みつ 03 常世の水のとどく川 のつづき 「みつかわ」の音からそういえばと思って辞書を見ると、 愛知県の三河地方の「三河」も、万葉以前の音は「みつかわ」だったようだ。 三河地方の海岸沿いにも御津という地名がある。 近くには律令下の国府、国衙が置かれ、 その近くには三河国の総社(現 白鳥神社)が現在もある。 ▽総社 - Wikipedia 総社とは、ある地域内の神社の神を集めて祀った神社のことである。 国の神社を集めたもの、荘園や村の神社を集めたものがある。 郡・郷などの総社もある。 その「三河」の「御津」へは、 譲位後の太上天皇となった持統帝が行幸し、 近辺にひと月ほど滞在していた。 旅がとても多かった持統帝だが、この時の行幸は、 伊勢から船で伊良子から三河御津あたりへ上陸、国府あたりに滞在、 尾張、美濃、伊勢、伊賀を通り奈良へ戻ったらしいと記録から推測されている。 持統帝の三河行幸の理由は不明。 あるいは、持統帝の夫であった天武帝が政治的に味方を増やすため 伊勢や美濃の国と神々を参ったように、 政治的にも宗教的にも諸国を味方につける意味の行幸だったかもしれない。 別の理由であったかもしれない。 いずれにせよただの遊山ということはないのだから。 持統帝はこの行幸から戻ってひと月後に崩御したため、 遠い目線で判断した計画であったか今はわからない。 この時同行した長忌寸意吉麻呂が、 引馬野(地名)で詠んだ歌。 引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱れ衣にほはせ 旅のしるしに (57) 右の一首は長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ) 引馬野に美しく色づいている榛原の中に分け入って、さあ皆よ衣を染めるがよい、旅のしるしとして。 ・旅の記念として「にほふ」は多用。 ・黄葉の色どりの映発を「にほふ」と言った。 ・榛原 ハンの木の原。 参考:『万葉集(一)』 中西進(著) 引馬野という地名と行幸日程など合わせ、 歌の詠まれたのは現在引馬神社のある三河の御津か別の土地か。 万葉集中、引馬野の歌に続いて掲載される、 やはり三河あたりに行幸中に高市黒人が読んだ歌、 何処(いずく)にか船泊(ふなは)てすらむ安礼(あれ)の崎漕ぎ廻(た)み行きし棚無(たなな)し小舟(をぶね) 今はどこの津に船どまりしているだろう。安礼の崎をめぐって漕ぎ去っていった、あの棚無し小船は。 参考:『万葉集(二)』 中西進(著) 講談社文庫 三河の御津は、持統帝より昔、 神代とされる頃の第八代孝元天皇が行幸に 船を寄せた地と考えられているそうだ。 古代には、みつ(御津)・つ(津)はただ港ということでなく、 威力・霊力の満ちた水の寄せる神聖なみつ(御津)・つ(津)から上陸すること、 みつ(御津)・つ(津)から出港することに大きな意味があった。 そのみなもととなっているのが、うんと古い時代の、 海の彼方にイノチの湧くところイノチの往くところがあると考えられていたこと。 渚の神聖に見る 海の彼方に対する思想とその変遷 ・2012-01-20 中世芸能の発生 421 若水 渚に寄せる水 ・2012-01-21 中世芸能の発生 422 渚の砂 うぶすな 産砂 産土 ・2012-01-22 中世芸能の発生 423 白砂 白沙 お白州 古墳に見える 海の彼方に対する思想とその変遷 ・2011-08-16 中世芸能の発生 408 『他界へ翔る船 「黄泉の国」の考古学』 ・2011-08-16 中世芸能の発生 409 船の棺 上記リンクに見るように、 古代には、みつ(御津)・つ(津)はただ港というのでなく、 海のかなたのイノチの湧くところから威力・霊力の満ちた水の寄せるところだったので、 神聖なみつ(御津)・つ(津)から上陸すること、 みつ(御津)・つ(津)から出港することには大きな意味を持っており、 それはイノチの満ちた水の寄せる神聖(威力・霊力)を帯びることになるのだった。 それが、天皇が沖から寄せる水のようにみつから上陸することや、 遣唐使や、大陸へ出兵する兵士や、防人たちがみつから出港し、 みつへ戻ることの意味。 つづく
by moriheiku
| 2008-01-15 08:00
| 言葉と本のまわり
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