三角の頭巾、
祭祀をつかさどる人や死者の家(神殿)、聖樹、等は、
現代の絵画とは異なる意識で描かれている。

これらは描くことで描いたものの効果が発揮されることが期待された
約束のモチーフ。
願いの伴う呪的な画であるほど余計なものは描かれない。

これらモチーフを画くことは、
昔の人々が描かれたものに宿る強い力がその場へ及ぶことを期待して行ったもので、
描かれた場所や対象に描いたものの激しいエネルギーを満たそうとする行為だった。

たとえば古墳に描かれた鉾には、
鉾に宿るエネルギーをそこへ満たすことで魔を切り払って
死者の死後の旅を守る意味があった。


したがってかつて祭祀の道具や古墳に狩りの様子が描かれていたことは、
旺盛な命である獲物(さち)だけが神聖だったのでなく、
獲物(さち)を獲る弓矢だけが神聖だったのでもなく、
獲物(さち)を獲る狩人だけが神聖だったのでもなく、
昔の人々にとって、狩りという激しい命の力の発揮の行為自体が、
(古代的意味での)神聖と、感じられ(考えられ)ていたということだと思う。



自然の勢い(昔の人が考えた命。エネルギーのようなもの)に触れるとき、
やはり狩りという行為の激しい命の力の発揮が、神聖だったのだと思う。(結局主観か…)



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たとえば古代の人々にとって、
古墳に刀をおさめたり古墳の壁に刀を描くことは、
刀に宿るエネルギーをそこへ満たすことで魔を切り払って
死者の死後の旅を守る意味があったと考えられる。

こうした何かにある力にあずかる意識は、
さらに時代を下ると、
神仏のお守りを身に着けることで神仏の霊験に“あやかる”とか厄をよける
という意味にも変化していく。

このように、激しいエネルギー、横溢する生命力で満たすことで
結果として魔、穢れは祓われるという概念と、
もともとのタマフリやケガレ(気枯れ)の観念は同じ根。

古い時代からの、類感の習俗の水流だ。


日本で、
祭祀の道具や古墳の壁画などに描かれた呪術的意味のある画が、
やがて松や鶴など目出度いものを描く吉祥の祝福の障壁画になり、
美しさで心を動かす画になり、
禅者の到達した禅的境地を映す画になり、
現代では画家の心象を描く絵になり、等々、

絵画の変遷と分岐の経緯を感じる。


これら思想・文化の変遷。

私はその根元にあるものと、
それに重なり、影響を受け、混ざりあう思想や文化の変化のさまを、
動く天気図の中に立って見ているように、

実感しようと、

ただそれだけ。





奈良時代(『万葉集』)、
狩りの獲物のことを「さち」と言った。
獲物(さち 幸)をとる矢は「さつや」、獲物をとる人は「さつを」と言った。

語源的には獲物「サチ」の「サ」は、
古代における神聖なものにつく接頭語。「チ」はチカラ。
「サチ」は神聖な生命力にあふれた力、転じて神聖な生命力に満ちているものを指した。
それが海のサチ、山のサチ。

それを獲得する矢を「さつや」、
獲物をとる狩人を「さつを」という。
この呼び名は、
さち(神聖な強い生命力)を獲得するものであり「さち神聖な生命力」を含む祝福の名だ。

(したがって当時、戦いに用いる矢をさつやと言わない。)

・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承



五月の節句でもおなじみの、弓矢は今でも魔除けの印。

中世期あたりまでの武士が、
後世に武士の魂と言われるようになった刀よりも弓箭(弓矢)を重視し、
その頃、武士の生き方が弓箭の道と言われていたことは、

当時実戦において刀より弓矢が有利だったからというだけでなく、
遠い時代、狩りという行為自体にあった、
たけだけしいほど盛んな生命力と対面する神聖の記憶が、
その頃までまだかろうじて保たれていたということもあったのではないだろうか。

私はその記憶は、北面の武士の頃まではあったと思う。
・2009-04-17 中世芸能の発生 112 弓と北面の武士


北面の武士が置かれていた時代、
武士自身が殺生の罪の狭間にあって、
武士の出家が相次いだ。

様々の思想の転換期だった。



時代が流れて、いきものの殺生肉食は、
野蛮や残酷という方向へ重心が傾いていく。

イオマンテのように、
世界中で行われてきた共同体で大切にしていた生き物の命を殺して共食することは、
皆で命の実感を新たにし、
命の循環と、自然への畏れと、命を大切にする儀式でもあるのかな、と
神道の祭礼の直会(なおらい)の共食共飲の習俗とあわせ想像する。



あーうまく言えたらいいのに。




猟は残酷か?
・2013-02-07 中世芸能の発生 451 『ぼくは猟師になった』 殺生 肉食 イオマンテ
“動物の肉を食べるということは、かなりの労力を費やす一大事です。ありきたりな意見ですが、スーパーでパック詰めの肉が売られているのを当然と思い、その肉にかけられた労力を想像しなくなっている状況はおかしいと思います。誰かが育て、誰かがその命を奪い、解体して肉にしているのです。狩猟は残酷だと言う人がよくいますが、その動物に思いをはせず、お金だけ払い買って食べることも、僕からしたら残酷だと思います。”
若手猟師さんの書かれた猟のある暮らし。

それから、など古典と資料に見る、
日本の古来の肉食と、新しく入ってきた仏教における殺生肉食の戒とのきしみについて。




古墳副葬品の造形と意味
・2011-09-26 中世芸能の発生 415 太刀 剣
古墳の船 太刀 衣笠 杖 




寺院開山縁起に見る狩人の聖性。 古来の神聖と、その変化の過程。 
・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承
昔、獲物(さち 幸)をとる矢を「さつや」、
獲物をとる人を「さつを」と言った。

万葉以前は、獲物のことをさち、幸(さち)と言った。
神話のうみさちひこ(海幸彦)、やまさちひこ(山幸彦)。

「サチ」は、「サ・チ」。
「サ・チ」の「サ」は、神聖なものにつく接頭語。
「サ・チ」の「チ」は、「チ」はイノチの「チ」チカラ(チ・カラ)の「チ」。
「サチ」は、神聖な生命力にあふれた力。
転じて神聖な生命力に満ちているものを指す。
山海に産するもの。野生の獲物も。

「サチ」を獲る者は、「サチ」を得る者。「サチ」に連なる者。

現在も見る弓矢の帯びる聖性は、
狩猟がサチを得るものだったことからきている。

弓矢の神聖性は、野生の生命力につながっている。

だから、どんなに破壊力が大きくても、
原子爆弾は信仰の対象にならない。


白山や熊野、高野山、他、各地の寺院開山の縁起に、
土地の狩人がその場所を知り、
聖者(僧)を案内したという伝承が数多くある。

その狩人たちは、古来の民俗信仰の、
霊地を見つけ、そこの山の神の元でサチに連なっていた人々を指し、

開山伝説には
狩りが神聖だった時代の原始的な自然信仰の色濃い民俗信仰に
仏教が重なっていく経緯が表されていると思う。



奈良時代、万葉集でも、
獲物(さち 幸)をとる矢を「さつや」、獲物をとる人を「さつを」と言った。
「サチ」は神聖な生命力にあふれた力、転じて神聖な生命力に満ちているものを指した。
海のサチ、山のサチ。
それを獲得する矢が「さつや」、獲物をとる人を「さつを」。
狩る道具と狩る人にある、命を獲得する力への、祝福を含む名だ。




土橋寛。 『古事記』『日本書紀』に見る古代における神聖とは
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは
古代における神聖とは、現代的のタブーや清浄の意と異なる。
神聖な状態とは、生命力の横溢する状態。

・2010-03-16 中世芸能の発生 297 土地の木



北面の武士 弓矢 魔除
・2009-04-17 中世芸能の発生 112 弓と北面の武士
弓矢が魔よけとなるのは、
単に戦で用いた強い武具であるからという理由でない。

弓矢は原始的な、横溢する生命力という根源とつながっているからこそ魔よけ。

獲物(サチ サ=神聖な チ=チカラ) という旺盛な生命力を獲得する、
神聖な力に満ちていると考えられたから魔除け。

いくら破壊力が強くても原子爆弾は
弓矢の魔除けにとってかわらない。

だから神事芸能の中で流鏑馬がとり行われ、
武士がそれを務めた。

院に仕える北面の武士は、
院の御所の北に詰め所が置かれたため
北面の武士と言われた。

これはただ方角を指しているのでなくて、つまり北の守。
都の配置と同じ。北の山。
北面ということばに背後の守りの意味が重なる。 
北を守る毘沙門天とイメージも重ねられた。

強い命の力で魔をはらい
魔がはらわれることによって幸をもたらす弓矢を携え
背後にあって院を守るのが北面の武士。


姿良く、文武に優れていたという北面の大将たち。かっこいー。
華やかな立場である反面殿上人と地下人の境でもあって、北面の悩みは深かったようだ。
西行とか文覚とか、清盛とかも・・。あ、文覚って面白い人だけどちょっと・・・。



・2009-04-17 中世芸能の発生 111 弓箭の道
「弓箭の道」は
・武芸。武道。
・武士の守るべき道。武士道。
の意(大辞林)。「弓馬の道」も同。

弓箭の「箭」は、「矢」のこと。

武士をあらわすものとして弓箭(弓矢)ということばが使われた。
弓と矢、あるいは、弓と馬だ。

武士は「弓取り」とも言われた。

万葉集の中に出る弓箭ということばと仏教。山上憶良。沈痾自哀文。




◇漁の喜び

狩猟は“栽培以前”ではないこと。
・2009-09-23 中世芸能の発生 203 狩猟 採取
鵜匠の山下純司さんがテレビで、

鵜匠の山下純司さんがテレビで、
魚は育つものでなく、湧(わ)くものだったと、
とおっしゃっていた。

むかしむかしのこと。

栽培したり育てたりしない。

川の魚は、太陽と水と森の養分だけで、無限に湧いて、
我々(人)はそれをとって食べて生きた。

それがサチ、命の力でなくてなんだろう。

季節に木の芽が芽吹くように、河に魚が湧く。
現代の山下さんのひとことを通って今にいきいきとあらわれる感覚。

昔、山河のものを食べることは、そうしたサチをいただくこと。
命の力を身体にうつすことだった。


山河や海での狩猟や採取は、
栽培以前、でなく、

栽培とはちがう、
くりかえす自然の生命力に対する深い気持ちがあっただろう。


鵜匠の山下さんのことば。
実感のある人のことばに、感覚の口が開(あ)く。
まるで古代の芸能のようだ。



毎年訪れる季節への期待  万葉集  鵜飼漁
・2009-09-06 毎年に鮎し走らば
自然の中で漁をする喜びは、
毎年おとずれる季節の木の芽を採る喜びやめでたさに似ていたと思うから。
それがどうしてそれほど罪深いものとされてしまったものか。

家持のこの歌のみずみずしさ。

夏の鵜飼漁。
毎年訪れる季節への期待。
旅情。
肌に季節の川辺の風が吹くようだ。




◇漁の苦悩 殺生の苦悩

殺生と地獄 中世の鵜飼 今様歌 遊女の歌
・2009-02-11 中世芸能の発生 67 船の上の遊女 お能『江口』
鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し 鵜の首を結ひ 現世はかくてもありぬべし 後生我が身をいかにせん
哀しい歌ね。

“ 鵜の餌に、万劫も生きる亀を殺し、鵜の首を結んで鮎を吐かせている。現世はそうしても過ごせようが、後生はその身をどうするのだろうか。亀を殺したり、鵜を酷使する鵜飼は来世には地獄に落ちるというのに、その生業に勤しむ鵜飼をいとおしい、と詠んでいる。”

同じく梁塵秘抄の遊女の歌。
淀河の底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめく いとほしや

鵜飼の罪の深さは、遊女自身の罪の深さに思われるのだろう。
遊女が船の上から見た、川底の、鵜に食われてきりきりもがく鮎の姿は、
自分自身にも思われたろう。

きっと我が身も、地獄に落ちるのでしょう。そう思ったのだろう。

遊女であることはあなた(遊女)の作った罪ではないのに。
いとおしや。





・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって昔の日本では、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚がやがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、
岩にも木にも仏がいるという理解になっていった。
日本の信仰の流れ。




私の遊び 実感の遊び
・2009-03-01 草の息



つづく
by moriheiku | 2013-02-07 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 451 『ぼくは猟師になった』 殺生 肉食 イオマンテ



つづき

『ぼくは猟師になった』 千松信也(著)

千松さんは若手の猟師。
自然豊かな中で子供時代を過ごされた。
猟をする生活に惹かれるようになったが身近に猟師はおらず。
猟師になるための本などなく、実際の猟師の暮らしに接する機会はなかった。
大学在学中、狩猟免許を取得。アルバイト先の会社で先輩猟師に出会い学ぶ。
現在も同じ運送会社で働きながら、主にイノシシやシカを獲るワナ猟をされている。
京都在住。


千松さんが主にする猟はイノシシやシカを獲るワナ猟。
動物たちとの知恵比べの要素が強い印象からワナ猟をと思われたようだ。
動物と対等に対峙する感じなのかな。

猟期の間は毎日、山中にしかけたワナを見まわる必要がある。
そのためワナをかける範囲を歩いて回れる範囲にされている。

猟をする方々には特別な目があって、
同じ山中に私たちに見えないけもの道を見ている。

けもの道に残された動物が身体に付いた泥を擦りつけた跡や、
枯葉を掘り起こした鼻跡などで、
猟師さん方は、動物の種類やサイズ、頭数や雌雄を推測することができる。

例えばなんだったかな、
ある動物の雄一頭、雌二頭、子供何頭が何時ごろまでここにいたけど、
その後どこどこをまわって明け方どこどこへ行ったというような、
ベテラン猟師さんがまるで目で見ていたようにお話しされる様子は痛快。
感嘆し、その生き生きした力に心が湧く。


『ぼくは猟師になった』の中に
ワナ猟の道具や作り方、設置場所など説明があった。

季節と共に移り変わる獲物や木の実や葉など自然の恵みについてや、
そこに住む動物たちの関係、
条件が全く同じことはないためワナをしかける毎に工夫される猟の様子を読むと、

猟は身体全体で総合的に知恵を働かせてするものなのだなあ、と思う。


イノシシやシカの解体は、
慣れた今も二人がかりで一頭に四、五時間かかるそうだ。

腹を割く際はナイフの刃を上向きに使い、胃や腸などを傷つけないように注意するそう。
胃や腸が破れて内容物が出てしまうと肉に臭みがつく。
胆のうを破らないこと。肉が苦くなる。膀胱のあつかい。
血がまわらないようにする血管の切り方。
早く獲物の熱をとり肉の傷みを進ませない、等々解体の注意点は、
知識と経験の動作で、やはり知恵ということばが合う気がした。

猟をはじめられた頃は、
夕方に解体をはじめて精肉が終わる頃には、
すっかり明るくなっていたこともあったそうだ。


獲物の肉のこともたくさん書かれてる。
野生肉は臭い硬いと思われることも多いが本当はとてもおいしいって。
無駄なくおいしく食べるため
肉の種類にあった調理の他、革や爪などの利用についても。



自分で食べる肉を自分で調達する千松さん。

『ぼくは猟師になった』を読んで私は、
ワナをかけること、獲物を獲ること、
臓器、骨、革ひとつひとつの処理の仕方を知ること、
その肉をおいしく食べることは、
その動物を知るということだと思った。

それは身体で自然を知ることだと思う。



画家の池田満寿夫さんが (ご存命の頃なので1990年代だと思うけど)、
テレビでピカソのキュビズムについて説明されていた。
お話中池田さんがアボリジニの人たちの描く絵について少しふれられた。

日本人が犬の絵を描くと、犬の外見の絵を描く。
アボリジニの人たちに犬の絵を描いてというと犬の内臓も描くというものだった。
(胴体部分に内臓が描かれていたりして)

アボリジニの絵のことはお話全体の一部だったけれど、
私はああと腑に落ちる感じがして、このことがとても印象に残った。

アボリジニの方々にとって
内臓までこみで犬、ということだろう。




仏教では殺生と肉食を禁じる戒がある。
日本で仏教が公式に取り入れられたのは中央集権が概ね形をなした奈良時代。

はじめて殺生と肉食を禁ずる令が出されたのは天武天皇の時代。
(ただし興味深いことにこの禁令は、時期と動物の種類を限ったもので、
古墳や銅鐸の線画にもなじみのシカやイノシシは禁じられていなかった。)

仏教の戒の他、人の手のかかった食物を避け
自然のものを食べて超人的な力を得ようとする(仙人になるとする)
神仙思想の影響と習合もあり、

仏教が一般化していく奈良時代から平安時代にかけて、
それまでは野生の旺盛な生命力を獲得するものとして
神聖とされていた野生の命を獲る人たちは、
殺生する人、死穢に近い人として、罪や恐れの対象に見方が変化してきて、
立場を落としていった。


仏教説話集『日本霊異記』に、
殺生や肉食についての物語(説話)が出てくる。
以降の『今昔物語集』他の説話集にも殺生と肉食の罪が説かれた話は数多い。

『日本霊異記』は、民衆への仏教の布教教化のため、
教義の内容をわかりやすく物語にしたてたものを採集しまとめた説話集。

編纂は平安時代初期であることから、
収録された説話は平安時代より前の奈良時代にあったものと考えられる。

『日本霊異記』は流布していた話を採集したものであると同時に、
説教唱導する僧たちのテキストにもなったものだろうか。

『日本霊異記』をまとめた薬師寺の僧景戒自身、もとは私度僧だった人で、
人々を仏教に導くため説話物語して歩いた僧や聖たちの姿は、景戒自身に重なる。
・2009-05-25 中世芸能の発生 133 俗の土壌


殺生肉食についての物語(説話)は、
古来の殺生肉食のある人の暮らしと新しい殺生肉食の忌避の思想の間の
きしみととまどいをなじませるための物語だ。
『日本霊異記』や『万葉集』を読むとその過渡期にあることがリアルに感じられる。

奈良時代には迷いの過程にあった様子がうかがえるが、
時代を経ると殺生肉食について語られた説話はいっそうダイレクトに仏教に結び付く。

漁師や猟師、武士等、
殺生に関わるなりわいで生きる人々自身が
仏教に照らせば後生は殺生を犯した罪で地獄で苦しむと
信じるようになっていったことは、
中世の流行歌今様や、猿楽(お能)の中にも語られる。
・2009-02-11 中世芸能の発生 67 船の上の遊女 お能『江口』



狩猟は残酷か?について千松さんはご自身の考えを書かれている。

千松さんは狩猟に興味があり解体に参加したい友人などを呼ぶことがあるそうだ。
それは千松さんが
狩猟に対するマイナスイメージや誤解をなくしていくのに、自分で肉を処理してもらうのは非常に効果的ではないかと考えていること、
また、野生動物は臭いと思っている人も多いので、きっちりさばいた肉を食べてもらい、そのおいしさを実感してもらうことも狩猟のイメージ向上に役立つ、
という思いから。

ご友人方の感想は、
解体のあとのご相伴を期待し参加した友人たちもへとへとになり「肉ってこんなに手間暇がかかるもんなんやなあ」ともらしていたものでした。
とのこと。

“動物の肉を食べるということは、かなりの労力を費やす一大事です。ありきたりな意見ですが、スーパーでパック詰めの肉が売られているのを当然と思い、その肉にかけられた労力を想像しなくなっている状況はおかしいと思います。誰かが育て、誰かがその命を奪い、解体して肉にしているのです。狩猟は残酷だと言う人がよくいますが、その動物に思いをはせず、お金だけ払い買って食べることも、僕からしたら残酷だと思います。”


千松さんは猟を通じ自然の命との関係と直になる暮らしをされているけれども、

猟と縁の薄い人も、千松さんのようには実感できなくても、
自然の中に少し入れば、様々な命が循環していること、
無限と思えるほど様々のものが無数に関わりあっていることは、
身体でわかるのではないかなと私は思う。野の草一本にも。



本の中で
アイヌの人々が行ってきたイオマンテ(熊送り)についても少しふれられていた。

ネットで見てみたところ、
皆で大切に育てた熊を殺して送るイオマンテの儀式は、
残酷・野蛮として1955年にほとんどが禁止された。
2007年52年ぶりに禁止の通達が撤回されたよう。


イオマンテ(イヨマンテ)は、
もちろん熊を殺し魂を熊(神)の国へ送るだけのものでなく、
魂を送ったあと熊の肉や革などを皆で分け合う。
送られた熊はまた肉と毛皮を土産に携え人間界に戻ってくる、
という考え方のもの

熊の肉や革を皆で分け合うことは熊(神)の力の分配だろう。
神道の祭礼の最後に神饌を皆でいただく共食の直会(なおらい)の意識と同じ。
民俗信仰が体系化され神道となる前の発想から展開した習俗だ。

この発想の植物版の一つは年末の松迎え。
年末に山からこれという松を伐ってきて各家に分けてまつる行事(神事)。
輝く木の命を分けてその生命力にあずかろうとする行為で、
やはり神聖な力、生命力の分配だ。


千松さんは自然も街も近い京都で、
自然のサイクルの中で猟をしながら現代の暮らしをされている方。
“そうした考えにふれると、人間が生態系の頂点に位置していると思いこみ、多くの動物を工場のような施設で飼育・肥大化させ、考えなしにむさぼり食べている現代のほうが野蛮に思えてきます。”
という感想は、命の実感に近い人のことばと思った。


“ この本を出してから、「プロの猟師にならないんですか?」と聞かれる。目指すところが違う。僕はあくまでも「自分で食べる肉は自分で責任をもって調達する」ために量をしているわけで、それを人に販売して商売にし始めたら本末転倒です。獲物である動物たちとの距離も多くなってしまうように思います。 森林生態系を守るためにシカの生息数を減らそう!などと言ってがんばって猟に精を出すのもあまり性に合いません。”


千松さんは、万葉集の時代なら「さつを」だー。
・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承
万葉集の時代、
獲物(さち 幸)をとる矢を「さつや」、獲物をとる人を「さつを」と言った。
「サチ」の「サ」は、神聖なものにつく接頭語。「チ」はチカラ。
「サチ」は神聖な生命力にあふれた力、転じて神聖な生命力に満ちているものを指した。
それが海のサチ、山のサチ。



誰のことばも借りていない、千松さんの文章。

誰かの人生を通って出てくる実感のあることば、
こうした人々の文や和歌にふれることはよろこびだ。

万葉集よりも古今集の方が歌は洗練されている。
それでも万葉集に実感の、自然の息が満ち満ちてる。

誰かの人生を通って出てくる実感のあることばは、
生き生きした命のように輝いている。

私はそういうことばを呼吸していたいと思う。





アボリジニの描いた犬。内臓まで含めて犬。
・2007-04-26 小さいほうき


・2010-09-22 ニュートラル
人は、外で遊べばいい。
辞書で見るより、葉っぱに触れることで、葉っぱを理解できる。
それは近道であり全体性を知ることになると思う。

匂いがする、手触りがある、
葉っぱに触れた時夜空は暗かった、風が吹いていた、ちぎった葉脈に露がついていた、
広い情報が一度に蓄えられる。
比較的偏らずその物の全体像を捉えられる。
神経細胞が結びつくようにそこから様々の情報は結びあい像を結んでいく。

言語や感情や脳みそやだけに頼るのは、偏った
永遠にたどり着くことのない遠回り。



食と香り、薬などの境のないことは、古くからある植物の用いられ方の典型。
・2011-02-24 中世芸能の発生 382 ビターオレンジ ダイダイ(橙)
柑橘のダイダイ(橙)。
食と香り、薬などの境のないことは、古くからある植物の用いられ方の典型。

現代では別のものと考えられることの多い食、香、薬等の境界は
時代をさかのぼるほどなくなる。

時代をさかのぼるほど、概念の境界は重なり、消えていく。
つまりこうした概念の境界がなかったということだ。

こうしたもののとらえかたは、教科書で学ぶことよりそのものの本質に近く思われる。
現代よりも、そのものの全体をひとつのものとしてとらえていたように思う。

五感というか、身体的経験によって
対象(この場合ならダイダイ=ビターオレンジ♪)の性質をとらえていたと思われる。

柑橘は世界中の人気者。
日本ではダイダイ(橙)と呼ばれるビターオレンジの木が、
たとえば(イタリア)で、
木や実の姿を愛され香りを愛され、味が親しまれ、利用されてきたことは、

学問や宗教以前の
自然と人の関係の実感の根を結ぶようなものに思われて、
おもしろいこと。





『日本霊異記』
・2009-05-25 中世芸能の発生 133 俗の土壌
私度僧、優婆塞、優婆夷、聖などによって、
民間に語られた物語(宗教説話)を集めたもので、
国家に禁じられた罪福の因果応報も説かれている。
優婆塞たちの布教、勧進に用いられた。

官の正式の僧でない僧尼たちが民衆の間に入り、
神仏の霊験や不思議を物語り、民間に仏教を広めた。

官の正式な仏教に接する機会のない当時の大多数の民衆と仏教の接点は、
“「経を負い、鉢を捧げて、食を街衢(がいく)の間に乞う」半僧半俗の僧尼から説経を聞くだけであった。”(『寺社縁起からお伽噺へ』五来重)

「経を負い、鉢を捧げて、食を街衢の間に乞う」半僧半俗の僧尼たちによって説かれた
民衆にとっての仏教は、
インドの正式な仏教でなく、
日本の民俗信仰と融合した日本化された仏教なのであって、

そのため、民間に伝わる説話やお伽噺あるいは芸能に、
仏教を民間に根付かせるための宗教者たちの工夫や
当時の民衆の宗教意識を見ることができる。


仏教と日本の民俗信仰のなじませ 習合
・2009-05-28 中世芸能の発生 136 優しい誤解
庶民信仰としての仏教は日本化された仏教、
さらにはこの人たちによって曲解された仏教なのだった。

その誤解は庶民信仰化と日本化のための誤解であって、

人々を作善勧進へいざなうために半僧半俗の彼らが語るものは、
厳密な教理の解説でなく、
英雄の話や、欲や愛憎の物語など、庶民の身に近い物語だった。

物語は節をもち、歌であり、舞であり、劇であり、絵がついて、
庶民に切実に求められ、さまざまな形で広まっていった。

半僧半俗の彼らは、中世芸能の担い手でもあった。






殺生と地獄 中世の鵜飼 今様歌 遊女
・2009-02-11 中世芸能の発生 67 船の上の遊女 お能『江口』
鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し 鵜の首を結ひ 現世はかくてもありぬべし 後生我が身をいかにせん
哀しい歌ね。

“ 鵜の餌に、万劫も生きる亀を殺し、鵜の首を結んで鮎を吐かせている。現世はそうしても過ごせようが、後生はその身をどうするのだろうか。亀を殺したり、鵜を酷使する鵜飼は来世には地獄に落ちるというのに、その生業に勤しむ鵜飼をいとおしい、と詠んでいる。”

同じく梁塵秘抄の遊女の歌。
淀河の底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめく いとほしや

鵜飼の罪の深さは、遊女自身の罪の深さに思われるのだろう。
遊女が船の上から見た、川底の、鵜に食われてきりきりもがく鮎の姿は、
自分自身にも思われたろう。

きっと我が身も、地獄に落ちるのでしょう。そう思ったのだろう。

遊女であることはあなた(遊女)の作った罪ではないのに。
いとおしや。



殺生の罪 鵜飼 お能
・2009-01-27 中世芸能の発生 56 お能『鵜飼』 非人
御贄を扱う鵜匠のような立場の人たちは、
自然の旺盛な命のこもる贄を首領にもたらす役目があって、
そういう贄を得て天皇の命が強化されるという考え方があった。

やがてそうした原始的呪術的な思想は衰え、
古代的神聖な天皇や神々の権威は薄まった。
民間にも広まった仏教が殺生を禁じていることからも、
鵜飼は殺生を生業とする業の深い人々と見られるようになった。



・2010-10-30 水の旅 宮滝 鵜飼
2000年くらいあるんじゃないかと言われる日本の鵜飼の歴史。
船に乗って漁を行うようになったのはごく最近のこと。

古い時代の鵜飼は、鵜匠が鵜をつなげた緒を持って
川沿いを行ったり来たりした。

神武天皇は丹生川上で厳瓮(いつへ)を川に沈め、
魚の浮き沈みで勝利を誓ったという話。(魚で占い→鮎)

ああ鵜飼は、古いな。とても古い。
鵜飼、鮎、河の魚をとる人々は特別なんだ。

鵜飼は古い時代と特に結びついた漁だったんだ。
古い時代の贄。古い時代のサチ。イノチの元。
だから古い民俗を脱しようとする時代、鵜飼は特別罪深いものにもなった。



万葉集。 山上憶良 沈痾自哀文
・2009-04-17 中世芸能の発生 111 弓箭の道
殺生を生業とする人よりも自分は罪深いのか。
庶民より一足早く仏教思想に触れている憶良は嘆く。


万葉集 山上憶良
・2010-08-22 中世芸能の発生 344 倭文(しつ) つまらないもの
新しい思想と逆に、古ぼけたつまらぬものになっていく。



漁の喜び  毎年訪れる季節への期待  万葉集  鵜飼  
・2009-09-06 毎年に鮎し走らば
自然の中で漁する喜びは、
毎年おとずれる季節の木の芽を採る喜びやめでたさに似ていたと思うから。
それがどうしてそれほど罪深いものとされてしまったものか。

家持のこの歌のみずみずしさ。

夏の鵜飼漁。
毎年訪れる季節への期待。
旅情。
肌に季節の川辺の風が吹くようだ。




狩猟は「栽培以前」ではないこと。
・2009-09-23 中世芸能の発生 203 狩猟 採取
鵜匠の山下純司さんがテレビで、
魚は育つものでなく、湧(わ)くものだったと、
とおっしゃっていた。

むかしむかしのこと。

栽培したり育てたりしない。

川の魚は、太陽と水と森の養分だけで、無限に湧いて、
我々(人)はそれをとって食べて生きた。

それがサチ、命の力でなくてなんだろう。

季節に木の芽が芽吹くように、河に魚が湧く。

現代の山下さんのひとことを通って今にいきいきとあらわれる感覚。

昔、山河のものを食べることは、そうしたサチをいただくこと。
命の力を身体にうつすことだった。


山河や海での狩猟や採取は、
栽培以前、でなく、

栽培とはちがう、
くりかえす自然の生命力に対する深い気持ちがあっただろう。


鵜匠の山下さんのことば。
実感のある人のことばに、感覚の口が開(あ)く。
まるで古代の芸能のようだ。





狩猟のある古来の民俗信仰から仏教へ  開山縁起に見る信仰の移行

万葉集の時代、獲物(さち 幸)をとる矢を「さつや」、獲物をとる人を「さつを」と言った。
「サチ」の「サ」は、神聖なものにつく接頭語。「チ」はチカラ(力)。
「サチ」は、神聖な生命力にあふれた力、転じて神聖な生命力に満ちているものを指した。
山海に産するもの。野生の獲物も。それが海のサチ、山のサチ。
・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承
白山、熊野、高野山、他々、
各地の寺院開山の縁起に、
土地の狩人がその場所を知り、
聖者(僧)を案内したという伝承が数多くある。

その狩人たちは、古来の民俗信仰の、
その山の神の元でサチに連なっていた人々を指す。

したがってこれら開山伝説のパターンは、
自然信仰の濃い民俗信仰に
仏教が重なっていく経緯が表されていると思う。




命の分配 共食 直会 植物版

松迎え(松ばやし) 1
・2009-12-10 中世芸能の発生 262 はやし 分霊
山からこれという木(松)を伐ってきて、各家に分けてまつる年末の行事(神事)。
輝く木の命を分け、その生命力にあずかろうとする行為全体のこと。

この山からこれという一本の木を伐って、はやして(切り分けて)各家に持ち帰るのは、
日本の神々分霊という考えかたと根が同じ。
分けても減らない。分けて増える。
生命力の増殖。


松迎え(松ばやし)2   笛 囃子
・2010-05-14 中世芸能の発生 309 はやし はやす
年末に山からこれという木を伐ってきて各家に分けてまつる行事(神事)は、
木を伐ることも、その木を運ぶ曳き物の行列も楽器や声楽や行進や舞踊も、
檀那家の屋敷に立てての神事一連を含めて
「はやす」「はやし」と考えられていた。

木の命を分けてその生命力にあずかる一連の行為全体が「はやす」「はやし」。

抽象的でない。
旺盛な木の命をみんなで分けて
旺盛な木の生命力にあずかろうとするごくごく素朴な感覚から展開したものだ。

先生の活気につられてかぶれて笛が吹けちゃうようなことは、はやし。
先生方って、はやす方々なのね、と思う。
芸能の方々。


松迎え(松ばやし)3   囃子 はやし
・2007-04-18 はやし
もともと「はやす」は、伐ること。
「はなす」「はがす」などと一類の語で、分裂させる義。
「ふやす」と同じく、命の分裂と増殖を意味す。
きること、はなすことは、ふえること。

年末の「松ばやし」の「はやす」「はやし」は、
輝く木の命を分け、その生命力にあずかる行為全体を指す。

「はやす」は「生やす」と結んでる。
「栄やす」を内包する。
そして「囃す」「映やす」へ。





くりかえし新しくなってつづいてく。昔の人の命の実感。
遷都・遷宮、輪廻の思想。
・2011-02-16 中世芸能の発生 380 輪廻 遷宮 遷都
古い森は、内で絶えず死と再生をくりかえし更新している、常に新しい森だ。

昔の人が、春夏秋冬をくりかえしめぐる季節に、死と再生、イノチの継続を見、
日月の周期にくりかえすイノチとイノチの継続を見ていた。

草木や動物や、大きいものにも小さいものにも、
くりかえす生と死の循環を見ていた。

現代の日本人は、
体の細胞は絶えず死んで生まれてをくりかえしながら
その人が保たれていることを学校などで習う。

細胞のことなど知らない昔の人が、
生と死をくりかえしてつづく命全体の循環を知っていたことの慧眼と、
自然の全体性の実感を思う。

宗教の輪廻の思想は、
こうした命の循環を宗教的に解釈したものではないかと思う。

遷宮、古い時代の遷都も。





・2013-02-08 中世芸能の発生 452 狩りという行為の神聖 狩人 武士 弓矢




つづく
by moriheiku | 2013-02-06 08:00 | 歴史と旅