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伝運慶


つづき
 
台風以来のまとまった雨になって、
真ん中の日は、
吉野と熊野の境の山に行くつもりだったけど、
崖崩れや落石のある場所だから断念した。

奈良市内に居て、
佐保の大伴家持を追うような感じになった。


さっきから、替えの靴を持ってきていてよかったと
ぐるぐる考えていた。

もう足元はずいぶん雨に濡れてしまったから、
春日大社のあたりからちょっと下りて、
奈良国立博物館に入って、雨宿りと見学をした。

数日後からはじまる正倉院展の準備で、
新館はクローズ、本館のみオープン。

お仏像の殿堂。
何度来ても思いがけないほど時間がたつ。
今回も長く見ていて、
一通り見たあとは、いくつかの仏さまと木彫を幾度も戻って見た。

運慶作かとも言われる狛犬にも何度も足が向く。
頭に一角を持つ吽形のほう。

江戸の唐獅子調でない狛犬だ。
ずんぐりしたところはひとつもない。

木彫木像だが、
背中の毛と皮の下を通し、筋肉が、
今にも蠕動するかと思う。


もし、柔軟な鋼というものがあれば、
運慶の作るものはそれだ。

鎌倉期の建築や仏の像は、
どうしてこういう表情を持っているのか。

余計な肉付けのない、発達し締まった筋肉。

実際には骨のない木彫の、
身体の中心に太く骨が通るのを感じる。

気は丹田に静かに落とし、
背筋は立ち、胸が張られ、
吹いている風に向き合っているような。

力がみなぎっている。
その中の優雅。

建築や仏像木彫に見る鎌倉期の気風が好きでたまらない。
かっこいいーーー。

気風って言葉ぴったり。


皆、その気風に運慶を見て、
伝運慶がある。


同じ時期の思想、
平安末期から鎌倉期にいたる頃興った仏教思想も同様に、

法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、あと一遍、明恵、

心を揺さぶる。



あ、あと、奈良時代が好きなんだけど。


人でない、人感の薄い、
抽象的な神像にも、気風はある。

この狛犬のたたずまいは、実際見ないとわからず、
見ることができてよかった。

談山神社の狛犬(伝運慶)に似ている。
先程の手向山神社で、伝運慶の狛犬(吽形 一角)獅子(阿形)の対が見られる。



私の判官びいきもはなはだしい。
大伴家持のこと。
大伴家持には、なによりきれいなところがあるから。

つづく

─── <夕食> ────





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by moriheiku | 2007-11-16 08:00 | 歴史と旅

ナイーブあらくれ





自然現象も、人のする芸術も、


魂を揺さぶるものは、

ナイーブさ

あらくれたもの

を持っている。



もの人の区別はない


揺さぶるもの、

揺さぶられるもの、

どちらのものでない


両方につながる

ナイーブさ

あらくれたもの

が揺れて、


双方の弦が震える、


と思うことがある。
by moriheiku | 2007-06-24 08:01 | 言葉と本のまわり

春日若宮御祭神事 裲襠装束の競馬



つづき 

屏風絵、好き。

「若冲と江戸絵画展」を見て非常に印象に残った屏風図に
「春日若宮御祭図屏風」がある。

▽2007/05/26記事 春日若宮御祭図屏風
▽「若冲と江戸絵画」展 公式ブログフォトライフ - 春日若宮御祭図屏風/狩野柳雪


そっか。
六曲一双の屏風の、この右隻、左端に描かれている鳥居が一の鳥居。

で、鳥居をくぐってお旅所、
そのお旅所の一段高くなったところが
おん祭の間、若宮神の居られる行宮。


春日若宮おん祭のことを少し調べて、わかった。

『若冲と江戸絵画展』の感想を打った05/26の記事で、たまたま、

馬が美しい、

右隻、左下の、
雅楽の陵王や貴徳の裲襠装束みたいな装束の、
馬上の武官達に惹きつけられる、
と言ったけども。


春日若宮おん祭の中心神事の一つには、
競馬(くらべうま)があって。


赤と緑の裲襠装束に冠をつけた者らが騎者となり、
右方と左方に別れて競う。

祭に奉納される舞楽の蘭陵王と納曽利は勝負舞。
競馬の勝敗によって、
左舞の蘭陵王と右舞の納曽利の順番が決められる。



ああ、あの人たちは競馬をする武官。

それで、裲襠装束なんだ。


ああそれで。
御祭図屏風の馬は、うつくしい。



奈良、翁、能、楽、屏風図、芸能、折口、、
様々のパズルのピースがはまっていく。






・2007-05-26 春日若宮御祭図屏風
・2007-05-28 展覧会場をとおり抜けて
by moriheiku | 2007-06-05 08:00 | 言葉と本のまわり

春日若宮御祭図屏風




『若冲と江戸絵画展』プライスコレクション。


屏風絵をはげしく好む私。
コレクションの中から、屏風図の感想。いくつか。



隅々まで目が離せない「春日若宮御祭図屏風」。

なだらかに広がる春日大社の広い社域の緑。周辺の山、金にたなびく霞と雲。
屏風図の中で動き息づく人々。
美しい馬。

大きな屏風図の中のほかの部分を見ても、
惹きつけられ、戻って
くりかえし私が見るのは、

屏風右隻、左下の馬上の武官達。


彼らはこれから左隻側に向かうところ (絵だから動かないけど)。


冠においかけをつけ、太刀をはき、華やかに馬上に居る。



そういえば。
彼らの装束は、ちょっと、普通の武官じゃない。

雅楽の蘭陵王で見るような、

そう。錦縁あるいは毛縁のフリルがある。
雅楽の陵王や貴徳の裲襠装束みたい。

春日大社の御祭神事に舞われる貴徳。


陵王にせよ納曽利、貴徳にせよ、いずれにしても武の舞、武の装束か。


きらきらと吹く大陸の匂いがする裲襠装束、

それがいかにも奈良らしくなつかしい。



・2007-06-05 春日若宮御祭神事 裲襠装束の競馬
・2007-05-28 展覧会場をとおり抜けて



つづく
by moriheiku | 2007-05-26 08:00 | 言葉と本のまわり

丸山応挙 雨竹風竹図





いいねえ。 応挙の雨竹風竹図。

具象が入り口の抽象世界だ。



特に雨竹が。今、心に響く。染みこむ。

雨の描かれない雨中の竹。その空間。
by moriheiku | 2006-03-30 08:00 | 言葉と本のまわり

写真家 木村伊兵衛



先週と今週一週間、
いろんな方から、お菓子をいっぱいいただいた。
にわかお菓子長者は、よろこびあふれ、朝起きてから夜寝るまで、食べる、食べる。


ETV特集 『木村伊兵衛の13万コマ ~よみがえる昭和の記憶~』(録画)を観た。

▽NHK ETV特集 木村伊兵衛の13万コマ ~よみがえる昭和の記憶~
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2006/0318.html



昭和40年代末に亡くなった写真家 木村伊兵衛のコンタクトから、写真と時代を読む。

コンタクトとは、フィルム丸ごと一本分を、一枚のプリントに現像したものだ。
これだ、という一枚を取り出したものではない。

世に出すこの一枚、のみを見ることとは違う。
コンタクトの連続したコマからは、時代や技術や、写真家の視点の流れがわかる。

日常を風景を切り取ったスナップ写真は、現代では一般的だ。
だが昭和の初め頃には、ほとんどない表現手法だった。

当時のカメラは重く、そのカメラで撮る写真は、
写真のために特別に整えられ、じっとすました様子を撮影するものだった。

その後、ライカをはじめとする、コンパクトで一瞬を切り取ることのできるカメラが登場する。
木村は、写真を撮るため作りこんだものでなく、、
日常の中から、あるワンシーンを見出し切り取る、写真の世界を開いていった。

スナップ写真と報道写真は、ある意味、同列だ。
作られたセットでないものを撮るという点で。



写真家自身を知る上で、コンタクトは、とても興味深い。

番組では、写真家のアラーキーさんと、評論家の川本三郎さん、それぞれが、
木村のコンタクトをスライドショー形式で追い、感想を述べていた。

コンタクトをとおして、レンズをのぞく木村の視点に、自らの視線を重ねるアラーキーさん。
木村の、被写体から、遠く離れてもいないが、近づきすぎることはない、
その視点を「もどかしい」と言った。
木村と同じ江戸っ子下町っ子アラーキーさん、だが、より被写体に入り込むのだろう。

同コンタクトを追った評論家の川本さんは、
その視点、その距離感が、木村伊兵衛のスタイル、“粋”と述べた。



昭和49年4月。亡くなるひと月前。
木村は、女のお孫さんとその友人と、自宅近くの上野・寛永寺へ出かけた。

境内には、昭和30年台の写真群のように、元気に遊ぶ子供たちの姿はない。
コンタクトに、ひと気の少ない、桜咲く境内の様子がだたしばらく続く。
いい写真を撮ってやろうという構えはない。
木村の視点を追う。

最後の数枚に、お孫さんとその友人が一人づつ写っている。

彼女らは、どこか遊具の上で遊んでいるのだろう。

レンズは、お孫さん、友人を、下から見上げている。
背景は桜だけ。背景は彼女らの頭上に咲く満開の桜の花だけだ。

その桜と少女の写真が、木村の最後の写真だ。
生涯に撮りつづけた13万コマに及ぶ膨大な写真群の最後の写真になった。



アラーキーは泣いていた。
「人間の本質の中のなんかが写ってるんだよ。一番人間にとって大切なもの。時代じゃなくて。
 懐かしさ、懐かしい部分、ノスタルジーが。
 人間のだよ。人間としての。一生とか、生涯とか、人生においての。

 やっぱりなんかね。時代っていうことだけじゃなくて。
 一番人間にとって大切で、懐かしむもの、つーのがね。もしかしたら写ってんだよね。

 懐かしさを感じさせない写真はダメだね。私に言わせると。うん。
 写真になってない。人間をやってこなかった。その写真家はね。」



世阿弥のいう幽玄は、華やかな美しさ。童形=幽玄。子供は幽玄そのものって。

長く生きた画家たちが、晩年に近づくほど、作為のない子供の線を求めた。


もう意図もない静かな境内の様子のあと、少女たちが写り、どこかで命が輝いたように見えた。

もう、いらなくなっちゃったんだ。それでもう、幽玄に行っちゃったんだ。
木村伊兵衛も。

そう思った。
by moriheiku | 2006-03-25 08:00 | 言葉と本のまわり

『功名が辻』 修羅とオープニング


NHK 大河ドラマ『功名が辻』第11回。まだ見続けてます。


山内一豊等は、織田勢として比叡山の焼き討ちに加わる。
通常の戦とは違う。仏に罪はない。叡山の僧の全てが破戒の僧ではない。
疑問や恐れ、わだかまりを抱きつつも、上官の命令に従って、
僧や女子供を殺し叡山を焼かねばならない。

一豊が叡山へ赴いた後、妻の千代は一豊の母法秀尼に会いに行く。
そこで法秀尼が千代に

「一豊が戻った時は明るく迎え、
 戦場で夫が背負った修羅を、静かになぐさめてやってほしいのです。
 そして、一豊の業を、共に背負ってやってほしいのです。」

と言うセリフがあった。

こんな一言、この一言だけでも作品中で言えたら、
作家さんは本望だろうなあ。

“修羅を背負う”


千代は
「心得ました。母上のお言葉、胸にきざみました。」
と答えた。

焼き討ちから戻った一豊は
焼き討ちの有様を「地獄絵図じゃ。」と言った。千代は

「殿、殿が地獄にまいるなら、千代も一緒にまいります。
 殿が罪をおかされたのなら、その罪も、千代が背負いまする。」

乱世の夫婦は、修羅も、罪も、業も共に背負うのか。
共に背負う覚悟でいるのか。




クレジットの出るオープニング映像を繰り返し見る。

音楽にのってイメージが形を変化させながら、
立体絵巻の中を抜けていくよう。

次のイメージから次のイメージへ、絵が現れては変化する。

一つのイメージが別のイメージに展開しながら流れる表現手法は
新しいものではない。
四季が移り変わる屏風図、絵巻物の時代から。
手法の新しさが全てに勝るものじゃない。

動画としては、構図、一本の線が流れるライン、変化のタイミング等々、
隅々にまで配慮があるのがわかる。

丁寧に作りぎりぎりまで美しく仕上げられてる。
ほんの数分、数秒でも。

注文を受けて、
注文主の意向に沿いつつ、
こういうものを作ることができたら、
どんなに充実するだろう。
by moriheiku | 2006-03-19 07:52 | 言葉と本のまわり

音訳と朗読 無私 03



昔、ボランティアで音訳をしていたことがあった。

目が不自由な人に、本や新聞、市の広報誌などを声で読み、録音して届ける。

音訳と朗読とは違う。

音訳とは自分が文字になるようなこと。
朗読は読み手の気持ちが入って表現されるもので、芸術ジャンル寄り。


紙に印刷された文字は、紙面全体である世界を作っているけど、
主張を抑えた紙面ならひとまずニュートラルな状態に近い。

例えば、目が見える人が、印刷された文字を見る。
その文字を見て読み、どんな感想を持つかは、読者側の判断となる部分が多い。
それと同じで、音訳して声になった文字を、判断するのは聴く人。

健常者が文字を読むように、視覚障害者の人たちが文字を読めるように、
目がうつす文字のように、文字を声にかえる。


楽しい本を歌うように読んだり悲劇的な話を悲しげに読んだり、
全体の雰囲気がやさしそう、とか、そういう読み方は朗読。

音訳は、読み手の感情を伝えることが主眼でない。
健常者が文字を見るのと同じように、
目の見えない人に文字情報を伝えるのが主眼のもの。


ニュートラルな文字を、声にして届けるためには、技術が必要。
聴く側に、一言一言を文字として届けるためにあるていど技術と訓練をする。

普通に話す声幅より、もっと上からもっと下まで使う。
単語一つ一つ、フレーズ一つ一つを、声幅を使って発声する。
文章の始まりは同じ高い音からはじめる。
文末は同じ一番低い声で終わる。長文でも短文でも。他々。


音訳された文字情報は、聞く側が少しでも途中で「あ?」とひっかかったら、
ひっかかた瞬間とその後数秒間は、流れる情報を聞き逃してしまう。

目が見える人がさっと前に戻って文字を見直すのと違って、
音声化され流れる一瞬前の情報を見直すことはとってもしずらいことなので、
読む技術は大事なことだ。


私は、基本的な講習をまず一年間受けて、実際の音訳の活動を始めたけれど、
ボランティア活動はたった年数でやめてしまった。

比較的職人的な位置で活動できる場所も他所にあったけど、
曜日が合わなかった。


このあいだから、無心でなく無私(のやさしさ)について少し触れる機会があった。
自分が求めることできることを無心でおこなって、それを欲する人がいればいいのでは。
迷いつつもそんな風に思っていた。今も思っているフシがある。

私にとっては音訳もそういうことだった。

今もその段階でとどまっている。


私は朗読をすることには興味はない。
媒体になるような、職人的で自分を消していくような作業の方が好き。


音声の編集やWeb上の情報を、
見たように選択できるようにするプログラムやスクリプトの方でもよかった。
情報が正しく取り出せるよう、編集もきくよう、裏側を
緻密かつもっともシンプルに作り上げることは、向いていると思う。


ただ、自分の声という自分に近いものを使って“文字になる”ってことって、
やっぱり観念的にはおもしろいことだったな、って今は思う。



視覚障害者の人たちは、健常者のようには自由に本を選べない。
本を一冊読むまでのハードルが高い。著作権の問題や様々な問題がある。
私は音訳は続かなかったけれど、もともとは、
自分も本が好きだし読みたい方に利用してもらえたら良いな、とはじめたのだった。

私は、音訳を利用される方々よりも自分を優先して、
音訳がつづかなかったことに後悔がある。
無私でなかった。

情報を得たい知りたい、新聞が読みたい、本が好きで楽しみたい、
そう思っている視覚障害者さん方に利用してもらえる活動を
今も続けている方々がいらっしゃるのに頭がさがる。





・2010-07-09 優先
by moriheiku | 2006-03-14 07:37 | 言葉と本のまわり