中世芸能の発生 369 T.S.エリオット 伝統と変化 伝統と個人




つづき


閉館の音楽が流れはじめた図書館で、
大岡信さんと谷川俊太郎さんの対談集を手に取った。

端末で検索した本を、閉架から出していただいている間に。


目次を見て、興味のありそうな頁をぱらぱらめくった。

大岡さんが、
T.S.エリオットが、伝統は変化を含んでいるというようなことを言っていた、
とおっしゃっている一文が目に入り、手がとまった。

また、
新しいものが過去をちょっとづつ変化させてく、
というようなことも書かれていたと思う。



先日、伝統とはなに?と思った。

私はそれを万物の自然の変化の一類のようにとらえてる。

しかし自然や民俗と、伝統の違いはある。

その時その自然や民俗と、伝統との違いは、
人の意思の介在と大きさ、
かな、と思った。


ただ何もせず自然に続くのでなく、
あることを続けようという人の意思が伝統をつなげる。

変化変質することで消滅せず、続いていく。




中世までの歴史と芸能をたどっている。

歴史や芸能は、目まぐるしく変化している。

自然の変容のスピードに比べたら、それらは本当に、
万華鏡を回すようにくるくると変化してきた。


どうしてこんなことをしているのかわからないけど。
私自身は、その根元をたどっているのだろうとと思うけれども。

たどりながら、
たどった底に常に流れる太い水の流れを見る。

と同時に、
現代まである程度形を保って続いた芸能も、その意味や見方は、
昔と現代と同じではないということを常に見る。




書架の前で、T.S.エリオットが述べたという文章を見て、腑に落ちた気がした。


伝統は時には、古い遺物のように思われることがあるかもしれない。
しかし歴史的な遺物はその時点でのもので、
伝統は、常に新しいものとの折衷を含むことで生きているもの。だろうと思う。


そして私はやはり、

長い伝統をつなげていくのは、実際にはごく短い時代を生きる人たち。
その時代だけに人生を生きた人たちではあるけれど、

それぞれの時代に生まれ、
それをする意識を持って一度の人生を生きた、
その人たち自身の存在の新しさ、

その時代々々に、新しい命を繰り返していくことが、
伝統に新しい息(イノチ)を加えて、伝統になる、と思った。




その日つらつらT.S.エリオットの著作リストを見た。
『伝統と個人の才能』という代表的な評論があった。

私は読んだことがなく読みたいと思ったが書店で購入できるものは見つからなかった。
『伝統と個人の才能』を含む著作を図書館で探そうか。評論全集などを。


『伝統と個人の才能』について書かれているものをざっと見た。

全文を未読で誤解があるかもしれないが、思ったことをひとつ。

『伝統と個人の才能』の有名な一文、

「詩人とは表現するべき個性を持たず、特定の表現手段を持つ人で、それは個性ではなく手段であり、その中で印象や経験が特殊な予期せぬ状態で結合する。」

について。


私自身は、個人の吐露や個人の技能に帰す芸術や芸能、
また個人の才能技能に帰す芸術や芸能の見方に、あまりほとんど興味がない。

東洋人的、日本人的かなと思うが、私は
自他の分離がはっきりしておらず、
自分が思っているという感覚が、たぶん現代の西洋人ほどはない。

表現については普段こういった
・2007-09-19 ヨリシロ
感覚でいる。

したがってエリオットの上記の

「詩人とは表現するべき個性を持たず、特定の表現手段を持つ人で、それは個性ではなく手段であり、その中で印象や経験が特殊な予期せぬ状態で結合する。」



「詩は情緒の解放ではなくて情緒からの脱却であり、個性の表現ではなく個性からの脱却である。」

など自己の滅却の論は、ごく自然なものに感じられる。
エリオットはカトリックだけれども、
『伝統と個人の才能』は古来日本人には比較的馴染む思想に思われる。

偏重と感じられるほど個の感情を重視するここ数百年の視座に対してそれは、
自然な、人の歴史の長い部分をしめていた、古来の思想に近く思われた。




表現について
・2007-09-19 ヨリシロ
・2008-08-02 表現の根



・2009-08-30 地続き

・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型

・2008-05-31 自然と我 03
・2008-06-01 自然と我 04 古代の信仰
・2008-06-02 自然と我 05 デカルト
・2008-06-03 自然と我 06




・2010-11-15 伝統
・2010-11-14 個性


・2010-02-03 命の全体性

・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏


伝統芸能と民俗芸能の違い
・2009-09-24 中世芸能の発生 204 民俗芸能
“民俗芸能は民俗的・地縁的な心意によって習慣的に行われる芸能であって、これは社会的に利潤追求を伴う近世以降の興行資本による娯楽的な劇場芸能や、芸能者の芸術的個性、つまり主張・芸資・演技などの力量を示す芸術的芸能とは根本的に異なる”


・2008-07-10 神仏習合思想と天台本覚論 01


古来の芸能
・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能


・2011-01-25 中世芸能の発生 378 本歌取 擬態



閉架から本を出していただくのを待つ間、
めずらしく文学の書架へ行ったのは、

植木朝子(著)『梁塵秘抄とその周縁』
があったら内容を見たいと思って。なかったけど。

「う」で始まる著者の本を探しながら、
「お」で始まる著者の大岡信さんの著作が目に入り、
大岡信さんと谷川俊太郎さんの対談集を手に取った。

『詩の誕生』というタイトルだったから。


ことばの発生にはこころがひかれる。
ことばの発生は詩、和歌の誕生と限りなく近くおもわれる。

その場で『詩の誕生』をぱらぱら繰って、
詩人同士はこういうことが会話できるのだ、と思った。


その中で、T.S.エリオットの述べたことが書かれた一文を見たことは、
ラッキーだった。




私は、歴史を知らなくて。
歴史を並べたいのでなく(並べることができない)、
芸能史を知ろうとしているのでもなく、思想史でもなく。
民俗学でもなく、考古学でもなく、詩人でもない。

私は何をしているの。
強いて言えば、私はたぶん、哲学してる。

たぶん、私は哲学をしてる。

心がふるえるように動く。

哲学の遊びをして、身体をよろこばせているんだと思う。




・2009-03-01 草の息



・2010-04-01 中世芸能の発生 298 言語の幹や根 芸術言語論
・2010-05-17 中世芸能の発生 312 ことばの神聖視
・2010-04-02 中世芸能の発生 299 ことばの発生と本質



遊女(あそび)の伝統  伝統に連なることとは
・2010-12-12 中世芸能の発生 376 遊びをせんとや生まれけむ


つづく
by moriheiku | 2010-12-03 08:00 | 歴史と旅
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