セミと庭



道路からゆるくカーブする小道を通ってぱお(実家)の玄関へ行く。
小道の両側は、2mほどの高さの生垣になっている。
生垣はヒノキ科の植物と、一部ツバキ科の植物できている。

今夏、ぱおの小道に入ると、
玄関までに左右の生垣あたりからセミがびゅんびゅん飛び出す。

バタバタ飛び出す羽音が至近距離でして、
セミの出す水が頭上にふりかかる。

虫が苦手な人にとっては、今、おそろしい小道だろう。



小道はせまいし、ゆるく左右にカーブしており、緑の生垣の先は見えずらい。
生垣の裏側は木々の植わっている庭なので、小道に室内の明りは届かず、
夜はこわいという友人の談。

子供の頃、自転車に二人乗りしてたり重い物を積んでる時、
カーブでよろけて「おおっと」と生垣につっこむこともあったけど、

生垣のクッションはふわっとしていて、緑の匂いがして、うずもれるのも楽しかった。
甥たちが赤ちゃんの頃は、抱っこして一緒にむぎゅーっと、
緑のクッションにうまったりしていた。

今も通る時は手のひらで緑を押しながら、緑の香を立たせながら通る。



だいたいここの家は昔っから夏はセミ屋敷だった。
セミの抜け殻は漢方薬になるそうだが、ここにはあきれるほどあちこちにあった。

しかし以前は、この小道でこんなにセミが飛び交ったりしなかった。


なぜぱお(実家)の小道に、セミが飛び交うようになったのか。
それは、木々の植わっている庭が劣化したためだ。

小道より内側の樹木や土の状態が悪くなったので、
ここ数年で徐々にセミが小道の方へ出て来るようになった。


人間の活動によって山が荒れ、山が豊かでなくなったので、
鹿や猪、熊など山の生物が里に出てくることが増えたのと同じだ。



庭の劣化は、庭師さんが交代したことにはじまった。

数十年も庭を手入れしてくださっていた庭師のSさんが、
御自身のご高齢と奥さまの介護のため引退された。

代わりに幾人かの庭師さんにお願いしたが、
もうSさんのような丁寧なお仕事はされない。


はじめて別の庭師さんがいらした時、
こんなに短期間で、同じ植生なのになんだかモダンな印象にもなって、と、
違いに驚きうれしい気持ちになった。

しかし仕事の違いは、あっという間に庭の状態を変えた。


飛び石の周りの、瑞々しい匂いの一面の緑の苔は乾き、
豊かに艶めいていた松はいずれもかさついた印象になり、
丸く整えられていたサツキやツツジは形がゆがみ咲かないものも出た。


石の周囲のツワブキやナルコユリなどは、
自然に生えていると思っていたが、なぜか一掃され、
シダやハランすら減った。


庭に来ていた猫や鳥たち、アリやトカゲなども減少し、
ヘビもずいぶん見なくなった。

セミの抜け殻の数も減った。

乾いた。
死につつある和の庭。


この庭を緑に生かしていたのは、前の庭師のSさんだった。
庭と生き物を生かしていたのはSさん。
Sさんの庭なのだ。





そのぱお(実家)の庭の一番奥に、大きな木がある。

ぱおのある土地の古名にある樹木の名が入っている。
一番奥の大きな木はその名の木だ。

周囲が更地に整地されて区画化し市街化が進む中、
取り残されてきたような家なので、もともと生えていた木が敷地に残った。

裏庭にももう少しこぶりのその樹木が黒々とまとまって生えていたが、
道路拡張のため伐採され、現在は道になっている。



私は木登り派で、家でも学校でも登れる木には残らず登り、
毎日毎日、登った木の上で過ごしているようなお転婆だった。

けどこの木には登らなかった。
一度も登ったことがない。


一度だけ、ずっとずっと前、Sさんのはしごから、
この木の葉の間の雉鳩の巣を見せてもらったことがある気がする。


この大きな木に登らなかったのは、
幹が太くて全然手が回らないし、
葉は樹下に影を落としているけれど、
取り付くようなその枝ははるか上だったこともある。

けど登らなかった一番の理由は、こわいような感じがしたから。



庭の飛び石を踏んで行った一番奥にその木がある。

奥の庭も石灯篭やマツやツツジなどで整えられ、
その横の別棟の和室の窓から和んで見る作りと思われる。
(その和室もほとんど使われることはなく、いつも雨戸が閉まっている。)

配置で言えば、奥の庭は手前の庭より最も道路に近いはずなのに、
やはり一番奥まっている感じがする。


手前の庭と奥の庭の間に塀などの境はないけれど、
ここからが奥っていう感じがある。

外側、つまり手前の庭の側から見ると、私にとってはなんだかこわいようなそこは、
一旦足を踏み入れると、
ほっこりと陽のうらうらとあたっているような。

今は荒れているけれど、ひっそりと、
どこかこわいようなあたたかいような神聖な感じがする。



その大きな木は高木種で、本来は見上げるような高さになり葉を広げる。
しかし市街地で電線の都合などあり、木はバッサリと上部が切断され、
高さはうんと低く抑えられている。

そんな状態ではあるが、それでもこの木に
気安く手をふれることははばかられる。

それはきっと土地に
長い間生きている大きな樹木の力に対する畏れだろう。と思う。



ここで育ったかつての子どもたちがそうしてきたように、
私も小さい頃同じように、
今も甥たちと、庭で飛び石から落っこちないように走って遊ぶけど、

小さい甥たちも一緒に行かないと奥の庭に行かないし、
残されると一目散に走って出てるので(アハハハ)、
やっぱりなにか違う感じがするんだと思う。

実は私もいまだにびゅーーっと一目散なので、
大きな木の下で一人で積もった落ち葉を集めている父を見ると
心の中ですごいって思うことだ。





・2007-12-29 Sさんの庭
・2007-02-11 父の姉


木登り派
・2009-08-30 地続き
・2008-08-24 弓と自然



・2007-09-03 土地の木 01
・2007-09-04 土地の木 02
・2007-09-05 土地の木 03






・2010-08-04 中世芸能の発生 330 中世芸能の発生 336 比叡山延暦寺の植樹



つづく
by moriheiku | 2010-08-01 08:00 | つれづれ
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