づづき 関東へ来ていた西行に、源頼朝は歌道と弓馬の事を尋ねた。(『吾妻鏡』) 西行は、 詠歌は、花月に対して動感の折節、わずかに卅一字を作るばかり。全く奥旨を知らず。 と言い。 弓馬の事(武芸、兵法)については、 弓馬の事は、在俗の当初、憖に家風を伝えるといえども、保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以來九代嫡家相承の兵法を焼失す。罪業の因をなすに依て、其の事あえて以て心底に残し留めず、皆忘却し了。 と答えた。 (読み下し文はだいたいで) 西行は、歌道のことは、それ以上話さなかった。 しかし兵法については、はじめこそ、 在俗の頃は伝えられ身についていたが、家伝書は遁世の時焼いた、 罪業の因になるのでみな忘れた、 と言ったものの、具体的に話している。 鶴岡八幡宮の流鏑馬神事は、この時西行が伝えた流儀で行われた。 ここで頼朝の知りたかった「歌道」「弓馬の事」とは、 具体的な作法としての「歌道」「弓馬の事」に近いものだったかと思う。 西行に尋ねた「歌道」とは、歌を詠む歌会の 主に作法や手順を中心とした故実。 「弓馬の事」とは、流鏑馬など武芸の作法、手順を中心とした故実。 と思われる。 頼朝に、歌や武芸の真髄に近づきたい心はあったかもしれない。 しかしまず武家政権の棟梁として、政権をまとめるため、 その道の故実を整える必要があっただろう。 西行は、出家とはいえ、 武芸を伝える武士の家の出身であった。 弓馬の事を話したのは、その武士の面目。 歌について頼朝に他に何も言わなかったのは、 西行は歌の家の出ではなく、 歌を詠む作法を伝える立場でないことはあったと思うが。 『明惠上人伝記』中で西行が語っているような、 西行の歌に向かう姿勢、 一首詠み出でては、空の中に一体の如来の形を造る思いをする。 一句を思い続けることは、秘密の真言を唱えることと同じ。 私はこの歌によって、法を得てきた。 もしここに思いを至らずに、この歌の路を学ぼうとしても邪路に入るばかりだ。 (↑現代語訳はだいたいこんなかなと…) 一首詠み出でるのは、空に一体の仏の形を形造る思い。 一句を思い続けることは、秘密の真言を唱えることと同じ。 それなくして、 歌の作り方や次第、作法を知ったところで、 自分のする歌の道にはならない、 邪路に入るだけ、 という思いはいつもあったと思う。 シンプルな 「花月に対して、動感の折節、わずかに卅一字を作るばかり。」 のうしろに、 作法では教えられない、 激しい思いで歌の道を歩んできたことを感じる。 ・2009-04-09 中世芸能の発生 103 芸能としての武芸 西行 ・2009-04-17 中世芸能の発生 112 弓と北面の武士 ・2008-12-16 本来空 一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし 一句を思ひ続けてては秘密の真言を唱ふるに同じ 武家政権と故実 ・2009-04-19 中世芸能の発生 113 武家政権にとっての故実 ・2009-04-20 中世芸能の発生 114 中世人にとっての故実 つづく
by moriheiku
| 2009-04-21 08:00
| 歴史と旅
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