中世芸能の発生 454 共鳴 融通念仏



つづき


新聞をいくつかざっと読んでいた。
小澤征爾さんのインタビュー記事があった。

小澤さん。
“「みんなで響きをつくる快感を、若い時に一度でも味わっちゃうとね、一生音楽にとりつかれちゃうんです。社会人になってからも、アマチュアのコーラスに熱中してる人、いっぱいいるでしょ。美しいハーモニーのなかに、自分の声がとけこんでいる。そう実感することに、人生の本質のようなものがあると僕は思う」”


子供の頃の音楽の体験も、今の私の一部になってるんだろか。

“美しいハーモニーのなかに、自分の声がとけこんでいる。そう実感することに、人生の本質のようなものがあると”


いつも響きの一部ような、自他の境のない感覚がある。
こういうのは、理性より前にある、人間の感覚の根っこの方にあるものだと思う。


もの人は共振共鳴する。



子供時代の音楽の経験の名残か。
・2009-09-22 海中
・2010-03-17 井出くんの音
・2009-11-06 息を合わせる




念仏の響きが溶け合って和合する。融通念仏の発想も、
そうした感覚が影響していたと考える。

自然との共振共鳴 声の和合 融通念仏 
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏
万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。

後の時代から現代にいたるまでの表現「神“に”祈る」の場合、
神は自分から分離して「対象」になっている。

それより前の「神“を”祈る」は、神と自分が分離していない表現。

自然がひびけば自分もひびく(はやし)。
大昔は、自他の境のない、主客のない感覚があったと思う。

境がないから「対象」とならない。
自然との境のない、個々に相対化しようのないものだ。

自然と人の距離ができ自然を体感することから離れ、
身体感覚より優先するものができいって、
自他は分離していく。

自然と密だった原始的、実感的な信仰の時代を過ぎ、
やがて哲学的、観念的な思想を持つ宗教が誕生し、
風土や身体感覚を超えた精神的な救済へ向かおうとする。


日本の信仰の特徴として、
木も石も全てのものに命が宿っている、とか、
森羅万象全てに仏性がある、という考え方をあげられているのをよく見る。

私はそれは、
一人につき一つ心臓があるような、個別に神仏が宿るイメージでなく、
もともとは自他の境のないイノチの実感からきていたと思う。

念仏が溶け合って和合する融通念仏の発想も、
そんな感覚が影響していたと考える。




・2009-08-30 地続き
地鳴りがするような感じの土地に行けば、自分の身体が響くし。
あたたかい日があたっているのは、
自分の身体があたっているのか、土地があたっているのか、
虫が鳴いているのは、
自分のどこが聞いているのか鳴いているのか、
わからないような感じがすることがある。

つまり人も自然なので、
自然とは地続きなのだ。

自然にかぎりなく埋没する、没入したいということは、
自然と地続きの身体の自然な衝動としてわかる。




共振 共鳴 共感 と信仰の始まり
・2008-06-03 自然と我 06
自然に畏敬の念をおぼえ、
自然のありように、止まずときめくとき、

原始的な感覚が、身体を通じて、意識の底からのぼってきて、
具体的に何を祈るということはないけれども、

自、他の意識をはっきり分かれる前は、

自然や、
後の時代の神仏に祈る時は、
同時に、自分の中の自然を祈っている。

日本の信仰のはじまりに、
そんなところはなかったか。




「美しいハーモニーのなかに、自分の声がとけこんでいる」に似た感覚。
・2011-09-01 中世芸能の発生 411 こもる こもりく 参籠 たたなづく青垣
やまとはくにのまほろばたたなづくあおかきやまこもれるやまとしうるはし
大和は国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる 大和しうるはし

幾重にも重なる青々とした山の中で、もう私は無くなって、
青い山や自然の一部になっている感じ。

芸能のテーマともなっていった長い時代の、こもって再生する、
という日本の思想の原点には、

共感、共振、共鳴、(類感)という
すべてのものにあるごく基本的な性質があったと思う。




原始宗教。 人類学者フレイザーは、呪術を共感呪術と考えた。
・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応
人生哲学としての思想体系を持った宗教でない原始宗教の始まりは、
特に身体感覚と密接だったと感じている。

どろどろどんどんと地が鳴るような土地に立つと、
私の身体の細胞も沸き立って地鳴りがするよう。
ぴちぴちしたところに行けば、こちらもぴちぴちする。

身体は、土地に感応し、季節に感応する。

感応は、土地や季節ばかりでない。

音やリズムに同調し心が乗ることもそのひとつだろうし、
極めて日常的な
やわらかい日にあたって心がほどけたり、よい香に気持ちが静まること、
葉の鳴る音に心がざわめいたり、
うるさい音に精神が尖るのも、同じことだろうと思う。

自然物や人工物以外にも、人の発する声やことばの音調にもそれはあって、
例えば意味のない声であっても、
やさしい調子で言えばやさしいことばと同じ、やさしさが伝わり、
楽しい調子で言えば楽しいことばと同じ、楽しさが伝染する。

逆にどんなに丁寧な内容のあることばでも、
ののしる調子で言えば、それはののしることだ。

とまあ身近すぎる感応の例はともかく。

人類学者フレイザーは、呪術を共感呪術と考えた。
その呪術(共感呪術)には、類感呪術と感染呪術があるとした。

あるもの対して与える影響はそれに類似したものにも及ぶ(類感呪術)。
接触があったものは接触がなくなってからもつながりや作用が及ぶ(感染呪術)。


おめでたい場面でおめでたい言葉を言うこと、
逆に不吉な言葉をつつしむこと、
おせち料理に、だじゃれのように、
まめに暮らせるようにと黒豆、などと言われて作る習慣も、
類感のマジックを期待されたものだろう。

近代現代でも、
出征する兵士に渡された千人針の布は、感染呪術と言える。
またテレビで超能力者が行方不明者のスニーカーを手に持って
行方を探すなんていうのも感染呪術の一種で、
呪術の気持ちは現代にも忘れ去られてはいない。




梵鐘の響きと、もの人の共鳴  
・2013-01-10 中世芸能の発生 450 除夜の鐘 清め祓い 大乗の音
かつては、
年の明ける前の大晦日の夜に、
清らかな除夜の鐘の音を隅々まで響かせて、

清らかな梵鐘の響きに自然も土地も(国土草木)人も清まって、
新しい年を迎えようとした。





共振、共鳴、響きから展開した習俗  音や響きの利用と呪術化 (芸能化)
・2010-06-15 中世芸能の発生 324 後戸 後堂 しんとくまる
仏殿の後戸の芸能。
正月の修二会、修正会。呪師のオコナイ。
哲学的、抽象的な思想の芯にある古い習俗は、身体感に基づく。



つづく
by moriheiku | 2013-03-04 08:00 | 歴史と旅
<< 芽吹き クスノキ >>