中世芸能の発生 132 説経・唱導のストーリー



つづき


お能を見ると、これは唱導だ。とおもう。
古い浄瑠璃の聞くと、これは説経だ。とおどろく。

庶民を作善、勧進へいざなった唱導説経の系譜に他ならない。

雅楽のありようと明らかに異なる。

浄瑠璃や猿楽などに演じられた霊験談にせよ、英雄談、恋愛談、発心談にせよ、
中世の庶民信仰にうったえた唱導、説経の姿が見られる。



説経はもともと経典の内容を説くものだが、
庶民を対象として語り物化した。


民間に行われた説経、唱導は、
仏教の教理を知らしめることが最大の目的ではなかった。

説経唱導は、中世の庶民にとっての常識的仏教
(無常・因果応報・輪廻などは知るが 宗派や教義に細かくしない
 民衆が一般的に理解する仏教)
の範囲において、

人々が罪業から逃れ良い後生を得るために
作善を積ませることが目的だった。

人々を広く勧進へいざない、喜捨を募ることが大きな目的だった。



したがって、
説経唱導は細かな教義を語るものでなく、
ストーリー(物語性)で語られ、
その主題には俗耳を集めやすい英雄の話や、
欲や愛憎、発心や霊験談が選ばれた。








私は根性なしなので、
浄瑠璃なんて見ると、涙は流しても、
あんまり情がどろどろして、むしろよけいなものをためこんでしまう。
「渡る世間は鬼ばかり」をちょっとでも見ると果てしなく将来を悲観しちゃうし。
どうしてあのドラマ、人気があるのかしら。
なので、語り物としての説経も、私は
神仏による救済昇華以前の部分ですでにへたれて
どうもなぐさめにならないのだけど。
お能は浄瑠璃にくらべれば抽象化されていてフォーカスしやすいというか、
解き放ちやすいというか、心身を溶けていられるというか、
そんな感じはする。




仏法を柔らげて語ることの罪悪感
・2010-05-21 中世芸能の発生 316 今様即仏道 芸能者と仏教







参考:五来重『寺社縁起からお伽噺へ』



つづく
by moriheiku | 2009-05-24 08:00 | 歴史と旅
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