水の旅 宮滝 鵜飼



つづき


岩や瀬の風が肌を吹くよ。速い水を見て身体は息を吹きかえす。
私はよく水の筋をたどる。上流へ。
岩の間を落ちる水だ。


もう時間なくなっちゃった。
今度はもっと時間をとってこのあたりを歩こう。支流も歩こう。
ここ蟻通(丹生川上神社中社)を起点に、高見川に沿って木津へも行こう。



東吉野村の道沿いに、
維新の魁に散ったという「天誅組」の足跡が数多くあった。
私の知らない歴史。東吉野村の別の景色を見ている人々がいる。


日本オオカミの像の横を通った。
見渡す限り針葉樹の植林の山山山。
一気に進んだ植林。山々を覆う針葉樹。

くりかえしくりかえし命を続けてきた木々も、
そのもともとの木に生きてそれに成る実など食べてきたオオカミの餌になる動物も、
大規模な植林で一気に無くなっただろうと思った。

山は人に対して辛抱強い。



下流の宮滝へ移動。少し山を見晴らす場所になると、いつも目に入る峰がある。

近い山々の後ろに少しかすんだ頂が、ある時は川のこちらから、
ある時は少し上がった高台で気付く。目に入る。

宮滝では、まず吉野歴史資料館へ行ってみた。
高台の資料館から川の向こう、遠くに、
ここからも見えるあの三角の頂。



吉野歴史資料館。おもしろい!
まだまだ吉野初心者の私に、すっごく勉強になった。
他にお客さん、どなたもいらっしゃらない。

粘土に縄模様の棒を押しつけて縄文を作る教材で、
さかんに縄文を押した。
こういう教材を作る会社があるのね。
販売ルートや販売数はいくつだろう。色んな仕事がある。

このあたりでは縄文時代カワニナという貝で文様を付けたそうだ。
やはりさかんにカワニナで粘土に紋をつけようとしたけど、
なんで?文様にならない。
むずかしいー。


吉野歴史資料館では、縄文弥生から奈良時代まで古代の吉野が紹介展示されてる。
興味津々。

縄文遺跡の出土品の分布から、
吉野川の下流域で生活していた人々が
暖かい時期だけ豊かな自然を利用するために
上流の宮滝周辺へ移動してきていたことが考えられるそう。


サチを求めて川沿いをたどって移動する暮らしは、
まるで古い鵜飼のようだ。


ここで神武天皇の時代に語られているように、
2000年くらいあるんじゃないかとも言われる日本の鵜飼の歴史。
その中で、船に乗って漁を行うようになったのはごく最近のこと。

古い時代の鵜飼は、鵜匠が鵜をつなげた緒を持って
川沿いを行ったり来たりした。


ああ鵜飼は、古いな。とても古い。
鵜飼、鮎、河の魚をとる人々は、特別なんだ。

鵜飼は古い時代と結びついた漁だったんだ。
サチ。古い時代の贄。
古い時代のイノチの元。

だから古い民俗を脱しようとする時代、鵜飼は特別罪深いものにもなった。



あ、あの山。あのどこに居ても目につくあの嶺は、青根ヶ峯なのね!
展示を見てようやく気づいた。
この辺りの水源の、信仰のいただきだ。

吉野の離宮の縮小版モデルがある。大きい離宮。
発掘調査から、宮滝の斉明天皇の離宮は
青根ヶ峯を真南に見るように作られていると考えられるそうだ。
なるほどーーー。

このあたりをめぐっていると、ものすごく青根ヶ峯が意識される。
写真では遠くに小さく見える△だけど、実際は印象的に目に入る。
山々が見える晴れた日に、東吉野をまわれて、とってもよかった!


聖武天皇の離宮になると、青根ヶ峯を真南に見る角度からはずれた造りになる。
つまり信仰の移行があった。



常設展示の他に秋季展で、柿の葉ずしと釣瓶ずしの展示がされていた。

おお、『義経千本桜』のすし屋の息子、いがみの権太が!
そうそう、吉野の、すし屋の、だった。

宮滝から吉野挟んでもう少し西、下市の。
釣瓶ずしってこういうのなのね。
釣瓶ずしのあの釣瓶、すし桶の実物って、これなのね。泣かす悪党、権太の心。
物語に一気にリアリティーが出た。展示を見られてラッキー。



こちらで発行された本を拝見したくて、事務所に声をかけた。
2冊購入。もっと買えばよかったー。ここでしかない本。もっと読みたい。
すぐ近くに住んでいたら読みに来れるのに。


万葉集歌に詠まれる、象(きさ)の小川にいよいよ行くぞ!おーーー!

事務所の方に、歩いてまわれる距離ですか?とうかがったら、
丁寧に教えて下さった。
郵便局のところを・・などなど。感じがよくて親切なかた。


その日の夜、歴史資料館のパンフレットを見ていて気が付いたんだけど。
歴史資料館の入館は、土・日・祝日以外は、
入館予定日の1週間前までに事前予約が必要。最少人数は4人以上とのこと。

私、入館できない条件を完全に満たしていたのに、
歴史資料館があるじゃな~~~い♪って知らずに行って、入れていただいてたのだった。
そしてすっごく充実し資料館を楽しんでいた。ありがとうございます!




鵜飼 古来の神聖 御贄

狩猟は「栽培以前」ではないこと。
・2009-09-23 中世芸能の発生 203 狩猟 採取
鵜匠の山下純司さんがテレビで、
魚は育つものでなく、湧(わ)くものだったと、
とおっしゃっていた。

むかしむかしのこと。

栽培したり育てたりしない。

川の魚は、太陽と水と森の養分だけで、無限に湧いて、
我々(人)はそれをとって食べて生きた。

それがサチ、命の力でなくてなんだろう。

季節に木の芽が芽吹くように、河に魚が湧く。
現代の山下さんのひとことを通って今にいきいきとあらわれる感覚。

昔、山河のものを食べることは、そうしたサチをいただくこと。
命の力を身体にうつすことだった。

山河や海での狩猟や採取は、
栽培以前、でなく、

栽培とはちがう、
くりかえす自然の生命力に対する深い気持ちがあっただろう。

鵜匠の山下さんのことば。
実感のある人のことばに、感覚の口が開(あ)く。
まるで古代の芸能のようだ。



漁の喜び  毎年訪れる季節への期待  万葉集  鵜飼  
・2009-09-06 毎年に鮎し走らば
自然の中で漁する喜びは、
毎年おとずれる季節の木の芽を採る喜びやめでたさに似ていたと思うから。
それがどうしてそれほど罪深いものとされてしまったものか。

家持のこの歌のみずみずしさ。

夏の鵜飼漁。
毎年訪れる季節への期待。
旅情。
肌に季節の川辺の風が吹くようだ。




・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承


殺生と地獄 中世の鵜飼 今様歌 遊女
・2009-02-11 中世芸能の発生 67 船の上の遊女 お能『江口』
鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し 鵜の首を結ひ 現世はかくてもありぬべし 後生我が身をいかにせん
哀しい歌ね。

“ 鵜の餌に、万劫も生きる亀を殺し、鵜の首を結んで鮎を吐かせている。現世はそうしても過ごせようが、後生はその身をどうするのだろうか。亀を殺したり、鵜を酷使する鵜飼は来世には地獄に落ちるというのに、その生業に勤しむ鵜飼をいとおしい、と詠んでいる。”

同じく梁塵秘抄の遊女の歌。
淀河の底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめく いとほしや

鵜飼の罪の深さは、遊女自身の罪の深さに思われるのだろう。
遊女が船の上から見た、川底の、鵜に食われてきりきりもがく鮎の姿は、
自分自身にも思われたろう。

きっと我が身も、地獄に落ちるのでしょう。そう思ったのだろう。

遊女であることはあなた(遊女)の作った罪ではないのに。
いとおしや。



殺生の罪 鵜飼 お能
・2009-01-27 中世芸能の発生 56 お能『鵜飼』 非人
御贄を扱う鵜匠のような立場の人たちは、
自然の旺盛な命のこもる贄を首領にもたらす役目があって、
そういう贄を得て天皇の命が強化されるという考え方があった。

やがてそうした原始的呪術的な思想は衰え、
古代的神聖な天皇や神々の権威は薄まった。
民間にも広まった仏教が殺生を禁じていることからも、
山のさちをもたらす鵜飼も、
仏教の戒と照らせば
殺生を生業とする業の深い人々と見られることにもなった。



・2010-06-22 中世芸能の発生 331 罪業感 今様
・2010-08-17 中世芸能の発生 339 差別の始め
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは

・2010-08-22 中世芸能の発生 344 倭文(しつ) つまらないもの




山の頂の印象
・2009-11-13 山



狩猟は残酷か?
・2013-02-07 中世芸能の発生 451 『ぼくは猟師になった』 殺生 肉食 イオマンテ
著者の千松さんは若手猟師さん。
猟をする暮らし。狩猟についての目線。

『ぼくは猟師になった』についてと、
説話集、今様歌、猿楽能など、古典や史料の中に見る、
日本の古来の肉食と、
新しく入ってきた仏教思想の殺生肉食の戒の狭間のきしみについて。




つづく
by moriheiku | 2010-10-30 08:00 | 歴史と旅
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