つづき 日本語の文章に多い、主語を省いた文章の組み立てに 大きく影響を与えていると思われる二つの要素のうち、 一つめの畏れの感覚について。 例えば、 個人名が主語である場合、 それ(主語)を省く傾向は顕著だ。 人の名前は恐れ畏れの言霊感覚と結びつきやすいからだと思う。 音 = そのもの 言霊感覚を持っていた古代の日本人は、 名前を口にのぼらせることへの畏れがあった。 「口に出して言うのも恐れ多い天皇の」 記紀や続日本紀などの中にもみられるが、 天皇の御名を口にのぼらせる時に、 褒め称える言葉を幾重にも重ね、 その最後にようやく天皇の名を言った。 それは単純に天皇を称える気持ちで、御名を言葉で飾り立てているのではない。 そうするのは、そのものである音、名前を、 そのまま口にのぼらせることに畏れを感じていたからだ。 日本語の、複雑な敬語の発達には、 人の上下関係を重要視する儒教の影響が見られるとよく言われる。 しかし私は、まず、 名前を口にのぼらせることへの恐れ畏れの感覚、 古代の言霊感覚が土台となり、 日本語の敬語を発達させたと思う。 名前を直接口にしなくても、 様々な敬語を駆使し、使い分けることで、 話に登場する人々とその関係を理解することが可能だ。 私は、日本語はそのように敬語を発達させたと考える。 古い時代、誰かのことを言うのに、本名を使わず、 「○○の局」「河原の左大臣」「二位の尼」等と呼ぶ習慣があった。 現代でも「○○さん」などと言わず、「先生」「社長」などと呼びかけることも多い。 それらの中に、 音を口にのぼらせることへの恐れ畏れを感じていた古代人の、 言霊感覚の名残を見る。 本名を公にしなかったり、 名前で呼ぶことを失礼に感じる精神文化の中に、 古代人の言霊信仰の名残りを見る。 人の名前に顕著に見られる この言葉(音)に対する恐れ畏れの感覚は、 もちろん名前だけに限らない。 穢れの言葉、不吉な言葉をさけるのこともそのあらわれだ。 つづく ─── <夕食> ──── ・ ・ ・ ・ ・ ─────────────
by moriheiku
| 2007-06-15 08:00
| 言葉と本のまわり
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