菜食



兄のインドの話をあれこれ聞いていた。

インドで兄が昼食に利用する社員食堂では、
現地の方々向けにずいぶん豊富にベジタリアンメニューがあるそうだ。

私はサラリーマンNEOの「世界の社食から」のコーナーも好きなので、
面白く聞いていた。


兄によると、インドのベジタリアンは、人によって程度の幅が大きく、
インド国内でのみベジタリアンとか、
チキンまでは食べてもベジタリアン、
ということもあるという。


私はインドの方とお話したことは、
インド人の留学生の子たちくらいしかないんだけど、

研Q所で、一時インド人の先生がいらしたこと。
普段ターバンをしていらしたこと。

お昼休みにその先生が、
かつて将校たちが利用していたというテニスコートのあとを
こうして
(手を後にまわして、兄の前をゆったりと歩いて見せて)
歩いていらして、
まるでクジャクのようだった。

かすれたテニスコートが、
インドの王宮の庭のように見えた。

それがとても印象的だった、と兄に話した。


兄は、普段からターバンをしているのはシーク教徒の人が多いこと、
でもその先生がシーク教徒であるかはわからないという。

ただ、
私が先生の歩かれた姿をこういう風に、と模して見せた時、兄は
「それはカーストが上の方の人の歩き方」と言った。

先生はアメリカとか外国に長くお住まいだったと思うけど、と言うと、
長く外国に居た人たちもそういう動作が身についているかたが多いそうだ。
世代的なものもあるかしら。

インドの方の理想形だろうか。


あの日、先生がテニスコートを横切って歩かれる姿で、
私はクジャクの美しさを知ったと思う。



ある日研Q所で、お昼先生の近くに座ったことがあった。
その日はお弁当が出たのだが、
先生になすの煮ものをこれは何?と尋ねられたことがあった。

私は英語ができないので、
これはエッグプラントで、お醤油味のジャパニーズテイスト、
くらいしかご返事できなかった。と兄に言った。

兄は、ベジタリアンの人は料理の過程に
何の食材が使われているかも気になるだろうからそれで聞かれたのかもね。
どういう風にできた料理かわからないものは一切食べない人も多いよ、とのこと。

うん。うまく言えなかった。



私は菜食主義について、かねてから不思議に感じていた。

ベジタリアンの方々は、どうして動物と植物を分けるのか、ということ。

それがやはり今も不思議。


私も血が出たり動いている動物を殺すことを怖いと感じるけれども、

でも草木も動物も、森羅万象の一部で、
草木も動物も同じ生き物のような感覚がどこかにある。

私も死ねば、動物や虫に食われたり、
分解して土になったり、水になったり、空気になったり、
草の一部にも動物の一部にも、何にでもなって循環していく
と思うから、

(実や乳はともかく)
草木や動物を食べるのはどちらも同じで、
それらの命を食べていることに変わりないという気持ちが消えない。


食べ物については私自身は、
植物と動物という区分けよりはむしろ、
できるだけ自然に近いものを食べるという考え方の方が
私にとっては比較的理解しやすい。

また、食肉ための動物の飼育には多くの土地や草などが必要であるから、
草を食べたほうが環境に負荷がかかりにくい、とか、そうした考え方は、
私にとっては理解しやすい。

これはベジタリアンの方のうちごく一部のかたにすぎないけど、
そこまで植物と動物を区別することは、
命の差別のように感じられることもある。


植物と動物を分ける区別(時に差別)の根拠は、
社会や伝統に根ざしたもので、
まだまだ私の知らないものなのだと思う。




兄に、今、カースト制度はどんなふう?と聞いた。
制度は廃止されたけど、まだまだ社会には生きてるよ。と。

会社でも、現地のお茶を汲む人は一生お茶を汲む仕事をする。
カーストの上だった人は、カーストの下だった人のすることはしないそうだ。

お茶を汲む係のかたは、
お茶を汲むより他の機会がないことについて不満に思ったりされない?と聞くと、
その人たち自身もそういうものだと思っていると兄は言う。


私は、そのかたたちは、

たとえば職業や立場で、幸せの大小があるのではないことや、

自分が感じる幸せの感覚、同様に悲しみや苦しみや怒りは、
職業や立場がどんなものであっても
その本質は同じなのだと、

その人たちはよく知っているから、
生まれながらの立場を受け入れているのだろうか、と思ったり。


「自分の人生を受け入れて生きること」を
伝統的に理解されているのか、と思ったり。


それでもぴんとこないから。
このこともベジタリアンの思想同様、
今私の思いつくことなど決して及ばない尺度があるのだと思う。



私はそこのところを兄に聞きたかったけど、
小さい子たち(甥や姪たち)が遊んでほしくてこちらの方へ来るので、
聞けなかった。



他の尺があること。

そのことに触れることは、
私にとって、他に代わることのない喜び。


その尺を理解できなくても、
ある尺を一生知らないままでも、
実際、それらのほとんどを私は知らないまま死ぬだろうけど、

それらが無数にあるということを知ることが、
私にとって感動と喜び。




・2009-09-23 中世芸能の発生 203 狩猟 採取


・2010-05-15 中世芸能の発生 310 くすり 呪術
五月には、菖蒲の葉をお風呂に浮かべた。
切ってはかわいそうなほど瑞々しい菖蒲の葉は、
湯船の中で緑に輝いていた。
命の喜びと痛ましさがある。
菖蒲にふれて、輝く緑の息を吸いこんだ。
こうして命をもらいあって生きるのだ。

・2010-09-08 食べること



・2010-02-11  中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花


・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型




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人の手のかからない草衣(そうい)、木食(もくじき)には、
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・2009-07-11 中世芸能の発生 170 苔の衣 木葉衣



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・2009-02-11 中世芸能の発生 67 船の上の遊女 お能『江口』



・2009-09-06 毎年に鮎し走らば
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by moriheiku | 2011-01-03 08:00 | つれづれ
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