喜捨




各鉄道やバスが乗り入れる大きい駅に、
托鉢の僧が立ってる。

たいてい同じ人。

笠、黒衣、袈裟、錫杖、鉢。



遠くからなんとなく托鉢に立つのを飽きているようにも見えたので、
お布施させていただいた。


乞食(こつじき)は、家の戸をめぐったり、
市や辻、道に立つのだから、
その駅にいらっしゃるのは
いかにも現代の乞食(こつじき)って思う。

大きな駅は、
遠くからも近くからも各方面からさまざまな人がきて、
あちこちにベクトルを発散させながら、
絶え間なく様々な方向へむかうから、

その中に立ちつづける行は、
寺や山の中の修行より疲れそう。



この人は乞食のみで食べているのではなく、
たぶん近くの大きなお寺に所属されている僧で、
そこでお食事は召し上がられる。

思いを持たれて乞食(こつじき)をされているだろう。



えせ托鉢僧がいるという。

私知らずにその人に喜捨してもかまわない。
執着を手放させていただく私の側は、
えせでも受戒した僧でも同じ。
その瞬間、私にはえせの僧は仏法。



私は人ごみの中で喜捨することを躊躇する心を
捨てさせていただいた。

ありがとうございます。
by moriheiku | 2009-06-26 08:00 | つれづれ
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