昔、ボランティアで音訳をしていたことがあった。 目が不自由な人に、本や新聞、市の広報誌などを声で読み、録音して届ける。 音訳と朗読とは違う。 音訳とは自分が文字になるようなこと。 朗読は読み手の気持ちが入って表現されるもので、芸術ジャンル寄り。 紙に印刷された文字は、紙面全体である世界を作っているけど、 主張を抑えた紙面ならひとまずニュートラルな状態に近い。 例えば、目が見える人が、印刷された文字を見る。 その文字を見て読み、どんな感想を持つかは、読者側の判断となる部分が多い。 それと同じで、音訳して声になった文字を、判断するのは聴く人。 健常者が文字を読むように、視覚障害者の人たちが文字を読めるように、 目がうつす文字のように、文字を声にかえる。 楽しい本を歌うように読んだり悲劇的な話を悲しげに読んだり、 全体の雰囲気がやさしそう、とか、そういう読み方は朗読。 音訳は、読み手の感情を伝えることが主眼でない。 健常者が文字を見るのと同じように、 目の見えない人に文字情報を伝えるのが主眼のもの。 ニュートラルな文字を、声にして届けるためには、技術が必要。 聴く側に、一言一言を文字として届けるためにあるていど技術と訓練をする。 普通に話す声幅より、もっと上からもっと下まで使う。 単語一つ一つ、フレーズ一つ一つを、声幅を使って発声する。 文章の始まりは同じ高い音からはじめる。 文末は同じ一番低い声で終わる。長文でも短文でも。他々。 音訳された文字情報は、聞く側が少しでも途中で「あ?」とひっかかったら、 ひっかかた瞬間とその後数秒間は、流れる情報を聞き逃してしまう。 目が見える人がさっと前に戻って文字を見直すのと違って、 音声化され流れる一瞬前の情報を見直すことはとってもしずらいことなので、 読む技術は大事なことだ。 私は、基本的な講習をまず一年間受けて、実際の音訳の活動を始めたけれど、 ボランティア活動はたった年数でやめてしまった。 比較的職人的な位置で活動できる場所も他所にあったけど、 曜日が合わなかった。 このあいだから、無心でなく無私(のやさしさ)について少し触れる機会があった。 自分が求めることできることを無心でおこなって、それを欲する人がいればいいのでは。 迷いつつもそんな風に思っていた。今も思っているフシがある。 私にとっては音訳もそういうことだった。 今もその段階でとどまっている。 私は朗読をすることには興味はない。 媒体になるような、職人的で自分を消していくような作業の方が好き。 音声の編集やWeb上の情報を、 見たように選択できるようにするプログラムやスクリプトの方でもよかった。 情報が正しく取り出せるよう、編集もきくよう、裏側を 緻密かつもっともシンプルに作り上げることは、向いていると思う。 ただ、自分の声という自分に近いものを使って“文字になる”ってことって、 やっぱり観念的にはおもしろいことだったな、って今は思う。 視覚障害者の人たちは、健常者のようには自由に本を選べない。 本を一冊読むまでのハードルが高い。著作権の問題や様々な問題がある。 私は音訳は続かなかったけれど、もともとは、 自分も本が好きだし読みたい方に利用してもらえたら良いな、とはじめたのだった。 私は、音訳を利用される方々よりも自分を優先して、 音訳がつづかなかったことに後悔がある。 無私でなかった。 情報を得たい知りたい、新聞が読みたい、本が好きで楽しみたい、 そう思っている視覚障害者さん方に利用してもらえる活動を 今も続けている方々がいらっしゃるのに頭がさがる。 ・2010-07-09 優先
by moriheiku
| 2006-03-14 07:37
| 言葉と本のまわり
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