表現と対象





芸術と宗教の関係を見ると、
日本の楽器も、
人が楽しむためのだけのものでなかったことが推測される。


この「人のためじゃない」感覚って、
割と根強いみたい。



私が昔、弓道をやっていた頃、
たまに神社のお祭で礼射をすることがあった。

お祭り時なので、見物の人々がいらしたが、
弓を引くのをお客様に見せようという気持ちはなかった。
そういう気持ちを、思いつくこともなかった。


スポーツ選手がたまに、試合前インタビューなどで、
「自分のためにがんばります」とおっしゃるのを聞くことがあるけど。
その、自分のため、という気持ちもなく。

「自分自身が楽しみたい」とおっしゃるのも聞くことがあるけど、
そういう、自分が楽しむ、という感覚も思いつかなかった。


そんなら、お祀りされている神様のためにという感覚かというと、
ばくぜんとありがたいという感謝の念に似た気持ちは
あったように思うけど(でもわずかだったかも…)、


いけなかったかもしれないが、
そこの神様のため、という、
固定した対象を思う気持ちもなかった気がする。
ひどいーーー。




ただ、集中して射る。それだけ。

ただ自分の中を澄ませて、それをする。
それだけだった。

なにも考えてなかった。すごいばかだー。





弓にしろ、田楽などの舞にしろ、競馬にしろ、
ただただそうすることが奉納かも、と、今ならこじつけでも思う。

けど、まあ、もちろんその頃は、
なにを考えることもなかったのだ。ああ。




社にある神楽殿の正面は、
神殿、御神体の方向に向いてる。
神楽殿で奏されるのは、
奉納だから。


もともと、
芸能は神を寄せる、神とつなぐための手段であったようだし、
人(観客)に見せるという発想でなかった。




その感覚は、日本国内のいろんなところに残っており、
めぐりめぐって、私もその土で採れたものを食べて育っているせいか、
その感覚を思いのほか強く持ってる。


だから、フィギアスケート女子の村主さんが、
「お客様のために滑ります」
と言うのは、とても不思議。

対象をお客様だけに限定したら小さくなってしまいませんか?
どうしてそもそも限定するの?と、少しふしぎな気持ちになる。

よろこんでもらうのは自分もたのしいから、
村主さんの持たれる気持ちに、もう少し近づいてみたいな。



また、NHK-FMの某番組中の決まったナレーションで、
「音楽は人を楽しませるために存在します。」
というのがあったけれど。

ただ流して聞いていた中のその一言が、どうも小さくひっかっていた。
は?
え?そうなの?って。

あれもどうにも違和感。

なぜ迷い無く言える?
アナウンサーさん、それは本心?本当にそう信じている?
と、いつもの決まった録音のフレーズだというのに、

今思い出してもわけがわからないほどそう思うのだからよっぽどだ。
でも私は音楽って何という問いには答えられないの。



人を楽しませることは、
何かに至る経過にあるかもしれないが、
最終目的自体にはならない感じをどこかに持っている。
by moriheiku | 2007-09-24 08:00 | 言葉と本のまわり
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