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奈良 佐保の人01




つづき


大伴家持の邸宅のあった佐保は、
平城宮の北東側一帯を指した。

当時の佐保は平城宮の北東、
法華寺町、法蓮町から東へ2、3km、東大寺のすぐ北の川上町あたりまでの、
南に佐保川と北のならやま(平城山・奈良山)の間の地域を指したと思われる。

ならやまを越えるともう京都府木津川市。
恭仁京の置かれた加茂町だ。



佐保は、今ではずいぶんたてこんで、
和歌にその清流と自然を詠まれた佐保川は、
現在は太い溝のようになってしまったところもある。



現在はともかく、
奈良に京が置かれた頃は、
佐保は高級官僚が広い宅地を与えられた地域だった。


私にとっては、
佐保の人といえば大伴家の人。
佐保といえば、家持の住んでいたところ。

だから万葉の最後の詩情が、消えかけながらあったところ。
もうすぐ万葉の時代は完全に終わりになって、次の時代になるところ。



佐保の家持の家は、
藤原京から平城京へ遷都された折に、
家持の祖父、大伴安麻呂が屋敷を構えたもので。
家持は、佐保に住む大伴家の総領だった。



つづく




▽関連日記
2007年10月25日 恭仁京06 京の夢と水利


─── <夕食> ────







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by moriheiku | 2007-10-31 08:00 | 歴史と旅

理想の土地



市の大きな複合施設を、研究所の敷地に造るという話は、
数年かかって一度消えたが、
再び再燃。

建設予定地に決定していた土地が他にあったけれども、
それは白紙撤回された。

先の選挙で、
建設予定地に決定した土地にはその施設を建てないと言った人が勝利したためで、
つまり、その建設予定地にその施設を建てないことは公約なのだ。


それって票集めちゃうん?
人口の多い元建設予定地に、
おいしいことを言って?

なーんて、
つい、邪推を。

いけない。



選挙権を持った人々と対するより、
研究所の母体である大学を相手にしたほうが、
組みし易いと思ってるでしょう?

とか、


研究所内に働く人々は、
所詮外の土地からきている人々なんだから、
と思うでしょう?

なんて思ってしまう。


そうとう疑り深い、
物事をそんなふうにうけとる自分を深く恥じる。

恥じている。

恥じている。

恥じる。






建設反対を公約にしたあの人の顔、あれは、
「整理、整理。造成、造成!」
で、やった、と思う人の顔。それとも。


研究所のあたりは、
ものすごくおいしい場所に見えてるだろう。




整理整理、造成造成!

実にさっぱりしていい!

森をつぶすことは平気。



なにか広い土地を整理して、
目に見える大きな道路や建物を建てると、
それが立派な、すごく大きな“自分の”成果に見えるのだ。
そういう人々は居る。
 
そしてそこには利害がぶら下がっている。




市の施設を建設するだけなら、資金のめどもたち、
気分はいけいけだが。

新聞でちょっと見たけど、
研究所を移転して敷地の全てを更地にして、
研究所が市に土地を貸す形にするとして、
市はずっとその賃料を払い続けるわけ?びっくり。

建設後の維持にかかる莫大な費用は、多くの市の財政を圧迫してますぞ。


でも研究所だって木の研究してるんじゃないんだから、
その研究所トップの人は、それは良いはなし、と思うかもしれない。
研究者は自分の研究ができればいい、と思うだろう。


なんなら、
撤回されたが、一度建設予定地が決まる前に、
研究所と同じように建設候補地のひとつだった私の家のそばはどうかしら。

建物移転や、森をつぶすこともない。
広い土地があるけど。

どうしてあそこは立ち消えたまま?

不審。




研究所だって、
新しい電波望遠鏡の建設で、木、ものすごく切ったし。


でも木が好きだから、
もう巨木になったたくさんの木を伐ってほしくない。

も少し議論して。


と思うそれも我欲か。






昨日、研究所の横をタクシーで通り、
その時間研究所内にいるかもしれないぷじょ~さんに、
心の中で「ヤッホーーー!」と声をかけ、
森の外から(心の中で)手をぶんぶん振った。

タクシーの運転手さんも、
「木は簡単に伐らないほうがいいねえ。」
と言ってたぞ。(私に合わせてくれたわけじゃない。)


いつあるかもわからない次の選挙で、
また逆転し、
建設案は戻るのかもしれない。
住民、市、建設関連業者、他が見ている。動いている。

大人社会は面倒だが逃げることのできる理想の土地など、
この世にはない。


ないのです。

聖武帝。






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by moriheiku | 2007-10-30 08:00 | 言葉と本のまわり

月の影







 
虹の出た日の夜の、
 
さやかな月影。










 

─── <夕食> ────







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by moriheiku | 2007-10-29 08:00 | 言葉と本のまわり

山の風




登山家の田部井淳子さんがお話していらっしゃるのを
こちらで拝見していた。

田部井さんは、
ご自身が山のようなかたで、
とても好きになった。


田部井さんは、ご自身が登って来られた山々のよう。
大きな山々。
高い山々。
自然の移りかわりを見せる山々。



田部井さんの周囲は、山の空気に変わってしまうみたい。
澄んだいい空気が出ているみたい。


お声は、うそがなく、てらいもなく、
本当に山がお好きなのだとわかる。


お写真で拝見するより、やわらい、やわらかいかただった。





私が好きな山は、私は樹が好きなので、
尾根歩きをする山よりは
吉野熊野の境あたりの奥駆け道のような山だけれども。




たくさんのきついことを越えてこられてなお、
山のように爽やかにいらっしゃる田部井さんの、その日の一瞬と、
すれ違うことができてほんとうによかった。


窓のない屋内も山になった。






─── <夕食> ────







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by moriheiku | 2007-10-28 08:00 | つれづれ

吸収




飲食の前、口紅を拭き取ることが多い。

落ちやすい口紅が好きなので、軽く落ちる。


近くにあったウエットティッシュで拭き取ったら、
だんだん、ものすごく唇が痛くなった。

切れてもいないし、血も出ていない。

夜、いつもはなにも感じないマイルドなお化粧水がしみた。

イタイ。

水で流したけれども、

イッターイ。



唇が痛くて、
よく眠れない。




ウエットティッシュって、
ただ水を含んだティッシュというだけではないんだ。


お化粧水って、お化粧品って、
それから薬品(ウエットティッシュの)も、
肌に浸透するものなんだ。
と実感。
by moriheiku | 2007-10-27 08:00 | 香 生薬

つくすこと




つづき




私は聖武天皇に、恭仁の京を実現させてあげたかった。

そのために人民が疲弊しても?
それでも?
どうだろう、
どうだろう、
どうだろう。


恭仁京が実現すれば、
その後数度にわたる京の変遷は、なかったかもしれない。あったかもしれない。



決定的に人心に理解されなかったことは、
聖武帝にとって大きなことだっただろう。

なぜこの計画が理解されないか、
その理由は聖武帝にわからなかっただろう。


だから実現させてあげたかった。

と思う。




それで、
私はその場に居て、
政治的な配慮よりもその思いを持ち続け、
最後までそう思いきれただろうか。


実現させてあげたいと思い続けることができただろうか。


盲目となりきる気概を持ち続けることは。




今となっては幻ですけどねー。










歴史に興味を持つって、

土地を知ること、気候を知ること、文化を知ること、暮らしを知ること、
歌を知ること、美しいなにかを知ること、何もかも知ること。
誰かの人生を知ること。
多くの人の生を知ること。




でもほんとうは、

歴史でなくったって、
入り口はなんだっていいんだ。
なんだって。なにからでも。










2007/10/31 奈良 佐保の人01 へつづく








─── <夕食> ────







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by moriheiku | 2007-10-26 08:00 | 歴史と旅

恭仁京06 京の夢と水利




つづき




恭仁宮は、山と大河泉川(木津川)に挟まれた土地に置かれており、
その地形からして、
恭仁京の規模はごく小さいもので、
一見それ以上に京を広げられないように思うが。


実現はならなかったものの、聖武天皇の計画は壮大だった。

こちらに本拠を持った橘諸兄もそうだっただろう。



聖武天皇の計画では、
恭仁京の中に、
東西南北に蛇行する大河を流し、
川を挟んで北と南にあって中央にせり出す山ごと、丸ごとを、
恭仁京の範囲としようとしていたようだ。


その規模は、平城京を上回るものだった。



計画は途上にあり、すでに僧、行基の協力で、
右京となる西に大橋の建設も済ませていた。


ああ、そうするとその先は、もう長岡京市に近づく。
後に桓武天皇の長岡京が造営されたところだ。




聖武帝の中でありありと描かれていた恭仁京は

いやもう、
当時の唐の京にならう京のつくりからすると、思いがけなく、どうよ、なつくりではあるけれど。

青龍、朱雀、白虎、玄武、四神の守りも関係のない、この京を。


実現したところを見たかった。





反対も随分多かっただろうな。

人心のね、理解をね、

理解を得られなかった。



その熱い思いは、
行基のような僧も動かしたのだけど。




その後、数度京を変遷させる聖武帝ではあるが、
折にふれ恭仁に戻っている。
思い入れがあったと思う。


とかく情緒的に語られるけれども、
この地に京を置こうとした具体的な理由はあったことはわかる。





ここでも打ったけど、
恭仁は、木津川沿いにある。


恭仁は、
三重県側から紀伊半島を覆うように蛇行してくる木津川と、
琵琶湖(滋賀)方向からとどく宇治川と、
京都の西側を通って流れる桂川の三川が合流し、淀川となる地点の近くにある。
そしてその淀川は大阪湾へ続く。

奈良から京都、三重へ抜ける街道のはしる古代の駅が置かれた場所でもあり、
地形的に、道の面でも水利面でも、
奈良、京都、三重、大阪につながる場所だった。
山河は天然の要害ともなった。




京の建設には、大量の木材が必要とされる。

その面からいえば、
平城京に京がはじめて建設された時でさえ、
周囲の山は、荒れに荒れた。

飛鳥時代から奈良周辺の山々の木々の伐採は進み、
山家水を蓄えられなくなったため、土砂は流出、
川は氾濫し洪水が多発していた。


そのためこの水利は木材調達の面でも大きな役割を果たした。

後の時代の、平家による南都焼討後の南都復興でもそうだ。
その折に木材の津、木津となり、
泉川という名の川は、木津川に名前を変えた。


これらの大河の水利によって海のない奈良盆地は各地へつながり、

滋賀、琵琶湖周辺から、三重、紀伊半島から、
川をたどって遠く木材が運ばれ、
あるいは海から物資が運ばれ、
京を作った。






土地を実感することって大切。(私にとって何に大切と言うのだ…汗)

CGなどでなく、粘土で、指を使って土地のジオラマ作ってみたい。
もっと理解できるだろう。


紀伊半島を思いっ切りぐねぐねと流れやってくる木津川水系の蛇行ぶり。

それをね、いつか電車で追いかけてみたい。




学生の頃、大阪枚方の友人も、
木津川沿いを行くJR片町線は、いったいどこに行くの?って言ってた。

都会から距離はそうないのに豊かな山河に包まれたままでいた加茂町の、
加茂駅の前にびっくりするような高層マンションが建って、
そこに都会のにおいがする。

温泉付きマンションだって。
職場まで電車一本の人も多いだろう。
そうだったら、私も住みたいなー。





歴史に興味を持つことって、
土地を知ること、気候を知ること、文化を知ること、暮らしを知ること、
歌を知ること、美しいなにかを知ること、何もかも知ること。
誰かの人生を知ること。


まだ奈良に入る前。


まわりきれない恭仁のあたりは、
また次の旅。






関連日記
2006年10月28日 恭仁京と大伴家持



つづく






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by moriheiku | 2007-10-25 08:00 | 歴史と旅

恭仁京05 大極殿




つづき




あ、そうそう、

恭仁京、大極殿跡にももちろん行った。


木津川の右岸、
大河の流れを南にして、北の山までの間の平らな土地、

今はなだらかに畑の広がる中に、恭仁宮の跡はある。


大極殿跡のすぐ隣には、恭仁小学校があり、
木造校舎がひじょーーに味わい深い。

遠くなっても、ふるさとを思う、
郷土を愛しつづける心が養われそう。


それにしてもこの小学校建設の際は、
色々出土したはず・・。





大極殿跡は、周囲の地面から一段高くなっていた。
土壇の上は、今はさして広くない草原で、

西の隅にほんの小さなお堂と、
石塔と、礎石が、
草の間に見える。



大極殿のすぐ東には、
畑の中、唐突なくらい
空に届きそうな大木がぼんぼん生えている。

ここが、ここで書いた御霊神社があったところみたい。


その茂りの南端には、塔の跡がある。



恭仁京から京が移ったあとは、
宮あとは国分寺にされた。


宮の大極殿は国分寺の金堂になった。

塔の跡は、その国分寺の塔の跡(礎石)。



御霊神社は、神仏習合の頃のことで、
国分寺の中におまつりされていた社だった。



大極殿跡の、周辺の畑はコスモスが満開で、
コスモスを見に、たまに人が来て、車を止めて見ている。




御霊神社があったらしい大木の茂る下では、
誰かが熱心に笛の練習をされていた。


能の笛でなくて、リコーダー?


いいなー。




つづく






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by moriheiku | 2007-10-24 08:01 | 歴史と旅

恭仁京04 離宮跡を探す




つづき


平城京をひと山越えたところにある恭仁は、
奈良時代、聖武天皇の御世に、一時京のあった場所だ。


今回奈良時代を中心に見て、
恭仁に京を置いた聖武帝とその前後の、京の変遷は以下。


672年 飛鳥京  天武天皇 → 持統天皇 

694年 藤原京  持統天皇 → 文武天皇 → 元明天皇

710年 平城京  元明天皇 → 聖武天皇

740年 恭仁京  聖武天皇

744年 難波宮  聖武天皇

745年 紫香楽宮 聖武天皇

745年 平城京  聖武天皇 → 孝謙天皇 → 淳仁天皇 → 称徳天皇 → 光仁天皇 →桓武天皇

784年 長岡京  桓武天皇 

794年 平安京  桓武天皇



頻繁に遷都された聖武帝が、
恭仁京を都においた期間はいくら短いとはいえ、
ほんとうの幻だった京は紫香楽ね。
半年もない、
数ヶ月の幻。




この辺りには、恭仁京が置かれる前から、
岡田離宮、甕原離宮があった。


今回、離宮推定地あたりに行ってみた。


あのあたり?と思うあたりへ。
広い河原の畑をつっきり、
竹やぶを抜け、
農作業するおじさんとかに、尋ねながら。



ああ、、わたしは、なにをしてるんだろう。







離宮のあった、おかだ、みかのはら、の名は、
残っているけれど、
離宮跡は不明。


離宮は、たぶん恭仁京の斜め向かい。
泉川を隔てたあたりか。
加茂町法花寺野のあたりか。






この日は、のんびりと良い秋の日で、


翌日、メインの日に、

どっしゃどしゃの雨が降ることも、

まだ知らなかった。





つづく







─── <夕食> ────







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by moriheiku | 2007-10-23 08:00 | 歴史と旅

恭仁京03 加茂氏



つづき


恭仁京は、泉川沿いにあった。

泉川は現在の木津川のことだ。


恭仁のある場所は、
紀伊半島(三重県)から流れてくる木津川と、
琵琶湖(滋賀県)方向からの宇治川、
京都西方向からくる桂川の三川が合流する地点の近く。

木津川、宇治川、桂川の大河三川は合流して淀川となり、
大阪湾へ注ぐ。



恭仁は、昔
奈良から京都、三重へつながる街道が通る古代の駅が置かれた場所でもあった。


現在のように縦横に道路がはしっていない頃、
整えられた道は人や物の流れに今よりずっと大きな意味を持っていた。

海や河川を使った交通や水利も同様で、
今より重い意味があった。


恭仁は、地形的に、道の面でも水利面でも、
奈良、京都、三重、大阪へ、もっと遠くへつながる場所だった。


これらは大変重要なことだ。






加茂町の「かも」は、
土地を支配した古い氏族、加茂(鴨)氏に由来していると言われる。

賀茂、加茂、鴨。どの字も使う。

加茂氏の系統が、もとは一つだったか、
それともいくつかあったかは議論のあるところ。

だが、どの加茂(鴨)氏、いずれにしてもずいぶん古い氏族で、
歴史上に登場する「かものなんとか」さんとかの人物名はよく聞く。



加茂氏は水に関わりの深い氏族で、
賀茂社(上賀茂神社や下鴨神社)につながるものと考えられる。

同様に水利を司る秦氏(松尾大社)とも関わりが深く、
後に、加茂氏と秦氏が、
平安京の治水と建設に重要な意味を持つことになるものだ。



つづく






─── <夕食> ────







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by moriheiku | 2007-10-22 08:00 | 歴史と旅