比叡山 千日回峰行




づづき



比叡山延暦寺の千日回峰行のこと、以前、テレビで見た。
天台宗で行われる行で山岳信仰の系譜。
千日回峰行は千年ほど前に形作られ現在も続いていると聞いた。

数年間かかって満行する千日回峰行は、
その中の行一つ一つ、一歩一歩に意味があるそうだ。

千日回峰行の行は、峰々を歩きながらする行が多い。
行者は一木一草、生きるもの全てに経を唱えながら峰をめぐる。
ここのお堂ではこの真言、この仏様にはこの真言、などの決まりがある。


例えば、峰を歩く行では毎日七里半を廻ると言われる。
仏教の八識を知ると悟るという考えかたからで、
かぎりなく悟りに近づき続けるという意味で、
八に至らない七里半を廻る、とされるそうだ。


千日回峰行の途中九日間の堂入りでは、
九日間不食不眠で人の欲から離れる。水も飲まない。

欲を持ったものが人であることからその欲を捨てる。
食欲、睡眠欲、色欲。
それらをぎりぎりまで捨てる堂入りで、
いったん人でなくなるような体験をして、またかえってくる。
死と再生の体験。


それ以降はそれまでの自利行、自分のための行から、
化他行(利他行)、人のための行へ、行が増える。
人のために加持祈祷する資格を得ていくそうだ。


満行に近い頃になると、行をする人は僧侶であるが、里の宮へも参る。
溶けあっていた神仏を強制的に分離させられたのは
ごく最近の明治のこと。




千日回峰行のルーツには、
原始的な習俗、民俗信仰、自然信仰、山岳信仰があったと思うけど、

仏教的には、
仏教のお釈迦様の修行を追体験すること、で、
それは約千年間つづいてきた千日回峰行をおこなってきた人々の
経験から形作られた決まりごとの上を歩くことでもあると思う。



原始的な民俗信仰の上に、
一つ一つに意味を重ねて持たせてきた人たちの、
積み重ねたものの上を歩く。
そんな意味も加わるかもしれない。


原始的な生命感の体感であると同時に、
先に行をした人々を信じ、仏の加護を信じて行う行。
だろうか。


行を求めた先人の気持ちは、行を求める今の人の気持ちと重なって、
時代時代に美しいものを開かせる。





千日回峰行を満行されたかたが、

千日の行をしたのでなく一日一日できることをした、
今日も無事に歩かせてもらった、それが千日になっただけ。

誰かの苦しみや悲しみに手を貸してあげることはできても、
替わってあげることはできない。
お手伝いができれば、
ということをおっしゃっていた。

利他。菩薩の姿かな。




・2008年 05月 27日 山岳信仰 01

・ 2008-12-29 中世芸能の発生 45 忍性 利他

・2008-12-30 中世芸能の発生 46 衆生救済

・2009-07-13 中世芸能の発生 175 堂衆と千日回峰行
童子は仏(僧侶)の従者をするもの、と位置づけられた





・2011-07-22 中世芸能の発生 402 神仏習合思想 日本人の仏教
神仏習合の底に流れるもの

神仏習合は、古来の民俗信仰と渡来の仏教思想の
矛盾の中で苦しむ精神の整合性をとるために、
切実に求められ一気に進んだのではないかと思う。
by moriheiku | 2008-06-24 08:00 | 言葉と本のまわり
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