つづき 路辺に捨てられた孤児は悲田院に送られた。 網野善彦『中世の非人と遊女』によると、 寛平八年(896年)の官符では、 悲田院の職員には院司・預・雑仕に加えて、乳母・養母があり、 孤児たちはこれらの女性によってそこで養育されていた。 ここで養われた孤児、清継・清成・清人・清雄ら十八は、新生連という姓が与えられ、清継を戸主とする戸が新たに左京九条三坊に貫せられている。 とのこと。 またそれより130年ほど前、 天平勝宝時代の記録からこのことは、 “収容されていた孤児の成人、男九名、女一名に葛木連の姓を与え、紫微少忠従五位上葛木連戸主の戸に編附して、親子とさせた前例によると見てよかろう。” “九世紀半ばまで、悲田院の孤児が成長したのちには、良民-平民として編戸されるのが原則だったことが、これらの事実によって明らかになってくる” もので、 “中世の悲田院のあり方との差異がこの点にあることを、われわれははっきりと確認しておく必要があろう。” 悲田院は仏教の慈悲の思想のもとで孤児や窮人らを収容し世話をする福祉施設で、 古くは聖徳太子が四天王寺建立の際、寺内に作ったと伝わる。 天平時代には光明皇后が平城京内に施薬院、悲田院を作った。 京が平安京へ遷都後は平安京にも作られたが、やがて時代の変化から、 やがて国の資金と貴族らからの喜捨だけでは運営が困難になり、 悲田院は自ら収入を得ることが必要となっていく。 もともと施薬院、悲田院は仏教の思想から作られたもので 仏教との関わりは深かった。 そのため国の管理が薄くなる平安時代を通して悲田院は寺院化が進んだ。 仏教の布教とともに、 各地にそうした社会福祉の拠点となる寺院ができた。 網野氏は、 寛平の事例に見られる清継・清成・清人・清雄ら 孤児に付けられた「新生連」「清」という字は、 悲田院の孤児、窮人、病者たちがキヨメ(清目)に携わっていたことと 何か関連があるのではないかと考えられている。 清目は、清め、キヨメる人々だ。 寛平の事例も、それ以前の天平勝宝の事例でも、 悲田院の孤児は平民に編戸されるものであり、 どちらも差別的身分ではなかった。 ただ寛平の事例の、独立した孤児の清の名には、 “賤視とは逆の意味が積極的な意味がこめられていた点にも注意しておかなくてはならないが、そこへ差別への転化の兆候を読みとることも不可能ではなかろう。” とされる。 こうした調査研究から紹介されるものと、 自然や笛、風土や文化、ことば、季節、音など私が日常触れていく様々なものを、 誠実につなぎ合わせていきたい。 悲田院ひとつを通しても、 芸能と神仏(宗教)の関わりの深さはうかがえる。 極端な穢(ケガレ)忌避観念からおこる現代までつながる差別の根は、 どこにあるのか。 聖から汚穢へ。 認識の転換は、どのような流れの中におこったか。 芸能の流れの中で、しっかり見ていようと思う。 ・2008-09-15 中世芸能の発生 13 浄穢観念 ・2009-01-01 中世芸能の発生 48 芸能と差別問題 ・2009-01-26 中世芸能の発生 55 聖性の失墜 自然と密接だった古代における神聖の意味が、 人が自然と離れていくことで忘れられていった。 人が自然と離れ、自然の力の聖性を忘れていったことが、 古い神聖な立場だった人たちが差別の対象になっていったことに 結びついていると思う。 ・2008/09/25 中世芸能の発生 29 勧進聖 自然居士 ・2009-04-20 中世芸能の発生 114 中世人にとっての故実 ・2009-04-25 中世芸能の発生 119 師範と弟子 ・2010-06-18 中世芸能の発生 327 ことば 倭文 薬 捨身 自然のイノチとの一体化 ・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは ・2010-08-04 中世芸能の発生 336 比叡山延暦寺の植樹 つづく
by moriheiku
| 2009-01-05 08:00
| 歴史と旅
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