ジンチョウゲ



ぱお(実家)の小道に沈丁花が香り始めた。咲きかけの。

ぱおでは丁度私の誕生日あたりに満開になる花。
寒い日が長く梅の花は遅れた。
沈丁花の開花は梅ほどは変わらず。


春はぬるくて、自然はどこもわらわらとして、
それで私は冷えた澄んだ空気を探してそちらへ顔を向けがちだけど、

大気の中に混じる新しい花の香や、
少し先に山中に匂う山藤の枝に心をとられて、
知らない間に次の季節へ足を踏み出している。
# by moriheiku | 2013-03-07 08:00 | つれづれ

シャガ



金魚の池のまわりに、
つぼみにも気付かないうちに、
藤色のシャガが咲いていた。

こんなに早く。

はじめのアヤメ。



・2008-04-16 池
ひと月よりもっと後だった
# by moriheiku | 2013-03-06 08:01 | つれづれ

イエロー



川沿いにつづくイエロー。菜の花。
# by moriheiku | 2013-03-06 08:00 | つれづれ

球根



小さくなってしまった球根のヒヤシンスは早く咲く。

ミツマタの下、影になるあたりに咲いていた。

草のような花の香り。好きな香り。
# by moriheiku | 2013-03-05 08:01 | つれづれ

春のせせらぎ



春のせせらぎのようなヒバリの声のするところへ引っ越したい。
# by moriheiku | 2013-03-05 08:00 | つれづれ

芽吹き



ユキヤナギの芽がほどけて、緑が吹いた。
# by moriheiku | 2013-03-04 08:01 | つれづれ

中世芸能の発生 454 共鳴 融通念仏



つづき


新聞をいくつかざっと読んでいた。
小澤征爾さんのインタビュー記事があった。

小澤さん。
“「みんなで響きをつくる快感を、若い時に一度でも味わっちゃうとね、一生音楽にとりつかれちゃうんです。社会人になってからも、アマチュアのコーラスに熱中してる人、いっぱいいるでしょ。美しいハーモニーのなかに、自分の声がとけこんでいる。そう実感することに、人生の本質のようなものがあると僕は思う」”


子供の頃の音楽の体験も、今の私の一部になってるんだろか。

“美しいハーモニーのなかに、自分の声がとけこんでいる。そう実感することに、人生の本質のようなものがあると”


いつも響きの一部ような、自他の境のない感覚がある。
こういうのは、理性より前にある、人間の感覚の根っこの方にあるものだと思う。


もの人は共振共鳴する。



子供時代の音楽の経験の名残か。
・2009-09-22 海中
・2010-03-17 井出くんの音
・2009-11-06 息を合わせる




念仏の響きが溶け合って和合する。融通念仏の発想も、
そうした感覚が影響していたと考える。

自然との共振共鳴 声の和合 融通念仏 
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏
万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。

後の時代から現代にいたるまでの表現「神“に”祈る」の場合、
神は自分から分離して「対象」になっている。

それより前の「神“を”祈る」は、神と自分が分離していない表現。

自然がひびけば自分もひびく(はやし)。
大昔は、自他の境のない、主客のない感覚があったと思う。

境がないから「対象」とならない。
自然との境のない、個々に相対化しようのないものだ。

自然と人の距離ができ自然を体感することから離れ、
身体感覚より優先するものができいって、
自他は分離していく。

自然と密だった原始的、実感的な信仰の時代を過ぎ、
やがて哲学的、観念的な思想を持つ宗教が誕生し、
風土や身体感覚を超えた精神的な救済へ向かおうとする。


日本の信仰の特徴として、
木も石も全てのものに命が宿っている、とか、
森羅万象全てに仏性がある、という考え方をあげられているのをよく見る。

私はそれは、
一人につき一つ心臓があるような、個別に神仏が宿るイメージでなく、
もともとは自他の境のないイノチの実感からきていたと思う。

念仏が溶け合って和合する融通念仏の発想も、
そんな感覚が影響していたと考える。




・2009-08-30 地続き
地鳴りがするような感じの土地に行けば、自分の身体が響くし。
あたたかい日があたっているのは、
自分の身体があたっているのか、土地があたっているのか、
虫が鳴いているのは、
自分のどこが聞いているのか鳴いているのか、
わからないような感じがすることがある。

つまり人も自然なので、
自然とは地続きなのだ。

自然にかぎりなく埋没する、没入したいということは、
自然と地続きの身体の自然な衝動としてわかる。




共振 共鳴 共感 と信仰の始まり
・2008-06-03 自然と我 06
自然に畏敬の念をおぼえ、
自然のありように、止まずときめくとき、

原始的な感覚が、身体を通じて、意識の底からのぼってきて、
具体的に何を祈るということはないけれども、

自、他の意識をはっきり分かれる前は、

自然や、
後の時代の神仏に祈る時は、
同時に、自分の中の自然を祈っている。

日本の信仰のはじまりに、
そんなところはなかったか。




「美しいハーモニーのなかに、自分の声がとけこんでいる」に似た感覚。
・2011-09-01 中世芸能の発生 411 こもる こもりく 参籠 たたなづく青垣
やまとはくにのまほろばたたなづくあおかきやまこもれるやまとしうるはし
大和は国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる 大和しうるはし

幾重にも重なる青々とした山の中で、もう私は無くなって、
青い山や自然の一部になっている感じ。

芸能のテーマともなっていった長い時代の、こもって再生する、
という日本の思想の原点には、

共感、共振、共鳴、(類感)という
すべてのものにあるごく基本的な性質があったと思う。




原始宗教。 人類学者フレイザーは、呪術を共感呪術と考えた。
・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応
人生哲学としての思想体系を持った宗教でない原始宗教の始まりは、
特に身体感覚と密接だったと感じている。

どろどろどんどんと地が鳴るような土地に立つと、
私の身体の細胞も沸き立って地鳴りがするよう。
ぴちぴちしたところに行けば、こちらもぴちぴちする。

身体は、土地に感応し、季節に感応する。

感応は、土地や季節ばかりでない。

音やリズムに同調し心が乗ることもそのひとつだろうし、
極めて日常的な
やわらかい日にあたって心がほどけたり、よい香に気持ちが静まること、
葉の鳴る音に心がざわめいたり、
うるさい音に精神が尖るのも、同じことだろうと思う。

自然物や人工物以外にも、人の発する声やことばの音調にもそれはあって、
例えば意味のない声であっても、
やさしい調子で言えばやさしいことばと同じ、やさしさが伝わり、
楽しい調子で言えば楽しいことばと同じ、楽しさが伝染する。

逆にどんなに丁寧な内容のあることばでも、
ののしる調子で言えば、それはののしることだ。

とまあ身近すぎる感応の例はともかく。

人類学者フレイザーは、呪術を共感呪術と考えた。
その呪術(共感呪術)には、類感呪術と感染呪術があるとした。

あるもの対して与える影響はそれに類似したものにも及ぶ(類感呪術)。
接触があったものは接触がなくなってからもつながりや作用が及ぶ(感染呪術)。


おめでたい場面でおめでたい言葉を言うこと、
逆に不吉な言葉をつつしむこと、
おせち料理に、だじゃれのように、
まめに暮らせるようにと黒豆、などと言われて作る習慣も、
類感のマジックを期待されたものだろう。

近代現代でも、
出征する兵士に渡された千人針の布は、感染呪術と言える。
またテレビで超能力者が行方不明者のスニーカーを手に持って
行方を探すなんていうのも感染呪術の一種で、
呪術の気持ちは現代にも忘れ去られてはいない。




梵鐘の響きと、もの人の共鳴  
・2013-01-10 中世芸能の発生 450 除夜の鐘 清め祓い 大乗の音
かつては、
年の明ける前の大晦日の夜に、
清らかな除夜の鐘の音を隅々まで響かせて、

清らかな梵鐘の響きに自然も土地も(国土草木)人も清まって、
新しい年を迎えようとした。





共振、共鳴、響きから展開した習俗  音や響きの利用と呪術化 (芸能化)
・2010-06-15 中世芸能の発生 324 後戸 後堂 しんとくまる
仏殿の後戸の芸能。
正月の修二会、修正会。呪師のオコナイ。
哲学的、抽象的な思想の芯にある古い習俗は、身体感に基づく。



つづく
# by moriheiku | 2013-03-04 08:00 | 歴史と旅

クスノキ



強風で電車が不通。
最寄の駅で運転再開を待っていたけど、あきらめて帰宅。

ぱおの両親のとこへ食事を持っていこうとして、
布に包んだ小ぶりのお重箱を紙袋に入れて家を出たけど、
あっちこっちから吹く風で紙袋はちぎれて飛んでしまうので、
胸に抱えて歩いた。

まるで台風。晴れてるけど。


駅へ向かう時より少し風は弱まったように思うけど。まだ。

一番近い大きい道を通らず、草木の多い家々の間を通って帰る。
行きにも遠回りしてあの白梅を見て、帰りにももう一度見られると思わなかった。


地面に80センチくらいの枝が落ちてる。
枝についた緑の葉はまだみずみずしい。クスノキ。
裂けたような枝の付け根。

道沿いのあの高いクスノキの上空の一枝が、
強風でちぎれてしまったんだ。


持って帰りたかった。
枝を手に持ち、ふっさりした葉の音を鳴らしながら帰って、

生花店にある枝物とはちがう、力強くみずみずしいこの枝を、
水に挿して家に置きたいと思ったけど、

それはいけないので、そのまま帰った。
# by moriheiku | 2013-03-03 08:00 | つれづれ



冬の間、コブシの花びらを包んでいた皮がほどけはじめた。

もうすぐ咲く。





何に頼むのでもなく、何か頼むでもなく、
ただ季節のうつりかわりをいのる心。
# by moriheiku | 2013-03-02 08:00 | つれづれ

あこがれ  桐の音


夕方にかかった青い空に、
ベルベット状の黄土色の膜に包まれた、桐の枝とつぼみが伸びている。

この頃、桐の花がとても好きになった。

直ぐな美しい高木に、
耳に聞こえない鈴の音が鳴っているような、桐の花。
香る花。

空に近い枝先のふくらみかけたつぼみに、
少し先の季節の、遠くまで響くあの
耳に聞こえない花の鈴の音を、かすかに待ってる。



・2011-05-01 桐の芳香
高木の桐。まっすぐに伸びる幹。


家紋と鈴
・2011-04-19 中世芸能の発生 387 桐の花 自然という底流
高い枝先に、耳には聞こえない鈴がついていて、
きれいな音が鳴っているような桐の花だ。
香る花。



・2011-04-29 鳥の目線


・2012-04-28 アオ


・2010-05-06 水の香
# by moriheiku | 2013-03-01 08:00 | つれづれ

水かき



午前中、雨が降った。

鉄橋から見おろした引き潮の、
河口の水は案外澄んでいた。


冬の間あんなにたくさんいた鴨は、
二月、光が変わると、
今年は梅の花より先に北へ渡っていった。


波に浮かんでいるわずかに残っている鴨の、
水をかくオレンジ色の足が見える。
鉄橋の上からも。





あとしばらくしたら、
上流に降った雨水が土など運んできて水は濁る。
# by moriheiku | 2013-02-28 08:00 | つれづれ

目だけでわかること



あっという間に入れ替わる潮汐。
今は満ち潮、この前この河口を通った時は引き潮。

もうしばらくしたら、
上流の山に午前中に降った雨水が土などと一緒に流れてくる。


色んな水が交わるこの河口は栄養豊富で、まだシジミが獲れる。
魚や鳥も来る。様々な命を養っている。







・2013-02-06 日本の命の概念
大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
古い詞章や和歌、古来の風習にみえるように、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も、
と昔の日本人は思っていた。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚は、やがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。
日本の信仰の流れ。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。
(有情無情に分かれない。)

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、岩にも木にも仏がいるとされてきた。
古来の日本の神の概念と、大陸的な神の概念とは違う。

こうした古来の命の感覚の流れから、
日本では、例えば人工物である刀も、刀の持つ力・性質を神として祀ることになり、
何かの中の鎮まらない力、あらぶる力も、神となっていった。

日本の神は、たとえば「全知全能の神」という観念とは異なる。
あたりまえだけど・・・。
# by moriheiku | 2013-02-27 08:00 | つれづれ

とぐろ




あの山の三角にだけ、とぐろを巻いたようにすっぽり、暗い雲が座っていた。


ここは晴れてるけど

あの山の向こう側は雨かなと思ったら、

山の向こう側の人は、全然降らなかったと言ってた。
# by moriheiku | 2013-02-26 08:00 | つれづれ

再生



先日録画した『ニューシネマパラダイス』。
眠る前ほんの少しだけ観ようと再生。

あ、短尺版のほうだった。
長尺のディレクターズカット版のほうが私は好きみたい、
複雑さを超える思いの強さが、ラストシーンの昇華に一気につながるから。

と思いながらも、
何度観ても泣く。


最後まで観た。

電子レンジで温め過ぎた大きいゆたぼんをおなかに入れて、
いつのまにか画面にひきこまれていたら、

熱すぎたゆたぽんの熱で、おなかに赤い血管の網目模様が残った。

トト。
# by moriheiku | 2013-02-25 08:00 | つれづれ

ジャイ子



私 「ね、ジャイ子ちゃん(ジャイアンの妹)って、本名ある?」 

○ちゃん 「知らないけどあるんじゃない。なんで?」 


今、チャイコフスキーのこと思い出して、パッと

チャイコフスキー → チャイコ → ジャイ子 って連想したんだけど、

それは言わないでおこう。

・・・な~んてことは私にはできないので、速攻でわけを言った。


ジャイアンの本名は剛田武。

今ネットで見てみたら、
ジャイ子ちゃんの本名は明かされていないそうだ。
ジャイ子ちゃんと同じ名前の女の子がいじめられないようにという
配慮からだという噂。


他、一気にジャイアン一家に詳しくなった本日。
# by moriheiku | 2013-02-16 08:00 | つれづれ

私の遊び



たとえば古代の人々にとって、
古墳に刀をおさめたり古墳の壁に刀を描くことは、
刀に宿るエネルギーをそこへ満たすことで魔を切り払って
死者の死後の旅を守る意味があったと考えられる。

こうした何かにある力にあずかる意識は、
さらに時代を下ると、
神仏のお守りを身に着けることで神仏の霊験に“あやかる”とか厄をよける
という意味にも変化していく。

このように、激しいエネルギー、横溢する生命力で満たすことで
結果として魔、穢れは祓われるという概念と、
もともとのタマフリやケガレ(気枯れ)の観念は同じ根。

古い時代からの、類感の習俗の水流だ。


日本で、
祭祀の道具や古墳の壁画などに描かれた呪術的意味のある画が、
やがて松や鶴など目出度いものを描く吉祥の祝福の障壁画になり、
美しさで心を動かす画になり、
禅者の到達した禅的境地を映す画になり、
現代では画家の心象を描く絵になり、等々、

絵画の変遷と分岐の経緯を感じる。


これら思想・文化の変遷。

私はその根元にあるものと、
それに重なり、影響を受け、混ざりあう思想や文化の変化のさまを、
動く天気図の中に立って見ているように、

実感しようと、

ただそれだけ




私の遊び 実感の遊び
・2009-03-01 草の息
私はずっとそのあそびをしてる。
# by moriheiku | 2013-02-15 08:00 | 歴史と旅

鳥の家




今年、ぱおの小道のこちら側のコブシのつぼみは、
あまりヒヨドリとメジロに食べられてない。

小道のこちら側のモクレンのつぼみは、
いっぱい食べられちゃったー。

どうしてだろう。

小鳥たちは食べ物に困っていないだろうか。
小鳥たちに住み良いだろうか。
# by moriheiku | 2013-02-14 08:00 | つれづれ

ひとつめの梅の花


目は白梅の花を探すのに忙しく、
車内で本を読めない。

電車の中や電車を待つ時間は、私の読書タイムなのに。


昨日は咲いていなかったあの梅の木に、
今日は一度に白い花がいくつも咲いた。

だから、ほとんどどの木も咲いていなくても、
あの木は?あの木は?
と心が探して、
ちっとも本は進まない。





今日から新緑まで、花を追う日々。





・2008/03/23 春の黄の花木 マンサク
まず咲くマンサクは、
早い春から、黄色の糸を束ねたような花が咲く。

少し前まではどこにでも見られた花木だそうだが、
身の周りにさっぱり見ない。
人の手の入る林によく見られたそうで、
人手が入らなくなったためか、伐採が進んだか。

冬から春に移る色のかすれた山に、
黄金色の糸がひらひらとつく枝に、
豊穣のほを見ていた
# by moriheiku | 2013-02-13 08:00 | つれづれ

シャコンヌ



私、笛で鳴らない音が出たらいい。

自分で好きと思う音、鳴ってみたい。

いいと思う音が鳴るのは、どういう気持ち?



あと、バッハ ヴァイオリン無伴奏。パルティータの2番、弾きたい。
シャコンヌだけでもいい。
難曲。ボウイングわからない。


それから、バッハのあの曲を。できたらチェンバロで。
音が周りに響くから、ここへはピアノをもって来られない。

電子ピアノを、買おうか。



私が、何かを、したいと思うなんて。
# by moriheiku | 2013-02-12 08:00 | 音と笛のまわり

演奏会



私「あのね、コンサート、
  バッハとピアソラとドヴォルジャーとラフマニノフと、
  あとたまにチャイコのヴァイオリンの時だけでもいいよ。」 

○ちゃん「それはムリ」 

私「でね、あのね、マーラーの時は呼ばなくていいよ。」 

○ちゃん「うん、でもムリ」 

私「あとクレーメルは行くの」 

○ちゃん「うん」

私「けっこう王道を言ってみたつもりなんだだけど・・どう?」 

○ちゃん「そうだけどムリ」 

私「うん・・・」 


私「そうよね、作曲家より演奏よね。結局」 

○ちゃん「そうそう」 


○ちゃんはなんでも良く聴けてえらい。
私は好きな演奏の時はうんとひきつけられて、
たとえ好きな曲でも、演奏にひかれなければ、
あとは眠たくなったり、演奏に怒って起きてたりしてる。しょぼーん。
# by moriheiku | 2013-02-11 08:00 | 音と笛のまわり

世界一



その指揮者さんは
○○○○(作曲家名)を振らせたら世界一と言われることがある。
ほんとうにそうかもと思った。


休憩の後、演奏会の後半。
最初っから音が違う。興味の持てなかった前半とは。

後半は○○○○(作曲家名)の曲。


なんであんなに違うの!

気合じゃない?


どれも真摯に指揮されたとしても、○○○○に自然と気持ちが入るの。
○○○○(作曲家名)と気持ちが重なるのかな。
# by moriheiku | 2013-02-10 08:00 | 音と笛のまわり

ショコラの作業


今年チョコレート、3キロと200グラムくらい使ってる。びっくり。

でもテンパリングするにも300~500グラムくらいがやりやすいから、
やっぱりそのくらいにはなる。

ボンボンオショコラなら一回30個くらいは作りたいし。


美しいショコラ。

イメージの広がる楽しいチョコレートの作業。
# by moriheiku | 2013-02-10 07:59 | つれづれ

街道の市(いち)


今年も街道の市(いち)へ行った。

昔ながらの酒屋さんで、
お料理に使う美味しい新酒の酒粕を、去年の倍買った。

街道に並ぶ屋台の間を通って、髪に屋台のにおいがついた。

植木の出店はにぎわいのおわりのほう。ここは大人ばかり。


一昨年は、みぞれの下に咲いていた、あの清潔な白梅の花は、
まだ丸い蕾だった。






◆ イチ  の 「イ」

・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ
古代の市(イチ)は、ミチ(道)を通って、
文物や人やさまざまのものの交錯するところで、
イノチやチカラ、つまり活気のあつまるところと考えられた。
古代の人は活気を、一種の力と考えていた。

「イチ」(市)の語を構成する「イ」の一音節は、
元来、
生命力・霊力の横溢する状態を意味。

その「イ」の音のイメージは、
たとえば今も「厳(いつ)」「いかし(厳し)」の語に感じられるように、
たけだけしいほどの
自然の生命力(昔の人にとっては呪力、霊力でもあった力)の横溢。

人々はそういう性質や力をやがて霊威・神威と考えるようになって、
元来の「イ」の性質を表す「イ」という一音節が
様々の神聖なものをあらわす語に用いられていったと考えられる。
(古代における神聖とは、生命力・霊力の強さ
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは


「イ」を語根とすることば
----------------------------------------------------------
いか・し 【▽厳し】 (大辞林)
(1)霊威が盛んである。神秘的な力に満ちている。
(2)たけだけしい。荒々しい。

いつ 【▽厳/〈稜威〉】 (大辞林)
(1)神聖であること。斎(い)み清められていること。
(2)勢いの激しいこと。威力が強いこと。
----------------------------------------------------------
いつ・いち【厳】 → 「いちはやぶる」 → 枕詞の「ちはやぶる」

例えば厳島(いつくしま)神社のある厳島(いつくしま)は、
「イ」の横溢する島。と、ことばの音から感じられる。
同時に、厳島(いつくしま)という言葉の中に「イ」があるのだという感覚。
・2008-10-03 中世の人の感性


元来、日本の「イノリ」(祈り)とは、
抽象的な神に敬虔な願いを捧げるような新しい祈りでなく、
たけだけしい「イ」を宣(ノ)る強い行為であったこと。
・2010-06-05 中世芸能の発生 320 祈(イノ)リ イ罵(ノ)り

このように古い時代の「イノリ」は、
強い行為によって効果の伝染を期待する身体的実感を元にした行為で。

それは、自分から分離した遠ところにある抽象的な神などの存在に祈るものでなく、
イノリの対象が自分とつながっているという、
自他が分離していない、したがって伝染する、という
身体的実感に基づくものであったことがことばや歌からもわかる。



他、「イ」の性質を含む行為の例  斎(い)む 忌(い)む 祝う 呪(いは)う
・2010-02-06 中世芸能の発生 270 イハフ
・2010-02-07 中世芸能の発生 271 イハフ言葉 イハフ行動
・2010-02-08 中世芸能の発生 272 マツル
・2010-02-09 中世芸能の発生 273 イム




◆ イチ  の 「チ」

・2012-02-14 中世芸能の発生 426 道(ミチ)のチ
・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花
漢字より前からの古い時代の「チ」の音を含む語、例えば
「ミチ」(道)、「チ」(血)、「チチ」(乳)、「ヲロチ」(大蛇)、「イノチ」(命)、等々は、
「チ」の音のあらわす種類の性質を内蔵するという感覚に基づき
「チ」の一音節を語根としたことば。

イノチ」は「イ」の「チ」であって、
「イ」は生命、「チ」はチカラ(力)。

例えば「イカツチ」(雷)は「イ」変化の「イカ」つ「チ」。
「カグツチ」は「カグ」つ「チ」。
「チ(血)」「チチ(乳)」「ミチ(道)」「ヲロチ(大蛇)」他、
これら名詞は生命力・霊力をしての「チ」の性質を内蔵するという観念に基づく。

また「チカラ(力)」は「チ・カラ」で、「カラ」はウカラ・ヤカラのカラと同じ。

つまり「チカラ」は「チ」そのもの、霊力・霊威の観念を顕す語とみられる。

昔、租稲・租税を「チカラ」と言った。(例:主税寮 ちからのつかさ)
今も秋祭りでその年の初めの収穫を神前に奉ずるが、
それは最も「チ」に満ちていると考えられていた最初の収穫を神(王)へ捧げ、
繁栄を願う(イハフ)行為だった。

「チ」を語根とする動詞の「チハフ」は、「チ」の恩恵的な働きを意味する。
また「チハヤブル」は、「チ」が烈しく活動する意で、
「チ」には、恩恵的な働きと、破壊的な働きとの両面がある。

語源的には、
チは、力そのもの。

静でない動的なありかた、チの性質そのものがチ。



イチの分配。厄除けのおまんじゅうの分配。去年の市。
・2012-02-15 中世芸能の発生 427 厄除けのおまんじゅうの分配
・2012-02-12 中世芸能の発生 424 市(イチ)
# by moriheiku | 2013-02-09 08:00 | つれづれ

中世芸能の発生 453 日本の命の概念



つづき

日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も、

と昔の日本人は思っていた。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚が、やがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。
日本の信仰の流れ。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、岩にも木にも仏がいるとされてきた。
古来の日本の神の概念と、大陸的な神の概念とは違う。


こうした古来の命の感覚の流れから、
日本では、例えば人工物である刀の持つ力・性質を神として祀ることになり、
なにかの中の鎮まらない力、あらぶる力も、神となっていった。

日本の神はたとえば全知全能の神という観念とは異なる。あたりまえだけど・・・。


日本の信仰の行為ないし芸能の行為の根本は、
こうした力に伝染する(=あやかる)ことを期待するもの。
またはその力をなだめ、慰めコントロールしようとするもの。

神威の満ちた祓い串で穢れを祓う行為も、
寺社で神仏にささげるため行われる法楽の芸能なども、
願いをかなえようとする重いとともに複雑化形式化したが、もともとはそれだ。

寺社で買うお守りなどの授与品は、
その横溢する力の及ぶものを受け取ることで
その力が自分に伝染しますように(=あやかりますように)と期待した、
遠い昔からの人々の切実な願いの行為の伝統だ。

お相撲さんにぴちぴちさわるのも、
お相撲さんの晴れ晴れとした強いイの伝染を無意識に期待してのことと思う。



現代の日本人も、大樹のもとでその生命感に圧倒される。
ぴちぴちした新鮮な食べ物を食べると、元気になる気がする。
とどろくイナヅマと閃光に、恐怖したり興奮する。
やわらかい香りに気分は落ち着き、
力士の体のぶつかり合いや超人的なスピードで走る走者心身は湧き立つ。


日本におけるイノチとは何か(何だったか)
自然の中に一歩入ったり、万葉集や古い詞章を少し聞けば、身体でわかる。


こうした古来の命の考え方をベースに置かずに、
日本の神を議論するのは、おかしいと思う。



神の系譜を追っても、けして信仰の本質にはたどりつけない。むしろ離れる。

古い芸能も同じこと。




神について説明もできず、説明もせず、
靖国神社などに勝手な理屈解釈でねじこまれるばかばかしさ。

なぜたったそのくらいのこと政治家さんがたは説明しないのだろう。






万葉集歌にみるイノチ
・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花
「イノチ」は、「イ」の「チ」でのことで、
「イ」は生命、「チ」はチカラ(力)の意。

「イ」の印象は、たけだけしい厳(いか)しの語でイメージしやすいだろうか。
例えば「イカツチ」(雷)は「イ」変化の「イカ」つ「チ」。
「カグツチ」は「カグ」つ「チ」。
「チ(血)」「チチ(乳)」「ミチ(道)」「ヲロチ(大蛇)」他、
これら名詞は生命力・霊力をしての「チ」の性質を内蔵するという観念に基づく。

また「チカラ(力)」は「チ・カラ」で、「カラ」はウカラ・ヤカラのカラと同じ。
つまり「チカラ」は「チ」そのもの、霊力・霊威の観念を顕す語とみられる。

イノチとは、「イ」の「チ」。強い命の力。




・2013-01-11 君が代 03
日本の古いことほぎの伝統。
そのおまじないのような、切実な祈りの習俗。

ことほぎは、自然に寄せてイノチが盛んで栄えることを祈る。
横溢する自然の命の祝福がイノチに反映するように願われた。

ことほぎの特長は、
周囲と無関係に個人を祈るものではないということ。

つながりあっている森羅万象、国土草木(山川草木)、全てのイノチが、
共に盛んであればこそのもので、
共に盛んで長く栄えることを祈る共栄の思想に基づく。

これは抽象的で体系化された思想ができるより前からの、
自然で素朴、原始的な、身体的な共感の感覚に基づくいている。
こうした類感の感覚が日本文化のベースにある。

という伝統の末にある「君が代」について。




つづく
# by moriheiku | 2013-02-08 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 452 狩りという行為の神聖 狩人 武士 弓矢 



つづき


たとえば犬の温かい毛に指を埋めて首を撫でてる時。
生きるために獲物となる生きものを殺すことのこわさを思ったりする。

こうした息をしているものを殺すことは、
ただならぬエネルギーの要ること。

その行為自体がエネルギーだ。



古い祭祀の道具や古墳の副葬品に、狩りの様子が描かれてる。
もちろんそこに描かれた画は、単なる景色や風俗を描いたものじゃない。


祭祀の道具や古墳など神聖なものや場所に狩りの様子が描かれたのは、
狩りの獲物が大変貴重な自然の恵みだからというだけではなく、
野生の獲物の強い生命力への憧れだけでもなく、

きっと狩りという行為自体にある激しいエネルギーも全部こみで
狩りが神聖ととらえられていたためだと思う。


日本の古代における神聖とは、
現代にイメージされる神聖と少し異なっている。

たとえば古い詞章や歌に見る、古代における「神聖」の観念内容は、
生命力の強い状態のことであり、必ずしも清浄・タブーにつながらない。

土橋寛(著) 『日本語に探る古代信仰』
古代における「神聖」とは、生命力の強い状態。
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは
古事記、日本書紀の元来生命力・霊力を意味する語「イ」の語と、「イ」の変化と用例から。


古い詞章や歌、習俗を見れば、
昔の日本人は、命が盛んな状態であることに何よりも憧れていた。
(生命を活発化させ再生させようとするタマフリの習俗等)
現在のおはらいも、もとは
強い生命力(昔の人が霊力、呪力ととらえた)を伝染させることで命を強化し、
その結果魔やケガレが払われる、という成り立ちのものだ。
(現在のような神威で魔やケガレを払うという考え方は、
ものにある生命力を霊や神と概念するようになっていってからの考え方)

日本の古い呪術や信仰は、
まず命(生命力)を盛んにすることが基本にある印象だ。

古代人にとってのイノチとは。

命イノチということば自体、「イ」の「チ」、
たけだけしい命(イ)のチカラ(チ)ということば。
・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花
・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ
・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方と違いがある。
昔の日本人は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命ととらえていたこと。


芸能と呪術や信仰が分離する前の芸能も、こういった性質のもので、
説経、浄瑠璃、唱導、猿楽、イノチの復活、死と再生を語るものの多いこと。
(芸術と信仰、芸術と生活が分けてとらえられるようになったのは、
長い歴史から見れば最近のことだ。)


古い祭祀の道具や古墳に、狩りの様子が描かれた。

狩りは縄文時代から主要に描かれたてきたもののひとつだが、
狩に関わるモチーフとして、
獲物となる旺盛な野生してのシカ、イノシシ、魚だけでなく、
弓矢や狩人を、
それから狩り全体の様子描かれていることにはやはり意味があると考えられる。


祭祀の道具や古墳に描かれた画に描かれるモチーフは限られている。
たとえば歴史の教科書で見ることがあるような
死者を死者の国へ運ぶ乗り物としての船、馬、船を導く鳥、太陽、亀、
シャーマン、祭祀する人、祭祀する人の持っているヒレ等の呪具、三角の頭巾、
祭祀をつかさどる人や死者の家(神殿)、聖樹、等は、
現代の絵画とは異なる意識で描かれている。

これらは描くことで描いたものの効果が発揮されることが期待された
約束のモチーフ。
願いの伴う呪的な画であるほど余計なものは描かれない。

これらモチーフを画くことは、
昔の人々が描かれたものに宿る強い力がその場へ及ぶことを期待して行ったもので、
描かれた場所や対象に描いたものの激しいエネルギーを満たそうとする行為だった。

たとえば古墳に描かれた鉾には、
鉾に宿るエネルギーをそこへ満たすことで魔を切り払って
死者の死後の旅を守る意味があった。


したがってかつて祭祀の道具や古墳に狩りの様子が描かれていたことは、
旺盛な命である獲物(さち)だけが神聖だったのでなく、
獲物(さち)を獲る弓矢だけが神聖だったのでもなく、
獲物(さち)を獲る狩人だけが神聖だったのでもなく、
昔の人々にとって、狩りという激しい命の力の発揮の行為自体が、
(古代的意味での)神聖と、感じられ(考えられ)ていたということだと思う。



自然の勢い(昔の人が考えた命。エネルギーのようなもの)に触れるとき、
やはり狩りという行為の激しい命の力の発揮が、神聖だったのだと思う。(結局主観か…)



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たとえば古代の人々にとって、
古墳に刀をおさめたり古墳の壁に刀を描くことは、
刀に宿るエネルギーをそこへ満たすことで魔を切り払って
死者の死後の旅を守る意味があったと考えられる。

こうした何かにある力にあずかる意識は、
さらに時代を下ると、
神仏のお守りを身に着けることで神仏の霊験に“あやかる”とか厄をよける
という意味にも変化していく。

このように、激しいエネルギー、横溢する生命力で満たすことで
結果として魔、穢れは祓われるという概念と、
もともとのタマフリやケガレ(気枯れ)の観念は同じ根。

古い時代からの、類感の習俗の水流だ。


日本で、
祭祀の道具や古墳の壁画などに描かれた呪術的意味のある画が、
やがて松や鶴など目出度いものを描く吉祥の祝福の障壁画になり、
美しさで心を動かす画になり、
禅者の到達した禅的境地を映す画になり、
現代では画家の心象を描く絵になり、等々、

絵画の変遷と分岐の経緯を感じる。


これら思想・文化の変遷。

私はその根元にあるものと、
それに重なり、影響を受け、混ざりあう思想や文化の変化のさまを、
動く天気図の中に立って見ているように、

実感しようと、

ただそれだけ。





奈良時代(『万葉集』)、
狩りの獲物のことを「さち」と言った。
獲物(さち 幸)をとる矢は「さつや」、獲物をとる人は「さつを」と言った。

語源的には獲物「サチ」の「サ」は、
古代における神聖なものにつく接頭語。「チ」はチカラ。
「サチ」は神聖な生命力にあふれた力、転じて神聖な生命力に満ちているものを指した。
それが海のサチ、山のサチ。

それを獲得する矢を「さつや」、
獲物をとる狩人を「さつを」という。
この呼び名は、
さち(神聖な強い生命力)を獲得するものであり「さち神聖な生命力」を含む祝福の名だ。

(したがって当時、戦いに用いる矢をさつやと言わない。)

・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承



五月の節句でもおなじみの、弓矢は今でも魔除けの印。

中世期あたりまでの武士が、
後世に武士の魂と言われるようになった刀よりも弓箭(弓矢)を重視し、
その頃、武士の生き方が弓箭の道と言われていたことは、

当時実戦において刀より弓矢が有利だったからというだけでなく、
遠い時代、狩りという行為自体にあった、
たけだけしいほど盛んな生命力と対面する神聖の記憶が、
その頃までまだかろうじて保たれていたということもあったのではないだろうか。

私はその記憶は、北面の武士の頃まではあったと思う。
・2009-04-17 中世芸能の発生 112 弓と北面の武士


北面の武士が置かれていた時代、
武士自身が殺生の罪の狭間にあって、
武士の出家が相次いだ。

様々の思想の転換期だった。



時代が流れて、いきものの殺生肉食は、
野蛮や残酷という方向へ重心が傾いていく。

イオマンテのように、
世界中で行われてきた共同体で大切にしていた生き物の命を殺して共食することは、
皆で命の実感を新たにし、
命の循環と、自然への畏れと、命を大切にする儀式でもあるのかな、と
神道の祭礼の直会(なおらい)の共食共飲の習俗とあわせ想像する。



あーうまく言えたらいいのに。




猟は残酷か?
・2013-02-07 中世芸能の発生 451 『ぼくは猟師になった』 殺生 肉食 イオマンテ
“動物の肉を食べるということは、かなりの労力を費やす一大事です。ありきたりな意見ですが、スーパーでパック詰めの肉が売られているのを当然と思い、その肉にかけられた労力を想像しなくなっている状況はおかしいと思います。誰かが育て、誰かがその命を奪い、解体して肉にしているのです。狩猟は残酷だと言う人がよくいますが、その動物に思いをはせず、お金だけ払い買って食べることも、僕からしたら残酷だと思います。”
若手猟師さんの書かれた猟のある暮らし。

それから、など古典と資料に見る、
日本の古来の肉食と、新しく入ってきた仏教における殺生肉食の戒とのきしみについて。




古墳副葬品の造形と意味
・2011-09-26 中世芸能の発生 415 太刀 剣
古墳の船 太刀 衣笠 杖 




寺院開山縁起に見る狩人の聖性。 古来の神聖と、その変化の過程。 
・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承
昔、獲物(さち 幸)をとる矢を「さつや」、
獲物をとる人を「さつを」と言った。

万葉以前は、獲物のことをさち、幸(さち)と言った。
神話のうみさちひこ(海幸彦)、やまさちひこ(山幸彦)。

「サチ」は、「サ・チ」。
「サ・チ」の「サ」は、神聖なものにつく接頭語。
「サ・チ」の「チ」は、「チ」はイノチの「チ」チカラ(チ・カラ)の「チ」。
「サチ」は、神聖な生命力にあふれた力。
転じて神聖な生命力に満ちているものを指す。
山海に産するもの。野生の獲物も。

「サチ」を獲る者は、「サチ」を得る者。「サチ」に連なる者。

現在も見る弓矢の帯びる聖性は、
狩猟がサチを得るものだったことからきている。

弓矢の神聖性は、野生の生命力につながっている。

だから、どんなに破壊力が大きくても、
原子爆弾は信仰の対象にならない。


白山や熊野、高野山、他、各地の寺院開山の縁起に、
土地の狩人がその場所を知り、
聖者(僧)を案内したという伝承が数多くある。

その狩人たちは、古来の民俗信仰の、
霊地を見つけ、そこの山の神の元でサチに連なっていた人々を指し、

開山伝説には
狩りが神聖だった時代の原始的な自然信仰の色濃い民俗信仰に
仏教が重なっていく経緯が表されていると思う。



奈良時代、万葉集でも、
獲物(さち 幸)をとる矢を「さつや」、獲物をとる人を「さつを」と言った。
「サチ」は神聖な生命力にあふれた力、転じて神聖な生命力に満ちているものを指した。
海のサチ、山のサチ。
それを獲得する矢が「さつや」、獲物をとる人を「さつを」。
狩る道具と狩る人にある、命を獲得する力への、祝福を含む名だ。




土橋寛。 『古事記』『日本書紀』に見る古代における神聖とは
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは
古代における神聖とは、現代的のタブーや清浄の意と異なる。
神聖な状態とは、生命力の横溢する状態。

・2010-03-16 中世芸能の発生 297 土地の木



北面の武士 弓矢 魔除
・2009-04-17 中世芸能の発生 112 弓と北面の武士
弓矢が魔よけとなるのは、
単に戦で用いた強い武具であるからという理由でない。

弓矢は原始的な、横溢する生命力という根源とつながっているからこそ魔よけ。

獲物(サチ サ=神聖な チ=チカラ) という旺盛な生命力を獲得する、
神聖な力に満ちていると考えられたから魔除け。

いくら破壊力が強くても原子爆弾は
弓矢の魔除けにとってかわらない。

だから神事芸能の中で流鏑馬がとり行われ、
武士がそれを務めた。

院に仕える北面の武士は、
院の御所の北に詰め所が置かれたため
北面の武士と言われた。

これはただ方角を指しているのでなくて、つまり北の守。
都の配置と同じ。北の山。
北面ということばに背後の守りの意味が重なる。 
北を守る毘沙門天とイメージも重ねられた。

強い命の力で魔をはらい
魔がはらわれることによって幸をもたらす弓矢を携え
背後にあって院を守るのが北面の武士。


姿良く、文武に優れていたという北面の大将たち。かっこいー。
華やかな立場である反面殿上人と地下人の境でもあって、北面の悩みは深かったようだ。
西行とか文覚とか、清盛とかも・・。あ、文覚って面白い人だけどちょっと・・・。



・2009-04-17 中世芸能の発生 111 弓箭の道
「弓箭の道」は
・武芸。武道。
・武士の守るべき道。武士道。
の意(大辞林)。「弓馬の道」も同。

弓箭の「箭」は、「矢」のこと。

武士をあらわすものとして弓箭(弓矢)ということばが使われた。
弓と矢、あるいは、弓と馬だ。

武士は「弓取り」とも言われた。

万葉集の中に出る弓箭ということばと仏教。山上憶良。沈痾自哀文。




◇漁の喜び

狩猟は“栽培以前”ではないこと。
・2009-09-23 中世芸能の発生 203 狩猟 採取
鵜匠の山下純司さんがテレビで、

鵜匠の山下純司さんがテレビで、
魚は育つものでなく、湧(わ)くものだったと、
とおっしゃっていた。

むかしむかしのこと。

栽培したり育てたりしない。

川の魚は、太陽と水と森の養分だけで、無限に湧いて、
我々(人)はそれをとって食べて生きた。

それがサチ、命の力でなくてなんだろう。

季節に木の芽が芽吹くように、河に魚が湧く。
現代の山下さんのひとことを通って今にいきいきとあらわれる感覚。

昔、山河のものを食べることは、そうしたサチをいただくこと。
命の力を身体にうつすことだった。


山河や海での狩猟や採取は、
栽培以前、でなく、

栽培とはちがう、
くりかえす自然の生命力に対する深い気持ちがあっただろう。


鵜匠の山下さんのことば。
実感のある人のことばに、感覚の口が開(あ)く。
まるで古代の芸能のようだ。



毎年訪れる季節への期待  万葉集  鵜飼漁
・2009-09-06 毎年に鮎し走らば
自然の中で漁をする喜びは、
毎年おとずれる季節の木の芽を採る喜びやめでたさに似ていたと思うから。
それがどうしてそれほど罪深いものとされてしまったものか。

家持のこの歌のみずみずしさ。

夏の鵜飼漁。
毎年訪れる季節への期待。
旅情。
肌に季節の川辺の風が吹くようだ。




◇漁の苦悩 殺生の苦悩

殺生と地獄 中世の鵜飼 今様歌 遊女の歌
・2009-02-11 中世芸能の発生 67 船の上の遊女 お能『江口』
鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し 鵜の首を結ひ 現世はかくてもありぬべし 後生我が身をいかにせん
哀しい歌ね。

“ 鵜の餌に、万劫も生きる亀を殺し、鵜の首を結んで鮎を吐かせている。現世はそうしても過ごせようが、後生はその身をどうするのだろうか。亀を殺したり、鵜を酷使する鵜飼は来世には地獄に落ちるというのに、その生業に勤しむ鵜飼をいとおしい、と詠んでいる。”

同じく梁塵秘抄の遊女の歌。
淀河の底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめく いとほしや

鵜飼の罪の深さは、遊女自身の罪の深さに思われるのだろう。
遊女が船の上から見た、川底の、鵜に食われてきりきりもがく鮎の姿は、
自分自身にも思われたろう。

きっと我が身も、地獄に落ちるのでしょう。そう思ったのだろう。

遊女であることはあなた(遊女)の作った罪ではないのに。
いとおしや。





・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって昔の日本では、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚がやがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、
岩にも木にも仏がいるという理解になっていった。
日本の信仰の流れ。




私の遊び 実感の遊び
・2009-03-01 草の息



つづく
# by moriheiku | 2013-02-07 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 451 『ぼくは猟師になった』 殺生 肉食 イオマンテ



つづき

『ぼくは猟師になった』 千松信也(著)

千松さんは若手の猟師。
自然豊かな中で子供時代を過ごされた。
猟をする生活に惹かれるようになったが身近に猟師はおらず。
猟師になるための本などなく、実際の猟師の暮らしに接する機会はなかった。
大学在学中、狩猟免許を取得。アルバイト先の会社で先輩猟師に出会い学ぶ。
現在も同じ運送会社で働きながら、主にイノシシやシカを獲るワナ猟をされている。
京都在住。


千松さんが主にする猟はイノシシやシカを獲るワナ猟。
動物たちとの知恵比べの要素が強い印象からワナ猟をと思われたようだ。
動物と対等に対峙する感じなのかな。

猟期の間は毎日、山中にしかけたワナを見まわる必要がある。
そのためワナをかける範囲を歩いて回れる範囲にされている。

猟をする方々には特別な目があって、
同じ山中に私たちに見えないけもの道を見ている。

けもの道に残された動物が身体に付いた泥を擦りつけた跡や、
枯葉を掘り起こした鼻跡などで、
猟師さん方は、動物の種類やサイズ、頭数や雌雄を推測することができる。

例えばなんだったかな、
ある動物の雄一頭、雌二頭、子供何頭が何時ごろまでここにいたけど、
その後どこどこをまわって明け方どこどこへ行ったというような、
ベテラン猟師さんがまるで目で見ていたようにお話しされる様子は痛快。
感嘆し、その生き生きした力に心が湧く。


『ぼくは猟師になった』の中に
ワナ猟の道具や作り方、設置場所など説明があった。

季節と共に移り変わる獲物や木の実や葉など自然の恵みについてや、
そこに住む動物たちの関係、
条件が全く同じことはないためワナをしかける毎に工夫される猟の様子を読むと、

猟は身体全体で総合的に知恵を働かせてするものなのだなあ、と思う。


イノシシやシカの解体は、
慣れた今も二人がかりで一頭に四、五時間かかるそうだ。

腹を割く際はナイフの刃を上向きに使い、胃や腸などを傷つけないように注意するそう。
胃や腸が破れて内容物が出てしまうと肉に臭みがつく。
胆のうを破らないこと。肉が苦くなる。膀胱のあつかい。
血がまわらないようにする血管の切り方。
早く獲物の熱をとり肉の傷みを進ませない、等々解体の注意点は、
知識と経験の動作で、やはり知恵ということばが合う気がした。

猟をはじめられた頃は、
夕方に解体をはじめて精肉が終わる頃には、
すっかり明るくなっていたこともあったそうだ。


獲物の肉のこともたくさん書かれてる。
野生肉は臭い硬いと思われることも多いが本当はとてもおいしいって。
無駄なくおいしく食べるため
肉の種類にあった調理の他、革や爪などの利用についても。



自分で食べる肉を自分で調達する千松さん。

『ぼくは猟師になった』を読んで私は、
ワナをかけること、獲物を獲ること、
臓器、骨、革ひとつひとつの処理の仕方を知ること、
その肉をおいしく食べることは、
その動物を知るということだと思った。

それは身体で自然を知ることだと思う。



画家の池田満寿夫さんが (ご存命の頃なので1990年代だと思うけど)、
テレビでピカソのキュビズムについて説明されていた。
お話中池田さんがアボリジニの人たちの描く絵について少しふれられた。

日本人が犬の絵を描くと、犬の外見の絵を描く。
アボリジニの人たちに犬の絵を描いてというと犬の内臓も描くというものだった。
(胴体部分に内臓が描かれていたりして)

アボリジニの絵のことはお話全体の一部だったけれど、
私はああと腑に落ちる感じがして、このことがとても印象に残った。

アボリジニの方々にとって
内臓までこみで犬、ということだろう。




仏教では殺生と肉食を禁じる戒がある。
日本で仏教が公式に取り入れられたのは中央集権が概ね形をなした奈良時代。

はじめて殺生と肉食を禁ずる令が出されたのは天武天皇の時代。
(ただし興味深いことにこの禁令は、時期と動物の種類を限ったもので、
古墳や銅鐸の線画にもなじみのシカやイノシシは禁じられていなかった。)

仏教の戒の他、人の手のかかった食物を避け
自然のものを食べて超人的な力を得ようとする(仙人になるとする)
神仙思想の影響と習合もあり、

仏教が一般化していく奈良時代から平安時代にかけて、
それまでは野生の旺盛な生命力を獲得するものとして
神聖とされていた野生の命を獲る人たちは、
殺生する人、死穢に近い人として、罪や恐れの対象に見方が変化してきて、
立場を落としていった。


仏教説話集『日本霊異記』に、
殺生や肉食についての物語(説話)が出てくる。
以降の『今昔物語集』他の説話集にも殺生と肉食の罪が説かれた話は数多い。

『日本霊異記』は、民衆への仏教の布教教化のため、
教義の内容をわかりやすく物語にしたてたものを採集しまとめた説話集。

編纂は平安時代初期であることから、
収録された説話は平安時代より前の奈良時代にあったものと考えられる。

『日本霊異記』は流布していた話を採集したものであると同時に、
説教唱導する僧たちのテキストにもなったものだろうか。

『日本霊異記』をまとめた薬師寺の僧景戒自身、もとは私度僧だった人で、
人々を仏教に導くため説話物語して歩いた僧や聖たちの姿は、景戒自身に重なる。
・2009-05-25 中世芸能の発生 133 俗の土壌


殺生肉食についての物語(説話)は、
古来の殺生肉食のある人の暮らしと新しい殺生肉食の忌避の思想の間の
きしみととまどいをなじませるための物語だ。
『日本霊異記』や『万葉集』を読むとその過渡期にあることがリアルに感じられる。

奈良時代には迷いの過程にあった様子がうかがえるが、
時代を経ると殺生肉食について語られた説話はいっそうダイレクトに仏教に結び付く。

漁師や猟師、武士等、
殺生に関わるなりわいで生きる人々自身が
仏教に照らせば後生は殺生を犯した罪で地獄で苦しむと
信じるようになっていったことは、
中世の流行歌今様や、猿楽(お能)の中にも語られる。
・2009-02-11 中世芸能の発生 67 船の上の遊女 お能『江口』



狩猟は残酷か?について千松さんはご自身の考えを書かれている。

千松さんは狩猟に興味があり解体に参加したい友人などを呼ぶことがあるそうだ。
それは千松さんが
狩猟に対するマイナスイメージや誤解をなくしていくのに、自分で肉を処理してもらうのは非常に効果的ではないかと考えていること、
また、野生動物は臭いと思っている人も多いので、きっちりさばいた肉を食べてもらい、そのおいしさを実感してもらうことも狩猟のイメージ向上に役立つ、
という思いから。

ご友人方の感想は、
解体のあとのご相伴を期待し参加した友人たちもへとへとになり「肉ってこんなに手間暇がかかるもんなんやなあ」ともらしていたものでした。
とのこと。

“動物の肉を食べるということは、かなりの労力を費やす一大事です。ありきたりな意見ですが、スーパーでパック詰めの肉が売られているのを当然と思い、その肉にかけられた労力を想像しなくなっている状況はおかしいと思います。誰かが育て、誰かがその命を奪い、解体して肉にしているのです。狩猟は残酷だと言う人がよくいますが、その動物に思いをはせず、お金だけ払い買って食べることも、僕からしたら残酷だと思います。”


千松さんは猟を通じ自然の命との関係と直になる暮らしをされているけれども、

猟と縁の薄い人も、千松さんのようには実感できなくても、
自然の中に少し入れば、様々な命が循環していること、
無限と思えるほど様々のものが無数に関わりあっていることは、
身体でわかるのではないかなと私は思う。野の草一本にも。



本の中で
アイヌの人々が行ってきたイオマンテ(熊送り)についても少しふれられていた。

ネットで見てみたところ、
皆で大切に育てた熊を殺して送るイオマンテの儀式は、
残酷・野蛮として1955年にほとんどが禁止された。
2007年52年ぶりに禁止の通達が撤回されたよう。


イオマンテ(イヨマンテ)は、
もちろん熊を殺し魂を熊(神)の国へ送るだけのものでなく、
魂を送ったあと熊の肉や革などを皆で分け合う。
送られた熊はまた肉と毛皮を土産に携え人間界に戻ってくる、
という考え方のもの

熊の肉や革を皆で分け合うことは熊(神)の力の分配だろう。
神道の祭礼の最後に神饌を皆でいただく共食の直会(なおらい)の意識と同じ。
民俗信仰が体系化され神道となる前の発想から展開した習俗だ。

この発想の植物版の一つは年末の松迎え。
年末に山からこれという松を伐ってきて各家に分けてまつる行事(神事)。
輝く木の命を分けてその生命力にあずかろうとする行為で、
やはり神聖な力、生命力の分配だ。


千松さんは自然も街も近い京都で、
自然のサイクルの中で猟をしながら現代の暮らしをされている方。
“そうした考えにふれると、人間が生態系の頂点に位置していると思いこみ、多くの動物を工場のような施設で飼育・肥大化させ、考えなしにむさぼり食べている現代のほうが野蛮に思えてきます。”
という感想は、命の実感に近い人のことばと思った。


“ この本を出してから、「プロの猟師にならないんですか?」と聞かれる。目指すところが違う。僕はあくまでも「自分で食べる肉は自分で責任をもって調達する」ために量をしているわけで、それを人に販売して商売にし始めたら本末転倒です。獲物である動物たちとの距離も多くなってしまうように思います。 森林生態系を守るためにシカの生息数を減らそう!などと言ってがんばって猟に精を出すのもあまり性に合いません。”


千松さんは、万葉集の時代なら「さつを」だー。
・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承
万葉集の時代、
獲物(さち 幸)をとる矢を「さつや」、獲物をとる人を「さつを」と言った。
「サチ」の「サ」は、神聖なものにつく接頭語。「チ」はチカラ。
「サチ」は神聖な生命力にあふれた力、転じて神聖な生命力に満ちているものを指した。
それが海のサチ、山のサチ。



誰のことばも借りていない、千松さんの文章。

誰かの人生を通って出てくる実感のあることば、
こうした人々の文や和歌にふれることはよろこびだ。

万葉集よりも古今集の方が歌は洗練されている。
それでも万葉集に実感の、自然の息が満ち満ちてる。

誰かの人生を通って出てくる実感のあることばは、
生き生きした命のように輝いている。

私はそういうことばを呼吸していたいと思う。





アボリジニの描いた犬。内臓まで含めて犬。
・2007-04-26 小さいほうき


・2010-09-22 ニュートラル
人は、外で遊べばいい。
辞書で見るより、葉っぱに触れることで、葉っぱを理解できる。
それは近道であり全体性を知ることになると思う。

匂いがする、手触りがある、
葉っぱに触れた時夜空は暗かった、風が吹いていた、ちぎった葉脈に露がついていた、
広い情報が一度に蓄えられる。
比較的偏らずその物の全体像を捉えられる。
神経細胞が結びつくようにそこから様々の情報は結びあい像を結んでいく。

言語や感情や脳みそやだけに頼るのは、偏った
永遠にたどり着くことのない遠回り。



食と香り、薬などの境のないことは、古くからある植物の用いられ方の典型。
・2011-02-24 中世芸能の発生 382 ビターオレンジ ダイダイ(橙)
柑橘のダイダイ(橙)。
食と香り、薬などの境のないことは、古くからある植物の用いられ方の典型。

現代では別のものと考えられることの多い食、香、薬等の境界は
時代をさかのぼるほどなくなる。

時代をさかのぼるほど、概念の境界は重なり、消えていく。
つまりこうした概念の境界がなかったということだ。

こうしたもののとらえかたは、教科書で学ぶことよりそのものの本質に近く思われる。
現代よりも、そのものの全体をひとつのものとしてとらえていたように思う。

五感というか、身体的経験によって
対象(この場合ならダイダイ=ビターオレンジ♪)の性質をとらえていたと思われる。

柑橘は世界中の人気者。
日本ではダイダイ(橙)と呼ばれるビターオレンジの木が、
たとえば(イタリア)で、
木や実の姿を愛され香りを愛され、味が親しまれ、利用されてきたことは、

学問や宗教以前の
自然と人の関係の実感の根を結ぶようなものに思われて、
おもしろいこと。





『日本霊異記』
・2009-05-25 中世芸能の発生 133 俗の土壌
私度僧、優婆塞、優婆夷、聖などによって、
民間に語られた物語(宗教説話)を集めたもので、
国家に禁じられた罪福の因果応報も説かれている。
優婆塞たちの布教、勧進に用いられた。

官の正式の僧でない僧尼たちが民衆の間に入り、
神仏の霊験や不思議を物語り、民間に仏教を広めた。

官の正式な仏教に接する機会のない当時の大多数の民衆と仏教の接点は、
“「経を負い、鉢を捧げて、食を街衢(がいく)の間に乞う」半僧半俗の僧尼から説経を聞くだけであった。”(『寺社縁起からお伽噺へ』五来重)

「経を負い、鉢を捧げて、食を街衢の間に乞う」半僧半俗の僧尼たちによって説かれた
民衆にとっての仏教は、
インドの正式な仏教でなく、
日本の民俗信仰と融合した日本化された仏教なのであって、

そのため、民間に伝わる説話やお伽噺あるいは芸能に、
仏教を民間に根付かせるための宗教者たちの工夫や
当時の民衆の宗教意識を見ることができる。


仏教と日本の民俗信仰のなじませ 習合
・2009-05-28 中世芸能の発生 136 優しい誤解
庶民信仰としての仏教は日本化された仏教、
さらにはこの人たちによって曲解された仏教なのだった。

その誤解は庶民信仰化と日本化のための誤解であって、

人々を作善勧進へいざなうために半僧半俗の彼らが語るものは、
厳密な教理の解説でなく、
英雄の話や、欲や愛憎の物語など、庶民の身に近い物語だった。

物語は節をもち、歌であり、舞であり、劇であり、絵がついて、
庶民に切実に求められ、さまざまな形で広まっていった。

半僧半俗の彼らは、中世芸能の担い手でもあった。






殺生と地獄 中世の鵜飼 今様歌 遊女
・2009-02-11 中世芸能の発生 67 船の上の遊女 お能『江口』
鵜飼はいとほしや 万劫年経る亀殺し 鵜の首を結ひ 現世はかくてもありぬべし 後生我が身をいかにせん
哀しい歌ね。

“ 鵜の餌に、万劫も生きる亀を殺し、鵜の首を結んで鮎を吐かせている。現世はそうしても過ごせようが、後生はその身をどうするのだろうか。亀を殺したり、鵜を酷使する鵜飼は来世には地獄に落ちるというのに、その生業に勤しむ鵜飼をいとおしい、と詠んでいる。”

同じく梁塵秘抄の遊女の歌。
淀河の底の深きに鮎の子の 鵜といふ鳥に背中食はれてきりきりめく いとほしや

鵜飼の罪の深さは、遊女自身の罪の深さに思われるのだろう。
遊女が船の上から見た、川底の、鵜に食われてきりきりもがく鮎の姿は、
自分自身にも思われたろう。

きっと我が身も、地獄に落ちるのでしょう。そう思ったのだろう。

遊女であることはあなた(遊女)の作った罪ではないのに。
いとおしや。



殺生の罪 鵜飼 お能
・2009-01-27 中世芸能の発生 56 お能『鵜飼』 非人
御贄を扱う鵜匠のような立場の人たちは、
自然の旺盛な命のこもる贄を首領にもたらす役目があって、
そういう贄を得て天皇の命が強化されるという考え方があった。

やがてそうした原始的呪術的な思想は衰え、
古代的神聖な天皇や神々の権威は薄まった。
民間にも広まった仏教が殺生を禁じていることからも、
鵜飼は殺生を生業とする業の深い人々と見られるようになった。



・2010-10-30 水の旅 宮滝 鵜飼
2000年くらいあるんじゃないかと言われる日本の鵜飼の歴史。
船に乗って漁を行うようになったのはごく最近のこと。

古い時代の鵜飼は、鵜匠が鵜をつなげた緒を持って
川沿いを行ったり来たりした。

神武天皇は丹生川上で厳瓮(いつへ)を川に沈め、
魚の浮き沈みで勝利を誓ったという話。(魚で占い→鮎)

ああ鵜飼は、古いな。とても古い。
鵜飼、鮎、河の魚をとる人々は特別なんだ。

鵜飼は古い時代と特に結びついた漁だったんだ。
古い時代の贄。古い時代のサチ。イノチの元。
だから古い民俗を脱しようとする時代、鵜飼は特別罪深いものにもなった。



万葉集。 山上憶良 沈痾自哀文
・2009-04-17 中世芸能の発生 111 弓箭の道
殺生を生業とする人よりも自分は罪深いのか。
庶民より一足早く仏教思想に触れている憶良は嘆く。


万葉集 山上憶良
・2010-08-22 中世芸能の発生 344 倭文(しつ) つまらないもの
新しい思想と逆に、古ぼけたつまらぬものになっていく。



漁の喜び  毎年訪れる季節への期待  万葉集  鵜飼  
・2009-09-06 毎年に鮎し走らば
自然の中で漁する喜びは、
毎年おとずれる季節の木の芽を採る喜びやめでたさに似ていたと思うから。
それがどうしてそれほど罪深いものとされてしまったものか。

家持のこの歌のみずみずしさ。

夏の鵜飼漁。
毎年訪れる季節への期待。
旅情。
肌に季節の川辺の風が吹くようだ。




狩猟は「栽培以前」ではないこと。
・2009-09-23 中世芸能の発生 203 狩猟 採取
鵜匠の山下純司さんがテレビで、
魚は育つものでなく、湧(わ)くものだったと、
とおっしゃっていた。

むかしむかしのこと。

栽培したり育てたりしない。

川の魚は、太陽と水と森の養分だけで、無限に湧いて、
我々(人)はそれをとって食べて生きた。

それがサチ、命の力でなくてなんだろう。

季節に木の芽が芽吹くように、河に魚が湧く。

現代の山下さんのひとことを通って今にいきいきとあらわれる感覚。

昔、山河のものを食べることは、そうしたサチをいただくこと。
命の力を身体にうつすことだった。


山河や海での狩猟や採取は、
栽培以前、でなく、

栽培とはちがう、
くりかえす自然の生命力に対する深い気持ちがあっただろう。


鵜匠の山下さんのことば。
実感のある人のことばに、感覚の口が開(あ)く。
まるで古代の芸能のようだ。





狩猟のある古来の民俗信仰から仏教へ  開山縁起に見る信仰の移行

万葉集の時代、獲物(さち 幸)をとる矢を「さつや」、獲物をとる人を「さつを」と言った。
「サチ」の「サ」は、神聖なものにつく接頭語。「チ」はチカラ(力)。
「サチ」は、神聖な生命力にあふれた力、転じて神聖な生命力に満ちているものを指した。
山海に産するもの。野生の獲物も。それが海のサチ、山のサチ。
・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承
白山、熊野、高野山、他々、
各地の寺院開山の縁起に、
土地の狩人がその場所を知り、
聖者(僧)を案内したという伝承が数多くある。

その狩人たちは、古来の民俗信仰の、
その山の神の元でサチに連なっていた人々を指す。

したがってこれら開山伝説のパターンは、
自然信仰の濃い民俗信仰に
仏教が重なっていく経緯が表されていると思う。




命の分配 共食 直会 植物版

松迎え(松ばやし) 1
・2009-12-10 中世芸能の発生 262 はやし 分霊
山からこれという木(松)を伐ってきて、各家に分けてまつる年末の行事(神事)。
輝く木の命を分け、その生命力にあずかろうとする行為全体のこと。

この山からこれという一本の木を伐って、はやして(切り分けて)各家に持ち帰るのは、
日本の神々分霊という考えかたと根が同じ。
分けても減らない。分けて増える。
生命力の増殖。


松迎え(松ばやし)2   笛 囃子
・2010-05-14 中世芸能の発生 309 はやし はやす
年末に山からこれという木を伐ってきて各家に分けてまつる行事(神事)は、
木を伐ることも、その木を運ぶ曳き物の行列も楽器や声楽や行進や舞踊も、
檀那家の屋敷に立てての神事一連を含めて
「はやす」「はやし」と考えられていた。

木の命を分けてその生命力にあずかる一連の行為全体が「はやす」「はやし」。

抽象的でない。
旺盛な木の命をみんなで分けて
旺盛な木の生命力にあずかろうとするごくごく素朴な感覚から展開したものだ。

先生の活気につられてかぶれて笛が吹けちゃうようなことは、はやし。
先生方って、はやす方々なのね、と思う。
芸能の方々。


松迎え(松ばやし)3   囃子 はやし
・2007-04-18 はやし
もともと「はやす」は、伐ること。
「はなす」「はがす」などと一類の語で、分裂させる義。
「ふやす」と同じく、命の分裂と増殖を意味す。
きること、はなすことは、ふえること。

年末の「松ばやし」の「はやす」「はやし」は、
輝く木の命を分け、その生命力にあずかる行為全体を指す。

「はやす」は「生やす」と結んでる。
「栄やす」を内包する。
そして「囃す」「映やす」へ。





くりかえし新しくなってつづいてく。昔の人の命の実感。
遷都・遷宮、輪廻の思想。
・2011-02-16 中世芸能の発生 380 輪廻 遷宮 遷都
古い森は、内で絶えず死と再生をくりかえし更新している、常に新しい森だ。

昔の人が、春夏秋冬をくりかえしめぐる季節に、死と再生、イノチの継続を見、
日月の周期にくりかえすイノチとイノチの継続を見ていた。

草木や動物や、大きいものにも小さいものにも、
くりかえす生と死の循環を見ていた。

現代の日本人は、
体の細胞は絶えず死んで生まれてをくりかえしながら
その人が保たれていることを学校などで習う。

細胞のことなど知らない昔の人が、
生と死をくりかえしてつづく命全体の循環を知っていたことの慧眼と、
自然の全体性の実感を思う。

宗教の輪廻の思想は、
こうした命の循環を宗教的に解釈したものではないかと思う。

遷宮、古い時代の遷都も。





・2013-02-08 中世芸能の発生 452 狩りという行為の神聖 狩人 武士 弓矢




つづく
# by moriheiku | 2013-02-06 08:00 | 歴史と旅

役目と言う人

私は人格神を中心において物事を信じることはないし、

呪術、宗教、神仏の概念は、
自然をベースに人の願望とともに展開してきた、と思ってる人間だ。


この日記は、個人的に、
中世芸能が発生するまでの日本の思想の変遷を、
思想の天気図の中に立っているようにたどろうとしているだけのものだけど、

信仰と芸能がが分離しない時代のことだから、霊や神、呪術などのことばが出てくる。

そのためスピリチュアル好きな人が勘違いして
近づいて来られることがある。


歴史を知らないところからひとつひとつ歴史をたどりはじめたから、
内容は幼稚で誤りも多い。もーつっこみどころ満載~~~><。
どうもあやしい上、
文章のつたなさから勘違いされることもあることは自分でもわかるので、
自分にがっかりする。
また知識を得る道をよく知らず、もっぱら実感でたどるという道を行くんだけど、
その論理的でないぬるさと、ものすっごいいたらなさすぎなところが、
スピリチュアル好きな人にとっての乗り込みやすさになるかもしれない。


ただ申し上げておきたいと思うのは、
私はいきなり人格神を中心において物事を信じることはないし、
呪術、宗教、神仏の概念は、
自然の実感をベースに、
人の願望とともに複雑化して展開したものだと思ってる人間だということ。

同時に、そこに見える人々の切実な願いの歴史を、
いとおしいもののように大切に思っている。


よくスピリチュアル好きな方々が、
「私が行くと天気になる」「どこそこに呼ばれた」
「霊能力がある」「特別なお役目がある」等の台詞をおっしゃる。

全てとは言わないけどほとんど場合その台詞には
自分は特別だ、特別と思ってほしいという心情が重なっている。

自分に特別な才能があったら、と願うことは誰でもあると思うけど、
こうしたスピリチュアル好きな方々に対しては素朴に、

自分を特別だと思いたい、自分を特別と思ってもらいたい、という心を中心にして、
神仏や呪術などに寄りかかって、
神仏を自分を認めるための道具のようにしていることには疑問はないのかなと思う。


「霊能力がある」「特別なお役目がある」「どこそこに呼ばれた」
など言うことで人にどう思ってもらいたいのか不思議だ。
すごい、特別だと崇拝されたいのかな。
そう言うことで、本当にそう思ってもらえるものだろうか。


私自身はこの瞬間も何かの判断をつづけながら生きてる人間だし、
すてきなことには、縁があったらいいな♪と思うものから、
物事を自分の思いつく範囲で自分に都合の良く解釈したい心もわかるけど。

「私が外に出たときだけ晴れる」とかスピリチュアル好きの方々のおっしゃる、
物事を自分の思う範囲で自分に都合よく解釈することの過剰さは、
いったいどういうことだろうと思ってしまう。
(ちょっとくらい言うのは愛嬌としても)

スピリチュアル好きの方の言葉を聞くと、たいてい、
物事ってそんなに狭い範囲で判断できるようなものなのかな?と、
思ってしまう。

またそれは
様々のはるかな全体性や関係性をあまりにも軽視して、
自分を中心にして自分だけを信じている傲慢のように
私には聞こえることがある。


出来事が重なってある場所にたどり着いた時、
呼ばれた、とか思うことはあるのかもしれないけれど、
どうであれ私たちのできることは、今この瞬間を生きることだけだと思う。

たとえば占いは楽しいけど。
仮にその占いが正しいとしても、それがどのように発現するか誰にもわからない。
そして仮に占いで未来に起きる出来事がひとつわかったとしても、
心を最終的に救うものは占いに出た結果じゃない。

あるできごとを良い方向にするのも悪い方向にするのも占いじゃないし、
そもそもある出来事自体は良い悪いの意味も持たない。
ある出来事は無数に関連するものごとのひとつだから、
占いの結果ひとつで何かを判断し深刻に一喜一憂することは、
やはり自分の考えの及ばないはるかな関係性をあまりにも無視していることだと思う。
私たちのできることは今この瞬間瞬間を生きることだけだ。


スピリチュアル好きな方の全員とは思っていないけれど、
自分を特別と思ってもらいため自分を特別と思いたいために
神仏に寄りかかって、
「霊能力がある」「私が行くと天気になる」「どこそこに呼ばれた」
「特別なお役目がある」等々おっしゃる方は、
本心としては、それで?としかなかなか言えない。

あなたはなんのためにそのことばをおっしゃっているのかと。
神仏や呪術そのものを自分のよりどころにしている人の何を見出してほしいというのだろう。


やっぱり自分がどうこうより、
実際に、身の回り物にやさしくしている人や、
周囲の人たちの手助けをしている人たちを
すばらしいと思うし、
やさしい人、楽しい人、繊細なひと、たくましい人、カラフルな人、
神仏や呪術そのものを自分のよりどころにせず、
自分を努力している人と私は親しくなりたいと思ってます。
# by moriheiku | 2013-02-05 08:00 | つれづれ

椿




サザンカの香りは褪せて、ぼやけた。


凍てつく中にふと漂うロウバイの花の香りも、もう新鮮でなくなって、

メジロ(と私)は、白い梅の香りを待っている。



あの椿の木は、その常緑の葉の数ほど、
花のつぼみがついている。







いつもこの時期に
・2012-01-20 中世芸能の発生 421 若水 渚に寄せる水
東大寺 お水取 修二会と椿。
# by moriheiku | 2013-01-19 08:00 | つれづれ

冬の底



新暦の正月を数日過ぎれば、光はまぶしく変わる。



冬が底をついて、山の匂いは枯れてきた。

春との境が近い。




マリーナを出たディンギーが数隻、海面の光の中を走っている。


風はある。白波が見える。
# by moriheiku | 2013-01-18 08:00 | つれづれ

プール



海辺のプールがきらきら光っている。

雪の名残の、水の反射か。



指先が痛いように冷たい。
# by moriheiku | 2013-01-17 08:00 | つれづれ