神仏習合 02




つづき


論理化することは、オリジンを感じることとは別の遊びだけど。
もちろん人々の真摯な気持ちで進められた。

新しいものを見出す喜びも後押ししただろう。


理屈の上に理屈を重ね、その理屈は命を持ち、
オリジンとはまた別の花を咲かせる。

※2008/06/24 比叡山 千日回峰行



仏像を美術品として見ることのできる人もいる。
私はできないなー。

私は、あると思うのはただ自然だけで。
宗教を持ってない。

けど、
仏像を美術品としてだけ見ることはできない。


そこにオリジンの上に積み重ねてきた人々の
真摯な想いの層が現れているから?わからない。



テレビで仏像の特集番組など流れると、すっごく忙しい。
ソファに座って大きなカップでミルクティーなんて飲んでいても、
お仏像が画面に映れば、
どうしても姿勢を正して手をあわせなくてはいられない。
なぜなぜこの衝動。

一応、偶像崇拝、なんて思ったりして抵抗するものの、
結局磁石のように両手のひらを合わせて、
画面の仏に向かっている。



オリジンと、
信仰へ向かう熱い気持ちから論理化され整えられていった日本の仏教と、
両方を受け入れてる。

神仏習合の思想を受け入れてる。

私は日本人だ。



2008/06/22 オリジン
2008/06/23 体系化
2008/06/24 比叡山 千日回峰行
by moriheiku | 2008-06-27 08:00 | 歴史と旅
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