中世芸能の発生 352 滝 木綿花


つづき


万葉集。

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巻第六 九〇九
山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ち激(たぎ)つ滝(たき)の河内(かふち)は見れど飽かぬかも (909)

山が高いので白い木綿(ゆふ)を花とさかせてほとばしる激流の河内は、見あきないことよ。

・白い木綿垂(ゆふしで)を花に見立てた。
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雑歌
養老七年癸亥(きがい)の夏五月、吉野の離宮(とつみや)に幸(いでま)しし時に、笠朝臣金村(かさのあそんかなむら)の作れる歌一首 并(あは)せて短歌 
のうちの一首。




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巻第六 九一ニ
泊瀬女(はつせめ)の造(つく)る木綿花(ゆふはな)み吉野の滝(たぎ)の水沫(みなわ)に咲きにけらずや (912)

泊瀬の女が作る花のような木綿垂(ゆふしで)は、今、み吉野の逆まく波の水沫に咲いているではないか。

・泊瀬は葬祭の地とて女が木綿垂(ゆふしで)を作った。それを花に見立てた。
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雑歌
或る本の歌三首、のうちの一首。




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巻第七 一一〇七
泊瀬川(はつせがは)白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ瀬を清(さや)けみと見に来(こ)しわれを (1107)

泊瀬川の、まるで白い木綿(ゆふ)が花ひらいたように流れ落ちる瀬が清らかだからと、見に来た私よ。

・白木綿花(しらゆふはな)に落ちたぎつ → 上記九〇九の歌参照。
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雑歌
河を詠める歌十六首、のうち一首。





雑歌
式部(しきぶ)の大倭(やまと)の吉野にして作れる歌一首
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巻第九 一七三六
山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ち激(たぎ)つ夏身(なつみ)の川門(かわと)見れど飽かぬかも (1736)

山が高いので白い木綿(ゆふ)が花を咲かせたように水の流れ落ちる、夏身の川門は見飽きないことよ。

・式部の大倭 式部卿たる大倭。該当者未詳。
・木綿花(ゆふはな) 木綿(ゆふ)は神に捧げる楮(こうぞ)らの繊維。花に見立てた。
・川門(かはと) 川の狭いところ。一層激流となる。
・九〇九の改作。
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参照:中西進(著)『万葉集』



万葉集に吉野の水の詠まれた歌の多いこと。

速い水の飛沫が、木綿花に咲く景色を文字に打ちはじめると、
心はその景色の中に立っているよう。
水しぶきがあたるほど近くで、フレッシュな。

命のあることばのマジック。



木綿(ゆふ ゆう)は、麻や楮(こうぞ)等のさたした繊維を垂らしたもの。
木綿垂(ゆふしで ゆうしで)ともいわれる。
今も神道で祓の串や幣に用いられる。
木綿と書くが「もめん」が伝わる前からのもので「もめん」ではない。


木綿(ゆふ ゆう)の元となった麻や楮(こうぞ)等は、
土地に旺盛に繁殖していた植物。
旺盛に茂るそれらに強い生命力が宿っていることが当時の人々に感じられていたから、
木綿(ゆふ ゆう)は呪物として
その力(霊力)がふるわれることを期待されたと思われる。
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは
・2010-02-14 中世芸能の発生 295 奄美のユミグトゥ(ヨミゴト)

垂らしたものをふることは命を活気づけるタマフリの行為で、
(万葉集歌にも残る。
現代も石上神宮などのたまふりの祭りで行われる)
木綿垂(ゆふしで ゆうしで)を振ることは、
命、生命力を活発化する行為だっただろう。

祓いの串に木綿(ゆふ ゆう)が用いられるのは、
木綿(ゆふ ゆう)をふると
木綿(ゆふ ゆう)にある自然の威勢につられて命が活発化し、
気涸れ(ケカレ)の状態でなくなると考えられていたから。

勢いのあるもののそばに行くとつられて勢いがよくなる、
そういう身体的実感に基づく。

そのように木綿(ゆふ ゆう)は、
命を活発にするための素朴な呪物(実感に基づいた呪的意識)が
もとになっていると考えられるけれども、
宗教が展開し、神の概念が形づくられ、観念的な意識が強まるにつれて、
木綿(ゆふ ゆう)は、
木綿をふると神威がふるわれて穢れ(ケガレ)を祓う、というように意味が変化し、
木綿(ゆふ ゆう)は強い生命力の威力をふるう呪物から、幣や神の依り代へと、
意味が整っていったと思われる。




白くさらしたふっさりした木綿(ゆふしで)が、木綿花(ゆふはな)と言われて
滝の飛沫に例えられることには、心が躍る。


急流を駈ける水が
岩にあたってくりかえしくりかえし白い花のように咲きつづけるうつくしさは、
自然のエネルギーそのもの。


万葉人の目に、ふっさりした白い木綿(ゆふ ゆう)が振るわれる姿は、
そのように映っていたのだなあ。


上記の歌は、詠み人の感慨であると同時に、ことほぎ。

その祝福を身体に響かせるための歌だ。



万葉人が見飽きないと歌に称えた泊瀬吉野の滝の木綿花。

今も山間を駈けくだる水を見れば、
その音に、細かくあたる水飛沫に、山と水の匂いに、木綿花のように咲きつづける水に、
心は躍って(激(たぎ))って息を吹き返す。




山に行きたい。




・2011-03-03 中世芸能の発生 385 石走(いはばし)る垂水(たるみ) 祝福



日本人の命の概念。日本の信仰の流れ。
・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって昔の日本では、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚がやがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、
岩にも木にも仏がいるという理解になっていった。
日本の信仰の流れ。



・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元



・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは



息子の幸いを、木綿垂を振って祈っていた母。
・2010-08-27 中世芸能の発生 350 神「を」祈る 神「を」祈(の)む


ことほぎ 言祝ぎ 和歌 芸能
・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能


薬 呪術
・2010-05-15 中世芸能の発生 310 くすり 呪術



谷の水音滔々と  たき(激 滝 瀧 たぎ)つ心
・2008-09-26 水波之伝



・2010-02-03 命の全体性



・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし
・2010-08-19 中世芸能の発生 341 倭文(しつ しづ しず 倭文織)


自然のよろこばしさ、祝福
・2010-10-12 中世芸能の発生 358 扇の民俗 ケヤキ
扇に見る 自然物の呪物から、神のよりしろへの変化
・2010-10-03 中世芸能の発生 357 檜扇(ひおうぎ)の民俗





・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」

そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、
それが生き物としての人間の表現、

と、おっしゃって、
そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。

日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。

それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。
体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないようなものだ。

中世芸能が生まれるまでの、
芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、
自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。





これまで見てきたたとえば「チ」の感覚、「二」の感覚、「ヒ」の感覚は、
自然に接する身体の感覚としてよくわかる。

これら古い一音節は、私は、
身体に感じる自然の働き、自然の性質の種類とその感触を、
声の音にしたものだと思う。

私は、「チ」「二」「ヒ」の感覚は、
直に自然に接する時、はじめに感じる肌感だと思う。

また、自然の中で、科学や星の運行や、
これまで得てきた知識を、ひとつひとつはずしていった、最後に残るもの。

多様な自然を総体として捉えているとき、
自然と身体の接する所にある身体の実感であり、自然の姿だと思う。
・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感
・2010-07-07 中世芸能の発生 335 固有名詞にならないもの





万葉集。
うつくしいとは、色や形の面白さでなく
それぞれの姿の中に見出される懸命に生きようとしているそのエネルギー、
それをうつくしいと捉えていたこと。

日本人は自然に命を寄せて重ねてきた。

観念を重ねたのでなく具体的な、身体の、実感の重なり。

池坊さんは、植物にふれることで、
古い時代の日本人の感触を、
共有されてきたかたなのだろうと思った。
・2012-03-17 中世芸能の発生 431 春の野





身体に実感をよぶこと。
身体の感覚を起こすこと。

歴史をたどって
自然を身体の中に起こす
遊びだ。
・2009-03-01 草の息

私はただ、ずっと、それだけをしている。



つづく
by moriheiku | 2010-08-30 08:00 | 歴史と旅
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