<   2012年 02月 ( 15 )   > この月の画像一覧

イエロー



寒くて、梅の花の咲くのがひと月近くも遅れてる。

いつもの白梅の木の、つぼみを見上げて通る。


春らしさにひかれて、
シルク混の薄手でなめらかな、淡いイエローの、
Vネックのニットとカーディガンを買った。


黄色。

暖かくなったらもうすぐにイエローは色が暑い気がして、
この服は着ないかも。
by moriheiku | 2012-02-29 08:02 | つれづれ

希望



とっても好みのバッグを見て、
セレクトショップに最後の一個があるかもしれなかったから、
ばーんと買ってくる!って(なぜか)宣言して、買おうとしたけど、
もうなかったーーーーーーーー。

定番ではないしインポートものだし、
あんなに好みのって数年に一度くらいしかない。えーん。


それでなんだかやけになって、
ボトムスを2枚と、靴を3足買った。

余裕でバッグの代金をこえてしまった。けど、
なんだか満足になんない。



だって、好みのきれいなものがひとつあることは、
女にとって明日への希望なんだもん。
by moriheiku | 2012-02-29 08:01 | つれづれ

中世芸能の発生 430 他力本願 救い



つづき


万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。



私はある人の命が助かってほしいと強く願ったことがある。

もうだめだ、と思った時、

私は、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った。
たすけて、と。


その時、私は、
近視眼的な自分の判断のみに目を向けて、

自分の判断などはるかにこえる森羅万象の関わりの中で生きている、
自分もその一粒であるという共生の感覚を、
切り捨てた。その瞬間だったと思う。


あとに残る苦みは、
全体の命の中にあることを拒否し、切り離した、
独善的な自分への苦みだ。

・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願



この、自力をすべて投げ出すほどの絶望、というのを見て、
自分の力の限界を知って謙虚になったのだと解釈する人がいるけれども、
それはちがう。


自力をすべて投げ出すほど絶望することは、
独善的な自分の判断のみに目を向けて、
(独善的な自分の判断のみ信じて、)
自分の判断などはるかにこえた森羅万象の
大きな関わりの中にあることを否定し拒否すること。


自分のみに目を向けて、

自分の判断などはるかにこえる森羅万象の関わりの中で生きている、
自分もその一粒であるという共生の感覚を、切り捨てた。


私には、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った時が、
その時だった。




私が何か強い願いを持つ時の感覚は「“を”祈る」で、
どうしても「“に”祈る」と言えない。

私にとってはだけど、

どこかにある何か「に」(「へ」)祈ることは、

自分の卑近な判断をこえてはるかに関係し合っている
森羅万象の働きの中にあるということの否定。

無数に関係しあう森羅万象の働きを忘れ切り捨てて、
近視眼的な一見の利を求めることだ。



他力を本願とすることは、
誰かの力をあてにして生きるということでない。


一見自分にとって都合が良く感じられること、
都合の悪く感じられることはあるけれども。

他力を本願とするということは、
そうした人の卑近な判断や把握をこえた
近目には見えない森羅万象の大きな働きの中にいることを自覚すること。


良い悪いなどの判断の範疇にない交錯する無数のイノチ(動植物という意味でなく)の
関わりの中で生きて死ぬという自覚と覚悟が、

他力を本願とするということではないかと私には思える。




他力を本願とする(他力にゆだねて生きる)とは、
誰かの力をあてにして生きることでなく、
自分を生きることの否定でもない。

自分の独善的な判断をはるかにこえる、
森羅万象の関わりの中に自分もあるのだという自覚と覚悟だと思う。



それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。




かつて日本の仏教では、そのような感覚を、
如来の他力を本願とすると解釈したのではないかしらと私には思われる。




うーん。やっぱりうまく言えなかった。







だってだって、
「“に”祈る」 と 「“を”祈る」 は、全然、感覚が違うー。

こうした感覚の共感を、私は本の中の数行に見、万葉集の中に見る。








他力。 自他の分離のないこと。 自と他の関係性の中にあること。

万葉集。 神「を」祈る、という表現に見る、自他の分離 人と自然の分離
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏
・2010-08-26 中世芸能の発生 349 神「を」祈る イ罵(の)り
・2010-08-27 中世芸能の発生 350 神「を」祈る 神「を」祈(の)む
・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願

万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。

それより後現代にいたるまでの「神“に”祈る」という表現では、
神は自分から分離し、「対象」となっている。

それより前の時代の「神“を”祈る」は、神と自分が分離していない表現。

自然がひびけば自分もひびく(はやし)。
そのように、万葉集の時代までは、自他の境のない、
主客のない感覚の実感があったと思う。

境がないから「対象」とならない。
自然との境のない、個々に相対化しようのないものを祈る。

その後、自然と人の距離ができ、
自然を体感する身体感覚より優先するものができいって、
自他は分離していく。

自然と密だった素朴で実感的な信仰の時代を過ぎ、
哲学的、観念的な思想を持つ宗教が誕生展開して、
風土や身体感覚を離れて精神的な救済へ向かおうとする。


日本の信仰の特徴として、
木も石も全てのものに命が宿っている、とか、
森羅万象全てに仏性がある、という考え方をあげられるのを見聞きする。

私はそれは、
一人につき一つ心臓があるような、ひとつひとつに個別に神仏が宿るイメージでなく、
もともとは自他の境のないイノチの関係性の実感からきていたと思う。

念仏が溶け合って和合するかつての融通念仏の発想も、
そうした境のない感覚の影響があったと考える。





・2011-03-29 自然と人 わざわいもなぐさめも
人の生活は、自然に依存している。

自然の動きは、人にとって恵みとなる。人に大きな災害になる。
それでも人は、自然風土をベースに、自然に寄って生きている。

幼児が、おかあさんにおこられて、泣いて、
そのおかあさんにすがっていくように、

わざわいもなぐさめも、
自然の中にあるのだと思う。





自然の共感と信仰  自他の分離と宗教化

・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型
自然信仰の色の強い古い民俗信仰は、
一神教に相対するかたちで、多神教や汎神論と考えられることが多いけど、
そのようには思えない。

一神教、多神教、汎神論は、
やはり魂や神や概念ができてからのもの。
新しく感じられる。

原始的な信仰の原型は、主客の分かれないところにある。

神と人、のように個々に相対化しようのないもの、

自然との境のない、

主客のない感覚が、宗教の原型だったと思う。




・2008-06-03 自然と我 06
自然に畏敬の念をおぼえ、
自然のありように、止まずときめくとき、

原始的な感覚が、身体を通じて、意識の底からのぼってきて、

具体的に何を祈るということはないけれども、

自、他のはっきり分かれる前は、
自然や、後の時代の神仏に祈る時は、

同時に、自分の中の自然を祈っている。

日本の信仰のはじまりに、
そんなところはなかったか。




・2008-07-10 神仏習合思想と天台本覚論 01
姿の見えない鶯の声が、谷間をわたる。

ホケキョウ
ほほき ほほきい。
法喜 法喜 法華経。
誰かには、鶯の鳴も、ありがたいお経に聞いた。

私には命の声に聞こえる。
自然が鶯の声になって、そこに鳴っていると感じる

法華経は、女人成仏を説く。
日本の天台宗の本覚論は、草木成仏にも及ぶ。

日本の天台宗の本覚論は、
有情である人や動物だけでなく、
非情である草木にも仏性はあると考えた。

もとのインドの仏教の、
有情のものは、仏に近づく心を起こし、修行して成仏(悟り)に至る。
非情のものは、心自体を持っていないから、成仏(悟り)はしない。
という思想から、

有情のものは菩提心を起こし修行して
自分の中の仏性を取り出し成仏(悟り)に至る。
草木はそれ自身が仏性の現れとしてあり、
すでに成仏の資格がある(すでに悟りである)。

とするに至った。というところだろうか。

日本では、万物は、遠い仏に近づくのでなく、
むしろ全ての中にすでにある仏性に気付く。というような思想。

天台本覚論は、
知らず身体に沁みている、
日本の宗教以前の自然観でもある古来の信仰に、
仏教の言葉で説明をつけたものと言える気がする。

長い時代をかけ重ねられてきた信仰の習合の働きは、
ここでもまたなされる。

思想を重ね習合を成立させていった底にいつも生きつづけていたものは、
自然の実感であったと思う。






樹幹流 他力本願

・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-27 他力本願
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること
他力本願は、
よく誤用されているように
人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない。

自分の人生を生きることの否定でもない。

他力本願は、自分の運命は、
自分の判断の範疇をはるかにこえた

めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。

それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。




・2012-11-30 動物学者へのインタビュー
たとえば
もうどうにもならない目の前の一つの命の前に立った時、
私たちの心をほんとうに救うのは、その命をつなぎとめる奇跡でなく、
その命もまた私たちの想像の及ばない無数の関係性と全体性の中のひとつだという
現実の自覚ではないだろうか。
それは、ひとつの覚悟であり希望だ。

人もはるかに関係しあってきた自然の一部であるという現実に、
人も救われる。




・2012-12-01 遷宮 季節 細胞  くりかえし新しくなる命への視点



日本の信仰の流れ。 日本の命の概念。
・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって昔の日本では、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚がやがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、
岩にも木にも仏がいるという理解になっていった。
日本の信仰の流れ。




万葉集。植物学者。他力の中の命のひとつ。
・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」

そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、
それが生き物としての人間の表現、

と、おっしゃって、
そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。

日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。

それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。
体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないようなものだ。

中世芸能が生まれるまでの、
芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、
自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。




・2012-12-02 関係性




・2010-07-01 ぜんぜん論理的じゃないこと
・2009-08-30 地続き
・2008-08-24 弓と自然





つづく
by moriheiku | 2012-02-28 08:00 | 歴史と旅

他力本願



たった、木の幹を流れる雨水という樹幹流ひとつも、様々なものとの関係している。
めくるめくような大きな範囲で森羅万象は影響しあってる。


ひとつのことを自分の想像の範囲で判断すること、
ひとつのことに意味を付けすぎることはあまり意味のないことのように思う。



近視眼的な一見の利を求めすぎること。
また都合の良い因果、あるいは都合の悪い因果を語ることは、

無数に関係しあっている森羅万象の働きの中にあることを
切り捨てていると思う。



森羅万象が影響しあっている中に生きて死ぬという自覚は、

時間や季節や、地震や津波ももちろん、
自分は人の及ばない無数に影響しあっている自然の中の一部であるという自覚であり、
覚悟だと思う。




仏教で言う他力本願を、人の力をあてにして頼る、と理解して、
批判的に言うのを目にすることがあるけれど。どうして。


他力本願は、
人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない、
自分の人生を生きることの否定でもない。

自分の運命は、自分に見える判断の範疇をはるかにこえた
めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。


仏教で、人智の及ばない森羅万象の無数のはたらきを、
如来の他力と表わされたもので、


他力を本願とすることは、
無数のはたらきの中にあることを信じる(実感する 意識する)ことではないかと思う。


他力を本願とすることは、
人智の及ばない無数のはたらきの中にあることの自覚と、覚悟だと思う。




それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。






他力 自然と人

カーナビの仕事から~☆彡*・゚
・2009-10-24 中世芸能の発生 229 地図

地図で見ると人の居住と生活のベースとなる条件は、
ほとんど自然と地形に依存している。

現代の私達が住む場所を選ぶ時、
交通の買い物の利便性や、福祉教育の充実などを重視する。

ただそもそも、その希望が適う市町村は、
多くが自然発生に似て、自然条件の許すところにできている。

大きな街も、広域を俯瞰で見れば、
自然や地形の適するわずかな場所に吹きだまりのようにできている。
ひとつに道は水に沿い、山に沿い、地形に沿って地表をめぐっている。

現代の日常生活では見えずらいが、
人の生活や文化はベースの部分で、大いに自然に依存している。

一方、古来の地図とは別の、現代の地図であるコンピュータ上のデータの地図。

一方通行の時間帯等の入ったデータ状の地図に見えるものは、その街の設計。
データの地図には、
街をどのように守り、どのように人や物を行き交せ、街をどのように発展させていくか、
具体的な視点がみえる。
自然の上にのせた人の意思だ。

データの地図に、
それまで意識していなかった街や国を設計する意識の片鱗に
触れている気がした。




・2011-03-29 自然と人 わざわいもなぐさめも
人の生活は、自然に依存している。

自然の動きは、人にとって恵みとなる。人に大きな災害になる。
それでも人は、自然風土をベースに、自然に寄って生きている。

幼児が、おかあさんにおこられて、泣いて、
そのおかあさんにすがっていくように、

わざわいもなぐさめも、
自然の中にあるのだと思う。





自然の共感と信仰  自他の分離と宗教化

・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型
自然信仰の色の強い古い民俗信仰は、
一神教に相対するかたちで、多神教や汎神論と考えられることが多いけど、
そのようには思えない。

一神教、多神教、汎神論は、
やはり魂や神や概念ができてからのもの。
新しく感じられる。

原始的な信仰の原型は、主客の分かれないところにある。

神と人、のように個々に相対化しようのないもの、

自然との境のない、

主客のない感覚が、宗教の原型だったと思う。




・2008-06-03 自然と我 06
自然に畏敬の念をおぼえ、
自然のありように、止まずときめくとき、

原始的な感覚が、身体を通じて、意識の底からのぼってきて、

具体的に何を祈るということはないけれども、

自、他のはっきり分かれる前は、
自然や、後の時代の神仏に祈る時は、

同時に、自分の中の自然を祈っている。

日本の信仰のはじまりに、
そんなところはなかったか。




万葉集。 神「を」祈る、という表現に見る、自他の分離 人と自然の分離
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏
・2010-08-26 中世芸能の発生 349 神「を」祈る イ罵(の)り
・2010-08-27 中世芸能の発生 350 神「を」祈る 神「を」祈(の)む
・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願

万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。

それより後現代にいたるまでの「神“に”祈る」という表現では、
神は自分から分離し、「対象」となっている。

それより前の時代の「神“を”祈る」は、神と自分が分離していない表現。

自然がひびけば自分もひびく(はやし)。
そのように、万葉集の時代までは、自他の境のない、
主客のない感覚の実感があったと思う。

境がないから「対象」とならない。
自然との境のない、個々に相対化しようのないものを祈る。

その後、自然と人の距離ができ、
自然を体感する身体感覚より優先するものができいって、
自他は分離していく。

自然と密だった素朴で実感的な信仰の時代を過ぎ、
哲学的、観念的な思想を持つ宗教が誕生展開して、
風土や身体感覚を離れて精神的な救済へ向かおうとする。


日本の信仰の特徴として、
木も石も全てのものに命が宿っている、とか、
森羅万象全てに仏性がある、という考え方をあげられるのを見聞きする。

私はそれは、
一人につき一つ心臓があるような、ひとつひとつに個別に神仏が宿るイメージでなく、
もともとは自他の境のないイノチの関係性の実感からきていたと思う。

念仏が溶け合って和合するかつての融通念仏の発想も、
そうした境のない感覚の影響があったと考える。




日本人の命の概念。日本の信仰の流れ。
・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって昔の日本では、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚がやがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、
岩にも木にも仏がいるという理解になっていった。
日本の信仰の流れ。




・2008-07-10 神仏習合思想と天台本覚論 01
姿の見えない鶯の声が、谷間をわたる。

ホケキョウ
ほほき ほほきい。
法喜 法喜 法華経。
誰かには、鶯の鳴も、ありがたいお経に聞いた。

私には命の声に聞こえる。
自然が鶯の声になって、そこに鳴っていると感じる

法華経は、女人成仏を説く。
日本の天台宗の本覚論は、草木成仏にも及ぶ。

日本の天台宗の本覚論は、
有情である人や動物だけでなく、
非情である草木にも仏性はあると考えた。

もとのインドの仏教の、
有情のものは、仏に近づく心を起こし、修行して成仏(悟り)に至る。
非情のものは、心自体を持っていないから、成仏(悟り)はしない。
という思想から、

有情のものは菩提心を起こし修行して
自分の中の仏性を取り出し成仏(悟り)に至る。
草木はそれ自身が仏性の現れとしてあり、
すでに成仏の資格がある(すでに悟りである)。

とするに至った。というところだろうか。

日本では、万物は、遠い仏に近づくのでなく、
むしろ全ての中にすでにある仏性に気付く。というような思想。

天台本覚論は、
知らず身体に沁みている、
日本の宗教以前の自然観でもある古来の信仰に、
仏教の言葉で説明をつけたものと言える気がする。

長い時代をかけ重ねられてきた信仰の習合の働きは、
ここでもまたなされる。

思想を重ね習合を成立させていった底にいつも生きつづけていたものは、
自然の実感であったと思う。






樹幹流 他力本願

・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-27 他力本願
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること
他力本願は、
よく誤用されているように
人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない。

自分の人生を生きることの否定でもない。

他力本願は、自分の運命は、
自分の判断の範疇をはるかにこえた

めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。

それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。




・2012-11-30 動物学者へのインタビュー
たとえば
もうどうにもならない目の前の一つの命の前に立った時、
私たちの心をほんとうに救うのは、その命をつなぎとめる奇跡でなく、
その命もまた私たちの想像の及ばない無数の関係性と全体性の中のひとつだという
現実の自覚ではないだろうか。
それは、ひとつの覚悟であり希望だ。

人もはるかに関係しあってきた自然の一部であるという現実に、
人も救われる。




・2012-12-01 遷宮 季節 細胞  くりかえし新しくなる命への視点



万葉集。植物学者。
・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」

そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、
それが生き物としての人間の表現、

と、おっしゃって、
そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。

日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。

それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。
体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないようなものだ。

中世芸能が生まれるまでの、
芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、
自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。
by moriheiku | 2012-02-27 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること



つづき


雨降り。木の幹に、雲から落ちてきた水が伝って流れている。

森に降る雨水が木の幹の表面を伝って根元に流れる水のことを樹幹流という。


雨が、空気中の物質を含みながら空から落ちてくる。
それが森の木の幹を伝う短い間に、
水は木の表面についた色んな物質も含んで地面に注がれる。


木の表面についた苔や微生物やカビ、細菌、
森の環境から出るチリなどが含まれた樹幹流の成分は、
木の種類や環境によって異なっている。

様々な成分が含まれる樹幹流が地面に注いで、
そこに生きる様々なものや生物、生物以前のものも生きる。

土地に適した樹木を流れる雨水は、
土地に適した成分を含む樹幹流になるので、

森にとって樹幹流の水は、水道水を注ぐのとは違うそうだ。

数えきれないものが無数に互いに関係しあって自然の森は構成している。


もとの自然の状態だと、樹幹流もその森に合って森を構成するけれども、

例えば針葉樹ばかりの植林の木の樹幹流は、
ph等変わって本来の土地や生物に合いづらく、
森や土壌を弱らせる原因のひとつになっている。

また樹木が土地本来の土地に適したものでも、
空気中の排気ガスなど化学物質を含んだ雨水が樹幹流になることで、
環境を変化させ弱らせたりする。

最近では原発事故で排出された放射性物質も、その要因のひとつになった。


たった、木の幹を流れる雨水という樹幹流ひとつも、様々なものとの関係しあう。
めくるめくような大きな範囲で森羅万象は影響しあってる。



もう自然は本来の自然でないから、
人によるコントロールなしには自然は維持できないという意見が
最近大きくなってきて、

そして人の介入なしには維持できない自然になったのだから、
今後はより積極的に、天候気象の人為的な操作を含めて、
人が地球の自然環境をコントロールしていこうという方向性が強くなっていることは、
容易に同意する気持ちになれない。


人が快適に生きることは、自然のバランスを壊すこと。そうなんだけど。

人間に自然環境を思うように動かすだけの知恵が蓄えられているのなら、
いかに人が手の入らない本来の自然を保ちつつ、人は共存するかという方向で、
なんとかしてその知恵を働かせられないものか、
と、どうしても思ってしまう。

私はあまりものを知らなくて自分の意見は自分で見ても幼稚だし、
こういうのは都合のよい理想論と言われてしまうものだと思うけど。




ごく小さな範囲内のたった一本の木を切っただけで、バランスが崩れて、
あっという間に地面は乾き、苔はなくなり、
土は荒れて、生き物がうんと減ってしまったのを見た。


樹幹流というひとつの要素の中にも無数に感じられる、
複雑に影響しあっているバランスを、
近い利益を得るため人間がする行為がうまく操作できると思わない。

自然のさまざまを壊すことは、結局人も壊すことでもあると思う。


人は生きなければならない。
寒い時にはあたたかいお風呂があったらいいし、
お風呂の暖かいお湯は、膝までよりも、肩まであったらすごく幸せ。
私にだってすっごくわかる。

良いお薬と手術で痛みを免れたのならそれは幸い。


それでも、自分も共生の運命の中で生きて死ぬのだという自覚を、
持つのがいいと思う。

自分は共生の運命の中にあるという自覚。覚悟。




人の経験も、森羅万象の関わりと似ていて、
目先のスパンで見るものでなく遠く関係しあう。

様々な経験は結びついて、いくつかの経験にむすんでいく。
ひとつの経験を自分の想像の範囲で判断すること、
ひとつの経験に意味を付けすぎることはあまり意味のないことのように思う。



近視眼的な一見の利を求めすぎること。
また都合の良い因果、あるいは都合の悪い因果を語ることは、

無数に関係しあっている森羅万象の働きの中にあることを
切り捨てていると思う。



森羅万象が影響しあっている中に生きて死ぬという自覚は、

時間や季節も、地震や津波ももちろん、
自分は人の及ばない無数に影響しあっている自然の中の一部であるという自覚であり、
覚悟だと思う。




仏教で言う他力本願を、人の力をあてにして頼る、と理解して、
批判的に言うのを目にすることがあるけれど。どうして。


他力本願は、
人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない、
自分の人生を生きることの否定でもない。

自分の運命は、自分に見える判断の範疇をはるかにこえた
めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。


仏教で、人智の及ばない森羅万象の無数のはたらきを、
如来の他力と表されたもので、


他力を本願とすることは、
無数のはたらきの中にあることを信じる(実感する 意識する)こと。


他力を本願とすることは、
人智の及ばない無数のはたらきの中にあることの自覚と、覚悟だと思う。




それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。




うーん。どうして?ことばにしようとするとうまくできないんだろう。

今度、も一度チャレンジ。





日本の古い芸能は、祝福の系譜。ことほぎの伝統。
おまじないのような祈りの習俗の流れ。

ことほぎは、自然に寄せてイノチが盛んで栄えることを祈る。
横溢する自然の命の祝福がイノチに反映するように願われた。


ことほぎの特長は、
周囲と無関係に個人を祈るものではないということ。

人は自然の中の一部として、
つながりあっている森羅万象、国土草木(山川草木)、全てのイノチが、
共に盛んであればこそのもので、
共に盛んで長く栄えることを祈る共栄の思想に基づく。


自然の一部としての人の、
自然の共栄の思想が、芸能の底の方にも残ってる。



仏教で仏性とは何をさすのか知らないけれど。
自然の中で、観念的でない具体的なイノチを実感する。
・2008-07-10 神仏習合思想と天台本覚論 01
・2010-08-12 森のイノチ
・2011-03-27 祝福



日本人の命の概念。日本の信仰の流れ。
・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって昔の日本では、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚がやがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、
岩にも木にも仏がいるという理解になっていった。
日本の信仰の流れ。




・2010-08-13 自然と生きること
・2011-04-07 国土の保全 知恵と伝承
・2011-03-17 森林と国土



他力 自然と人

カーナビの仕事から~☆彡*・゚
・2009-10-24 中世芸能の発生 229 地図

地図で見ると人の居住と生活のベースとなる条件は、
ほとんど自然と地形に依存している。

現代の私達が住む場所を選ぶ時、
交通の買い物の利便性や、福祉教育の充実などを重視する。

ただそもそも、その希望が適う市町村は、
多くが自然発生に似て、自然条件の許すところにできている。

大きな街も、広域を俯瞰で見れば、
自然や地形の適するわずかな場所に吹きだまりのようにできている。
ひとつに道は水に沿い、山に沿い、地形に沿って地表をめぐっている。

現代の日常生活では見えずらいが、
人の生活や文化はベースの部分で、大いに自然に依存している。

一方、古来の地図とは別の、現代の地図であるコンピュータ上のデータの地図。

一方通行の時間帯等の入ったデータ状の地図に見えるものは、その街の設計。
データの地図には、
街をどのように守り、どのように人や物を行き交せ、街をどのように発展させていくか、
具体的な視点がみえる。
自然の上にのせた人の意思だ。

データの地図に、
それまで意識していなかった街や国を設計する意識の片鱗に
触れている気がした。




・2011-03-29 自然と人 わざわいもなぐさめも
人の生活は、自然に依存している。

自然の動きは、人にとって恵みとなる。人に大きな災害になる。
それでも人は、自然風土をベースに、自然に寄って生きている。

幼児が、おかあさんにおこられて、泣いて、
そのおかあさんにすがっていくように、

わざわいもなぐさめも、
自然の中にあるのだと思う。





自然の共感と信仰  自他の分離と宗教化

・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型
自然信仰の色の強い古い民俗信仰は、
一神教に相対するかたちで、多神教や汎神論と考えられることが多いけど、
そのようには思えない。

一神教、多神教、汎神論は、
やはり魂や神や概念ができてからのもの。
新しく感じられる。

原始的な信仰の原型は、主客の分かれないところにある。

神と人、のように個々に相対化しようのないもの、

自然との境のない、

主客のない感覚が、宗教の原型だったと思う。




・2008-06-03 自然と我 06
自然に畏敬の念をおぼえ、
自然のありように、止まずときめくとき、

原始的な感覚が、身体を通じて、意識の底からのぼってきて、

具体的に何を祈るということはないけれども、

自、他のはっきり分かれる前は、
自然や、後の時代の神仏に祈る時は、

同時に、自分の中の自然を祈っている。

日本の信仰のはじまりに、
そんなところはなかったか。




万葉集。 神「を」祈る、という表現に見る、自他の分離 人と自然の分離
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏
・2010-08-26 中世芸能の発生 349 神「を」祈る イ罵(の)り
・2010-08-27 中世芸能の発生 350 神「を」祈る 神「を」祈(の)む
・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願

万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。

それより後現代にいたるまでの「神“に”祈る」という表現では、
神は自分から分離し、「対象」となっている。

それより前の時代の「神“を”祈る」は、神と自分が分離していない表現。

自然がひびけば自分もひびく(はやし)。
そのように、万葉集の時代までは、自他の境のない、
主客のない感覚の実感があったと思う。

境がないから「対象」とならない。
自然との境のない、個々に相対化しようのないものを祈る。

その後、自然と人の距離ができ、
自然を体感する身体感覚より優先するものができいって、
自他は分離していく。

自然と密だった素朴で実感的な信仰の時代を過ぎ、
哲学的、観念的な思想を持つ宗教が誕生展開して、
風土や身体感覚を離れて精神的な救済へ向かおうとする。


日本の信仰の特徴として、
木も石も全てのものに命が宿っている、とか、
森羅万象全てに仏性がある、という考え方をあげられるのを見聞きする。

私はそれは、
一人につき一つ心臓があるような、ひとつひとつに個別に神仏が宿るイメージでなく、
もともとは自他の境のないイノチの関係性の実感からきていたと思う。

念仏が溶け合って和合するかつての融通念仏の発想も、
そうした境のない感覚の影響があったと考える。




・2008-07-10 神仏習合思想と天台本覚論 01
姿の見えない鶯の声が、谷間をわたる。

ホケキョウ
ほほき ほほきい。
法喜 法喜 法華経。
誰かには、鶯の鳴も、ありがたいお経に聞いた。

私には命の声に聞こえる。
自然が鶯の声になって、そこに鳴っていると感じる

法華経は、女人成仏を説く。
日本の天台宗の本覚論は、草木成仏にも及ぶ。

日本の天台宗の本覚論は、
有情である人や動物だけでなく、
非情である草木にも仏性はあると考えた。

もとのインドの仏教の、
有情のものは、仏に近づく心を起こし、修行して成仏(悟り)に至る。
非情のものは、心自体を持っていないから、成仏(悟り)はしない。
という思想から、

有情のものは菩提心を起こし修行して
自分の中の仏性を取り出し成仏(悟り)に至る。
草木はそれ自身が仏性の現れとしてあり、
すでに成仏の資格がある(すでに悟りである)。

とするに至った。というところだろうか。

日本では、万物は、遠い仏に近づくのでなく、
むしろ全ての中にすでにある仏性に気付く。というような思想。

天台本覚論は、
知らず身体に沁みている、
日本の宗教以前の自然観でもある古来の信仰に、
仏教の言葉で説明をつけたものと言える気がする。

長い時代をかけ重ねられてきた信仰の習合の働きは、
ここでもまたなされる。

思想を重ね習合を成立させていった底にいつも生きつづけていたものは、
自然の実感であったと思う。






樹幹流 他力本願

・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-27 他力本願
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること
他力本願は、
よく誤用されているように
人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない。

自分の人生を生きることの否定でもない。

他力本願は、自分の運命は、
自分の判断の範疇をはるかにこえた

めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。

それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。




・2012-11-30 動物学者へのインタビュー
たとえば
もうどうにもならない目の前の一つの命の前に立った時、
私たちの心をほんとうに救うのは、その命をつなぎとめる奇跡でなく、
その命もまた私たちの想像の及ばない無数の関係性と全体性の中のひとつだという
現実の自覚ではないだろうか。
それは、ひとつの覚悟であり希望だ。

人もはるかに関係しあってきた自然の一部であるという現実に、
人も救われる。




・2012-12-01 遷宮 季節 細胞  くりかえし新しくなる命への視点



万葉集。植物学者。
・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」

そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、
それが生き物としての人間の表現、

と、おっしゃって、
そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。

日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。

それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。
体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないようなものだ。

中世芸能が生まれるまでの、
芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、
自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。




・2012-12-02 関係性



つづき
by moriheiku | 2012-02-26 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 428 「ホ」 穂(ほ) 寿(ほ)ぐ 誉(ほ)む 言祝ぎ(ことほぎ)



つづき


「ほ」は、あらわれ。

「ほ」は、さきがけ。

のような。


冬の明けきらない頃、
枝ばかりの木々の先に咲く花に
「ほ」を見る。

それをしるしのように感じ、
あらわれた「ほ」に、
先の幸いを重ねる。


生物として、背後に来ている季節の予兆を、
身体に感じていると思う。

春のはじまりに、
いくつも「ほ」を見つける。
・2008-08-13 「ほ」を見る。
・2008-03-23 春の黄の花木 マンサク



「ホ」の音に感じるイメージは、さきがけのような。

頭を出した氷山の小さな一角のような。

はっきりと目には見えないもののあらわれのような感じ。

「ホ」という性質。


「ホ」はこれを語根として
「ほぐ(祝ぐ 寿ぐ)」「ほむ(誉める)」「秀(ほ)」「穂(ほ)」等々
祝福のことばに展開している。けれども、

「ホ」のただ一音の印象は、予兆に小さく胸がふるえるもので、
それ自体善でも悪でもない。
意味でない「ホ」は「ホ」という性質だ。


さきがけの「ホ」に、私達は予兆を見る。

まだはっきりと目に見えていないものの姿を「ホ」に感じる。

そしてそれが瑞兆であることを願う。

だから古来「ホ」は、卜(占い)と親しかった。



精霊や神の概念ができてからは、「ホ」は、
精霊や神の真意のあらわれと観念されるようになった。


万葉集にも歌が残る「ほかひびと」(ほがいびと 食乞者)は、
「ことほぎ(言祝ぎ 言寿ぎ)」をして家々から物を乞い歩く芸能者たち。

ほぐ芸能者である彼らのする「ことほぎ」は、
良いことや命令を言うことで、
物事や精霊をその良い状態へ導こうとする予祝(呪術、ままじない的)の芸能をしていた。


それは当時の人々が祝福を求めた願いから、
(あるいは「ほかひ」「ことほぎ」によって「ほ」をあらわすという
一種卜(占)的な面も含まれただろうか、)
あらわれた「ほ」を良い状態へ、積極的に導こうとするような行為だったと、
「ほかい(ほがい)」の名からも思われる。
いうことをきかせようというもの。
同じ呪的行為でも「たまふり」とは少し性質の違うものだ。


古い詞章や歌など見れば、
「ほ」の意味も、予祝の呪術芸能も、
万葉の時代にはすでにこんなに複雑化していたんだけど。


たとえば平安時代、源氏物語 宿木の、
穂(ほ)にいでぬ物思ふらししのすすき招く袂(たもと)の露しげくして、
のように、

外に現れて人目につくようになることを、
「穂(ほ)に出ず」、と人々が言っていた。

やはりそこには、稲の穂、漢字の穂よりずっと前の、
ただ見えていなかったものが表に現れる、
なつかしい「ホ」の響き(印象)がある。





他「ホ」
予兆 「ホ」
・2008-08-13 「ほ」を見る。
冬の明けきらない頃、
枝ばかりの木々の先に咲く花に
「ほ」を見る。

それを幸いのしるしのように感じ、
あらわれた「ほ」に、
先の幸いを重ねる。



・2008/03/23 春の黄の花木 マンサク
まず咲くマンサクは、
早い春から、黄色の糸を束ねたような花が咲く。

少し前まではどこにでも見られた花木だそうだが、
身の周りにさっぱり見ない。
人の手の入る林によく見られたそうで、
人手が入らなくなったためか、伐採が進んだか。

冬から春に移る色のかすれた山に、
黄金色の糸がひらひらとつく枝に、
豊穣のほを見ていた。



「イ」
・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ
・2010-06-05 中世芸能の発生 320 祈(イノ)リ イ罵(ノ)り
日本の「イノリ」(祈り)とは、
抽象的な神に敬虔な願いを捧げるような新しい祈りでなく、
「イ」を宣(ノ)る強い行為であったこと。



「ヨ」
世 代 夜 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ)
・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ
・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能



「チ」
血(ち) 乳(ちち) 道(みち) 市(いち) ヲロチ(おろち)
・2012-02-14 中世芸能の発生 426 道(ミチ)のチ
・2010-02-11  中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花




「ヒ」
日 火 檜 ヒレ(鰭) ヒロメク ヒラメク ヒレ〈領巾・肩巾〉
・2010-02-17 中世芸能の発生 284 ハタ ヒレ
・2010-02-18 中世芸能の発生 285 ヒ ヒル ヒヒル 蝶
・2010-02-19 中世芸能の発生 286 ヒレ ヒラ ヒレ有る骨柄
・2010-02-20 中世芸能の発生 287 ヒロメク 蛇 剣
・2010-10-03 中世芸能の発生 357 檜扇(ひおうぎ)の民俗




「キ」
木(き) 毛(け) 気(き・け) 気枯れ 穢れ(けがれ)
・2011-09-05 中世芸能の発生 412 キ(木) 毛(ケ) キ・ケ(気)




「ユ」
斎(ゆ) 湯(ゆ) ユ槻(ゆつき) ユ笹(ゆささ) ユツ真椿(ゆつまつばき) 
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは
・2010-04-08 中世芸能の発生 303 日本料理 湯屋 湯聖(ひじり)
・2009-10-19 中世芸能の発生 224 ゆささ 湯




「ニ」
匂う(ニホフ) 丹(ニ) ニフブ(和ぶ 柔和) ニコニコ
・2010-02-13 中世芸能の発生 280 ニフ 土地
・2010-02-13 中世芸能の発生 278 ニコニコ ニフブ 笑む
・2010-02-13 中世芸能の発生 277 住吉のハニフ(黄土)




他「イ」の性質を含む行為の例  斎(い)む 忌(い)む 祝う 呪(いは)う
・2010-02-06 中世芸能の発生 270 イハフ
・2010-02-07 中世芸能の発生 271 イハフ言葉 イハフ行動
・2010-02-08 中世芸能の発生 272 マツル
・2010-02-09 中世芸能の発生 273 イム




<性質をあらわす一音節について>

「チ」「二」「ヒ」  一音節  固有名詞にならないもの  土橋寛 
・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感
・2010-07-07 中世芸能の発生 335 固有名詞にならないもの





・2010-03-05 中世芸能の発生 292 海幸山幸(ウミサチヤマサチ) ことばの音

・2010-05-17 中世芸能の発生 312 ことばの神聖視

・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷



つづく
by moriheiku | 2012-02-16 08:00 | 歴史と旅

日焼け


毎日ように電車に乗る。
二月のはじめのある日から、車窓の南側の窓から差す光がピッカリと変わった。
いつも笑えちゃうほどある日ぴっかりと、光の種類が変わる。

このあいだ、街道の市(いち)を歩いたのは二時間にも満たないのに。
帰って来てから顔がイタくてイタくて。
どんどん痛くなってきて。

お風呂に入るのは、ちょっとやけどをした指をお湯につけるのとおんなじで、
もうイタイ、イタイ、イタイ。

何をしていてもずっとイタくて、
普段は自分を触りたくないとっても冷たい自分の指先を、
ずっと顔にあててる、あれから数日間。
(冷たい手、こんな時は便利。)

市に行っている時、髪を後ろでひとつに束ねていたから、
顔は、目の周りだけ白くて、あとは耳まで赤くなっちゃった。

この時期の日焼け。
毎年毎年、この時期、懲りずに、こういうイタイことになる。
もー。
by moriheiku | 2012-02-15 08:01 | つれづれ

中世芸能の発生 427 厄除けのおまんじゅうの分配



つづき


その市(イチ)の立つ日は、そのあたりの人々は、
神社で神様に捧げたお米が使われてるっていう
食べると厄除けになるというおまんじゅうを食べるのがならわしだそう。

春のはじまりに、このおまんじゅうを食べて、
今年一年を無病息災で過ごせますようにという願い。



これは、お祭りに使った松明(たいまつ)の火や、火の粉や、
燈心のようなものをいただいて帰ったり、

聖なる水とされるお水を汲んで飲んだり、

神社で神様に捧げたお酒や贄など神饌を
皆で分配したりするのと同じことで


神聖なイノチのチカラに満ちたものをいただいたり身近に置くことで、
そのチカラが伝染することをと願うもの

その結果厄が払われる。
神社のおふだやお守りもこうしたもののひとつ。


ありがたいもの、おめでたいもの。
神聖なチカラに満ちたものの感染を期待する、
古~い時代からの呪術的な行為。

日本では現代もマジカルな行為が身近にいっぱい。


自分の身体の痛いところと同じ場所を撫(な)でて不調の軽減を願う撫で仏も、
仏の姿ではあるけれども、
仏教以前の、身体的な実感からつづいてきた呪術的な行為の系譜にある。


我欲を捨てることで苦しみを逃れるという論理的な宗教の理論の中に、
宗教以前のマジカルなものへの期待と行動は生き続けている。
それらが習合したものが日本の宗教の形になっている。


現代では呪術というとおどろおどろしいものをイメージされることが多いけど、
ここで言う呪術は、
抽象的な神を媒介として願望の達成を祈るというような
比較的新しい宗教的な祈りというよりは、
神を媒体とせずそれ自体に直接はたらきかけようとする行為にもとづくもののこと。
まじない。


強い名を付けて、丈夫な強い子に育ちますように、とか、
美しい名を付けて美しい子になりますように、という行為も、
ここでいう呪術的行為のひとつ。

ぴちぴちした人の近くに行くとぴちぴちした気持ちになったり、

爽やかな土地に行って、晴々したり。

やさしい音におだやかな気持ちになったり、

良い香をきいて、リラックスしたり。

うるさい音の中でいらいらしたり、

山野で獲れたての、活きのいい食べ物を食べると
元気になるような気がしたり、

そうした身体的行為に基づくものが、
哲学的抽象的な宗教以前の、呪術的意識の基本として今もあると思う。



現代人にも日常的な、
ありがたいもの、おめでたいものにあやかろうという行動は、
そういった古い時代からの身体的感覚に基づく行為と基本的にかわらない。


で、市に行って、ありがたい厄除けのおまんじゅうをいただいて、
みんなで分けて、楽しかった☆


ついでに私だけこっそり日本再体験気分も満喫。



ありがたさの伝染

・2009-10-28 中世芸能の発生 233 ふくらすずめ

・2010-05-15 中世芸能の発生 310 くすり 呪術

・2010-05-14 中世芸能の発生 309 はやし はやす

お相撲さんにさわったりすることも

・2010-09-24 中世芸能の発生 356 横綱と神木





・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型

・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応
・2009-12-08 中世芸能の発生 260 呪術・宗教と身体感覚
・2010-02-14 中世芸能の発生 295 奄美のユミグトゥ(ヨミゴト)


・2010-03-05 中世芸能の発生 292 海幸山幸(ウミサチヤマサチ) ことばの音

・2011-02-24 中世芸能の発生 382 ビターオレンジ ダイダイ(橙)


・2008-06-01 自然と我 04 古代の信仰

・2008-06-03 自然と我 06




古い時代における神聖とは、生命力・霊力の強さをいう。
清浄・タブーの神聖観念はそれよりも後。
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは

日本の芸能は祝福(寿ぎ)の系譜。
横溢するチカラにあずかって、
イノチのゆさぶり、イノチを活発化しようとした呪術的行為(タマフリ)の系譜。




市(イチ)のこと
・2012-02-12 中世芸能の発生 424 市(イチ)
・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ
・2012-02-14 中世芸能の発生 426 道(ミチ)のチ



つづく
by moriheiku | 2012-02-15 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 426 道(ミチ)のチ



つづき


漢字より前からの古い時代の「チ」の音を含む語、例えば

「ミチ」(道)、「チ」(血)、「チチ」(乳)、「ヲロチ」(大蛇)、「イノチ」(命)、

等々は、

「チ」の音のあらわす種類の性質を内蔵するという感覚に基づき
「チ」の一音節を語根としたことば。


「チ」は チカラ の チ  命は「イ」の「チ」。
・2010-02-11  中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花



古い時代からのことばの音の印象は、
古い時代の、共通する一音節の音を語根として含む語をいくつか並べてみると、
それらに共通する性質がいっそうよくわかり、
一音節自体の音の性質も理解できる。

例えば、「ヨ」の性質を含むもの。「ヨ」の性質。
世 代 夜 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ) 
・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ



語の語根となり様々な語を形成している特徴的な一音節の
「イ」「チ」「二」「ヒ」「ヨ」等を含む名詞、動詞、形容詞、接頭語、神名等を見ると、

文字より前の、古い時代の人々が、
何を神聖視してきたかがうかがえる。

それは固有物でない、
性質(昔の人にとっての霊質)であったと理解される。




「ホ」   花の穂 稲穂  祝ぐ(ほぐ 寿ぐ) 言祝ぐ(ことほぐ) 誉む(ほむ)
・2008-08-13 「ほ」を見る。




「チ」「二」「ヒ」  一音節  固有名詞にならないもの  土橋寛 
・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感


「ヒ」
・2010-07-07 中世芸能の発生 335 固有名詞にならないもの




「ヒ」のこと
・2010-02-17 中世芸能の発生 284 ハタ ヒレ
・2010-02-18 中世芸能の発生 285 ヒ ヒル ヒヒル 蝶
・2010-02-19 中世芸能の発生 286 ヒレ ヒラ ヒレ有る骨柄
・2010-02-20 中世芸能の発生 287 ヒロメク 蛇 剣



「キ」のこと
・2011-09-05 中世芸能の発生 412 キ(木) 毛(ケ) キ・ケ(気)



「ニ」のこと   匂う(ニホフ) 丹(ニ) ニフブ(和ぶ 柔和) ニコニコ
・2010-02-13 中世芸能の発生 280 ニフ 土地
・2010-02-13 中世芸能の発生 278 ニコニコ ニフブ 笑む



古代における神聖とは、横溢する生命力・霊力の強さ
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは




・2012-02-12 中世芸能の発生 424 市(イチ)
・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ
・ 2012-02-15 中世芸能の発生 427 厄除けのおまんじゅうの分配





・2010-05-17 中世芸能の発生 312 ことばの神聖視





つづく
by moriheiku | 2012-02-14 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ


つづき


古代の市(イチ)は、ミチ(道)を通って、
文物や人やさまざまのものの交錯するところで、
イノチやチカラのあつまるところと考えられた。

「イチ」(市)の語を構成する「イ」の一音節は、元来、
生命力・霊力の横溢する状態を意味。

その「イ」の音のイメージは、
たとえば「厳(いつ)」「いかし(厳し)」の語に今も感じられるように、
たけだけしいほどの自然の生命力の横溢。

古い時代の人々はそういう性質や力を霊威・神威と考えて、
「イ」のような性質を表す一音節が
神聖なものをあらわす語に用いられていったと考えられる。


「イ」を語根とすることば
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いか・し 【▽厳し】 (大辞林)
(1)霊威が盛んである。神秘的な力に満ちている。
(2)たけだけしい。荒々しい。

いつ 【▽厳/〈稜威〉】 (大辞林)
(1)神聖であること。斎(い)み清められていること。
(2)勢いの激しいこと。威力が強いこと。
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いつ・いち【厳】 → 「いちはやぶる」 → 枕詞の「ちはやぶる」

例えば厳島(いつくしま)神社のある厳島(いつくしま)は、
「イ」の横溢する島。とことばの音から感じられる。
・2008-10-03 中世の人の感性




元来、日本の「イノリ」(祈り)とは、
抽象的な神に敬虔な願いを捧げるような新しい祈りでなく、
「イ」を宣(ノ)る強い行為であったこと。
・2010-06-05 中世芸能の発生 320 祈(イノ)リ イ罵(ノ)り

このように古い時代の「イノリ」は、
強い行為によって効果の伝染を期待する身体的実感を元にした行為で。

それは、自分から分離した遠い抽象的な神などの存在に祈るものでなく、
イノリの対象が自分とつながっているという、
自他が分離していない、したがって伝染する、という
身体的実感に基づくものであったことがことばからもわかる。


他、「イ」の性質を含む行為の例  斎(い)む 忌(い)む 祝う 呪(いは)う
・2010-02-06 中世芸能の発生 270 イハフ
・2010-02-07 中世芸能の発生 271 イハフ言葉 イハフ行動
・2010-02-08 中世芸能の発生 272 マツル
・2010-02-09 中世芸能の発生 273 イム




「チ」
・2010-02-11  中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花


「ホ」  花の穂 稲穂  祝ぐ(ほぐ 寿ぐ) 言祝ぐ(ことほぐ) 誉む(ほむ)
・2008-08-13 「ほ」を見る。



「ヨ」  世 代 夜 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ) 
・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ
・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能



「ニ」   匂う(ニホフ) 丹(ニ) ニフブ(和ぶ 柔和) ニコニコ
・2010-02-13 中世芸能の発生 280 ニフ 土地
・2010-02-13 中世芸能の発生 278 ニコニコ ニフブ 笑む
・2010-02-13 中世芸能の発生 277 住吉のハニフ(黄土)



「チ」「二」「ヒ」   一音節  固有名詞にならないもの  土橋寛 
・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感



・2012-02-12 中世芸能の発生 424 市(イチ)
・2012-02-14 中世芸能の発生 426 道(ミチ)のチ
・ 2012-02-15 中世芸能の発生 427 厄除けのおまんじゅうの分配



イの印象を意識する時、

イ・・イカリ(怒り) イカリって、、こわいね。

リアルに感じる。



つづく
by moriheiku | 2012-02-13 08:00 | 歴史と旅