中世芸能の発生 115  西行の歌道



づづき



関東へ来ていた西行に、源頼朝は歌道と弓馬の事を尋ねた。(『吾妻鏡』)

西行は、

詠歌は、花月に対して動感の折節、わずかに卅一字を作るばかり。全く奥旨を知らず。

と言い。


弓馬の事(武芸、兵法)については、

弓馬の事は、在俗の当初、憖に家風を伝えるといえども、保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以來九代嫡家相承の兵法を焼失す。罪業の因をなすに依て、其の事あえて以て心底に残し留めず、皆忘却し了。

と答えた。 (読み下し文はだいたいで)



西行は、歌道のことは、それ以上話さなかった。

しかし兵法については、はじめこそ、
在俗の頃は伝えられ身についていたが、家伝書は遁世の時焼いた、
罪業の因になるのでみな忘れた、
と言ったものの、具体的に話している。

鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、この時西行が伝えた流儀で行われた。


ここで頼朝の知りたかった「歌道」「弓馬の事」とは、
具体的な作法としての「歌道」「弓馬の事」に近いものだったかと思う。

西行に尋ねた「歌道」とは、歌を詠む歌会の
主に作法や手順を中心とした故実。
「弓馬の事」とは、流鏑馬など武芸の作法、手順を中心とした故実。
と思われる。


頼朝に、歌や武芸の真髄に近づきたい心はあったかもしれない。
しかしまず武家政権の棟梁として、政権をまとめるため、
その道の故実を整える必要があっただろう。



西行は、出家とはいえ、
武芸を伝える武士の家の出身であった。
弓馬の事を話したのは、その武士の面目。


歌について頼朝に他に何も言わなかったのは、
西行は歌の家の出ではなく、
歌を詠む作法を伝える立場でないことはあったと思うが。


『明惠上人伝記』中で西行が語っているような、
西行の歌に向かう姿勢、

一首詠み出でては、空の中に一体の如来の形を造る思いをする。
一句を思い続けることは、秘密の真言を唱えることと同じ。
私はこの歌によって、法を得てきた。
もしここに思いを至らずに、この歌の路を学ぼうとしても邪路に入るばかりだ。
(↑現代語訳はだいたいこんなかなと…)



一首詠み出でるのは、空に一体の仏の形を形造る思い。
一句を思い続けることは、秘密の真言を唱えることと同じ。


それなくして、
歌の作り方や次第、作法を知ったところで、
自分のする歌の道にはならない、
邪路に入るだけ、
という思いはいつもあったと思う。


シンプルな
「花月に対して、動感の折節、わずかに卅一字を作るばかり。」
のうしろに、

作法では教えられない、
激しい思いで歌の道を歩んできたことを感じる。




・2009-04-09 中世芸能の発生 103 芸能としての武芸 西行
・2009-04-17 中世芸能の発生 112 弓と北面の武士


・2008-12-16 本来空
一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし 
一句を思ひ続けてては秘密の真言を唱ふるに同じ

 

武家政権と故実
・2009-04-19 中世芸能の発生 113 武家政権にとっての故実
・2009-04-20 中世芸能の発生 114 中世人にとっての故実



つづく
by moriheiku | 2009-04-21 08:00 | 歴史と旅
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