日本語の主語省略について 覚書03




つづき 



日本語の文章に多い、主語を省いた文章の組み立てに
大きく影響を与えていると思われる二つの要素のうち、
一つめの畏れの感覚について。




例えば、
個人名が主語である場合、
それ(主語)を省く傾向は顕著だ。

人の名前は恐れ畏れの言霊感覚と結びつきやすいからだと思う。


音 = そのもの
言霊感覚を持っていた古代の日本人は、
名前を口にのぼらせることへの畏れがあった。



「口に出して言うのも恐れ多い天皇の」

記紀や続日本紀などの中にもみられるが、
天皇の御名を口にのぼらせる時に、
褒め称える言葉を幾重にも重ね、
その最後にようやく天皇の名を言った。

それは単純に天皇を称える気持ちで、御名を言葉で飾り立てているのではない。
そうするのは、そのものである音、名前を、
そのまま口にのぼらせることに畏れを感じていたからだ。



日本語の、複雑な敬語の発達には、
人の上下関係を重要視する儒教の影響が見られるとよく言われる。


しかし私は、まず、
名前を口にのぼらせることへの恐れ畏れの感覚、
古代の言霊感覚が土台となり、
日本語の敬語を発達させたと思う。




名前を直接口にしなくても、
様々な敬語を駆使し、使い分けることで、
話に登場する人々とその関係を理解することが可能だ。


私は、日本語はそのように敬語を発達させたと考える。





古い時代、誰かのことを言うのに、本名を使わず、
「○○の局」「河原の左大臣」「二位の尼」等と呼ぶ習慣があった。

現代でも「○○さん」などと言わず、「先生」「社長」などと呼びかけることも多い。

それらの中に、
音を口にのぼらせることへの恐れ畏れを感じていた古代人の、
言霊感覚の名残を見る。


本名を公にしなかったり、
名前で呼ぶことを失礼に感じる精神文化の中に、
古代人の言霊信仰の名残りを見る。



人の名前に顕著に見られる
この言葉(音)に対する恐れ畏れの感覚は、
もちろん名前だけに限らない。
穢れの言葉、不吉な言葉をさけるのこともそのあらわれだ。



つづく





─── <夕食> ────







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by moriheiku | 2007-06-15 08:00 | 言葉と本のまわり
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