恭仁京06 京の夢と水利




つづき




恭仁宮は、山と大河泉川(木津川)に挟まれた土地に置かれており、
その地形からして、
恭仁京の規模はごく小さいもので、
一見それ以上に京を広げられないように思うが。


実現はならなかったものの、聖武天皇の計画は壮大だった。

こちらに本拠を持った橘諸兄もそうだっただろう。



聖武天皇の計画では、
恭仁京の中に、
東西南北に蛇行する大河を流し、
川を挟んで北と南にあって中央にせり出す山ごと、丸ごとを、
恭仁京の範囲としようとしていたようだ。


その規模は、平城京を上回るものだった。



計画は途上にあり、すでに僧、行基の協力で、
右京となる西に大橋の建設も済ませていた。


ああ、そうするとその先は、もう長岡京市に近づく。
後に桓武天皇の長岡京が造営されたところだ。




聖武帝の中でありありと描かれていた恭仁京は

いやもう、
当時の唐の京にならう京のつくりからすると、思いがけなく、どうよ、なつくりではあるけれど。

青龍、朱雀、白虎、玄武、四神の守りも関係のない、この京を。


実現したところを見たかった。





反対も随分多かっただろうな。

人心のね、理解をね、

理解を得られなかった。



その熱い思いは、
行基のような僧も動かしたのだけど。




その後、数度京を変遷させる聖武帝ではあるが、
折にふれ恭仁に戻っている。
思い入れがあったと思う。


とかく情緒的に語られるけれども、
この地に京を置こうとした具体的な理由はあったことはわかる。





ここでも打ったけど、
恭仁は、木津川沿いにある。


恭仁は、
三重県側から紀伊半島を覆うように蛇行してくる木津川と、
琵琶湖(滋賀)方向からとどく宇治川と、
京都の西側を通って流れる桂川の三川が合流し、淀川となる地点の近くにある。
そしてその淀川は大阪湾へ続く。

奈良から京都、三重へ抜ける街道のはしる古代の駅が置かれた場所でもあり、
地形的に、道の面でも水利面でも、
奈良、京都、三重、大阪につながる場所だった。
山河は天然の要害ともなった。




京の建設には、大量の木材が必要とされる。

その面からいえば、
平城京に京がはじめて建設された時でさえ、
周囲の山は、荒れに荒れた。

飛鳥時代から奈良周辺の山々の木々の伐採は進み、
山家水を蓄えられなくなったため、土砂は流出、
川は氾濫し洪水が多発していた。


そのためこの水利は木材調達の面でも大きな役割を果たした。

後の時代の、平家による南都焼討後の南都復興でもそうだ。
その折に木材の津、木津となり、
泉川という名の川は、木津川に名前を変えた。


これらの大河の水利によって海のない奈良盆地は各地へつながり、

滋賀、琵琶湖周辺から、三重、紀伊半島から、
川をたどって遠く木材が運ばれ、
あるいは海から物資が運ばれ、
京を作った。






土地を実感することって大切。(私にとって何に大切と言うのだ…汗)

CGなどでなく、粘土で、指を使って土地のジオラマ作ってみたい。
もっと理解できるだろう。


紀伊半島を思いっ切りぐねぐねと流れやってくる木津川水系の蛇行ぶり。

それをね、いつか電車で追いかけてみたい。




学生の頃、大阪枚方の友人も、
木津川沿いを行くJR片町線は、いったいどこに行くの?って言ってた。

都会から距離はそうないのに豊かな山河に包まれたままでいた加茂町の、
加茂駅の前にびっくりするような高層マンションが建って、
そこに都会のにおいがする。

温泉付きマンションだって。
職場まで電車一本の人も多いだろう。
そうだったら、私も住みたいなー。





歴史に興味を持つことって、
土地を知ること、気候を知ること、文化を知ること、暮らしを知ること、
歌を知ること、美しいなにかを知ること、何もかも知ること。
誰かの人生を知ること。


まだ奈良に入る前。


まわりきれない恭仁のあたりは、
また次の旅。






関連日記
2006年10月28日 恭仁京と大伴家持



つづく






─── <夕食> ────







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by moriheiku | 2007-10-25 08:00 | 歴史と旅
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