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動物学者へのインタビュー



動物学者さんとの対談を見ていた。

対談の終りのほう、ペットについての話になった。

ペットの延命処置について動物学者さんは、
死を受け入れることも大事だということをおっしゃった。

対して、対談のもうおひとかたは、
ペットも家族なんだから、
家族が死んでしまうとなれば延命を願うのは当然ではないですか、
とそれまでより強くおっしゃった。

動物学者さんはすぐに、それは正しいです、とおっしゃって肯定し、
それまでより弱く微笑んだ。


動物の体の中に進化の痕跡を見続ける仕事をされてきたその動物学者さんは、
何十年も常に動物の死と対面してきた。

動物学者さんは、
ひとつの死も全体の命の中のひとつなのだという意味のことを
おっしゃりたかったのではなかったかな。


しかしそういう考え方はたいてい、口にのぼらせた途端、

人間的で愛情に満ちた否定することを許さない正義のような、
延命を願う人の気持ちに強く反論されて、気配を消す。


私はある人の命が助かることを強く願ったことがある。
その場において、どうしても人は願う。

けれど、当事者や本人にとって、時には理不尽な命の終りも、
その命が終わらないことだけが正義なのではなく、

個々の生死も
これまでもはるかにつづいてきたこれからもつづいていく命全体のひとつなのだ、と、
無数に関係し合っている命全体のひとつだ、という実際を見ることは、
そこまで否定、遮断されることだろうかと思う。


対談の動物学者さんが本当はどう思っていらしたかはわからない。
ただ命に対する考え方の齟齬が現れる場面に多く立ち会ってこられただろう、
と同時に、こうした命に対する考え方に対する遮断と、
埋まることのないあきらめもたくさん経験してこられたんだろう。と私は思った。


現在の日本人にとって、
対談のお相手のおっしゃったことは、正しい感覚なんだろう。
人間的で正義の感覚。しかし、



死を認めることは、無数の、個々の生死を含む命全体を認めること。
それは森羅万象の、命全体に対する信頼なのだ。

それははるかに関わりあう森羅万象の命に対する信頼であり、
同時に救いなのだと、

このごくシンプルなたったそれだけのことが、伝わらないことはふしぎ。



医学の進歩は命の綱でたくさんの悲劇を救ってきた。
その重要さと同じ量で、死を受け入れることの思想が話されていいように思う。
その現実の思想を常に見ていること。心に置いておくこと。


たとえば
もうどうにもならない目の前の一つの命の前に立った時、
私たちの心をほんとうに救うのは、その命をつなぎとめる奇跡でなく、
その命もまた私たちの想像の及ばない無数の関係性と全体性の中のひとつだという
現実の自覚ではないだろうか。
それは、ひとつの覚悟だ。




自分や誰かの死も含む、全体の命を受け入れること。
それは我の近視眼的な判断にとどまらない、遠い係わりの中にあることの強い自覚であり、
生き物に限らない森羅万象の命全体のありようへの信頼なのだ。

この信頼とはもちろん大きな何かが誰かの命を救ってくれるとか、
そういう信頼(盲信)じゃない。
それじゃ我に固執しているのとかわらない。

またこの自覚は、宗教に時々ある個人として生まれ変わってまた生きるから、
という慰め(諌め)とも逆のことだ。


しかしながら、こうした覚悟と自覚は、
こだわりから自由にあること、
執着から離れることが1心の平安へつながるという
遠い昔に生きていた仏教の考え方と似ている。


人もはるかに関係しあってきた自然の一部であるという現実に、
人も救われる。



原始的な、素朴な体感、自然発生的実感が種となり、
経験は小さな思想を生む。

それは人の願望と、他の思想と混ざり(習合)つつ分岐・展開していく。

その過程で高度に磨かれた抽象的な思想の実をつけていく。


私は長く、思想に通底するものとそこからの展開を感じる遊びをしてる。ずっと。







他力本願

・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-27 他力本願
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること

他力本願は、
よく誤用されているように
人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない。

自分の人生を生きることの否定でもない。

他力本願は、
自分の運命は、自分の判断の範疇をはるかにこえた
めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。

それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。




突端に咲いた花
・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願
・2011-01-10 中世芸能の発生 377 突端の花
宗祖の思想の誕生からその宗派が生まれた、
スタートが宗祖で、そこから思想が生まれたという印象だ。

しかし人々の暮らしをなぞっていく時、
その思想は、
時代の、無数の人々のありかたの、突端に咲いたものだと知る。

時代の無数の人々の中にうずまき高まるものが、
宗祖を通して開く。

それは、裂けた傷口のようであり、
岩の突端に咲いた花にも見える。

釈迦や、他力本願を言った浄土教(浄土真宗)の親鸞聖人のように、
無数の人々と、宗教者たちの人生を経て、思考は突きつめられ、
論理的な救いの思想を持つ宗教(宗派)という実が結ばれてきたのだと思う。




日本人の命の概念。日本の信仰の流れ。
・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって昔の日本では、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚がやがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、
岩にも木にも仏がいるという理解になっていった。
日本の信仰の流れ。




・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。
みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。
それはもちろん死というものもあるんですけど、
なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、
そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」

そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、
それが生き物としての人間の表現、

と、おっしゃって、
そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と植物学者の中村さんは思われたそうだ。

日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。

それは個人の教祖や教義など、つけようもない。

体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないものだ。

中世芸能が生まれるまでの、
芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、
自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。





・2012-12-02 関係性
人は刻々と無数の判断をしながら生きる。
どんな人も自分にとって良いと思う判断をしながら人生を生きる。
何も判断しない生き方はない。

判断したことを気づかないほどの小さなことにせよ大きなことにせよ、
刻々と判断しながら人は生きる。

自分が想像できるものは、
無数の関係性、無数の可能性の中のひとつなのだと自覚しても、

近くにある心配や痛みは減らないし、
遭遇した悲しみが胸から消えることはない。

それでも、
我々は自分の判断の及ばない
無数の関係性と全体性の中のひとつなのだという現実の自覚は、

あるいは何かの判断を下した人にとっても、
何かが判断できず苦しんだ人にとっても、

今自分の考えだけを信じて苦しむぎりぎりの人の心を、
一瞬でも逃す、救いになりはしないかと思う。

平和や生活の向上や医学の進歩で救われる命の価値と同様に、
それでも救われない命のそばにある人のぎりぎりの心を、
自然の関係性という事実の実感は、救いはしないかと、私は思う。






・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷
私達は、自分達の生きる時代におけるある物の意味を通して、

いつもその深い底に、本来の性質に、
流れつづけている太い水流に、

常に触れているのではないだろうか。

そこにふれて、心身は動く。






身体に実感をよぶこと。

身体の感覚を起こすこと。

歴史をたどって
自然を身体の中に起こす
遊びだ。
・2009-03-01 草の息

私はただ、ずっと、それだけをしている。
by moriheiku | 2012-11-30 08:00 | 歴史と旅

音に対して


メディアを通して断片的に子供時代から知っている
樫本大進さんや五嶋みどりさんのような方々。

大きく飛び級されたり、同世代の多くの子供たちとちがう
育ち方をされてきたと思うけれども、

それぞれの美しい人格が形作られて、
それぞれの鳴らす豊かな音を聞くと、

敬虔な気持ちになる。

周囲と本人が注いできたものと、
そこから生まれた音に対して。
by moriheiku | 2012-11-29 08:00 | 音と笛のまわり

秘密の花園 弦楽器



音はスモーキーで、この人の声に似ている。
もっとキレてほしい(キレがほしい)、もっと踊るような音がほしい、
そこで幅がほしい、なーんて思うけれども、
この人の今の音なんだろう。

円熟しない音。
技巧とは別の、精神の拙さの苑の、
手入れのない草むらの中で咲きはじめるつぼみのような、音をしている。
by moriheiku | 2012-11-28 08:00 | 音と笛のまわり

中世芸能の発生 448 花の思想 いけばな




つづき

いけばなは子供の頃から。
いくつかしてきた(している)お稽古事の中で一番長い。


人(日本人)が花を手にする、花を奉げる、花を贈るという行為が
どこからきているか。

花にまつわる人の行為はどのように変容してきたかを見る時
( いけばなもその変容の中のあらわれのひとつ )、

やはりそれは、音や絵、舞踊、彫刻や、習俗民俗や信仰と同じ経過を
たどっていることがわかる。



万葉集 第一巻 巻頭の歌。  ※ 後で記載
この歌がはじめにおかれていることは、
あらゆる意味でまことにこの歌集にふさわしい。

春の野に出て、活き活きした植物を摘む行為は、宮廷(国)の行事にもなった。

この時代、活き活きした草花(植物)を摘むこと、誰かに捧げることは、
当時の人々が自然の生き生きした草花の中に見ていた生命力を取り入れること、
また相手に生き生きした命の力を捧げることだった。

万葉の時代には、花を贈ることには、
生き生きした花の命が相手に伝染(うつ)りその人の命が活気づくように、という
願いの伴ったまじない、呪術的意識があった。

ことほぎ、祝福(芸能)発生の根元にあるものだ。
こうした感覚に始まった習俗は、次第に様式化していく。


生き生きしたものに近づくとこちらも生き生きする。
ぴちぴちしたものを食べるとぴちぴちする気がする。
科学で物事を説明する現代人でも理解できる身体の実感に基づく素朴な呪的行為は、
人の願いを伴って複雑に展開した。

春に力のこもったみずみずしい草を摘むという、
万葉の時代よりもっと古い時代からの命の願いに満ちたこの素朴な習俗も、
他の諸々と同じように、大陸の春に薬草を摘む行事の意味などを重ね、習合しつつ、
宮廷の儀式にも整えられていった。




万葉集歌にみられるように、この時代すでに、
仏教の我欲を脱することで悩み苦しみから解放される等、
呪術とは異なる抽象的で洗練された高度な思想が入ってきていた。

しかしやはり万葉集歌にも見えるように、
古来広く行われてきた、
何かにある生命力や性質を別の何かに移そうとする
素朴で、切実で、ある意味未開の実感的呪術行為は、
いまだ人々の暮らしの中の一部だった。


以降も、実感にもとづく呪術行為は
抽象的思想に置き換わらないまま芯に近いところにありつづける。
抽象的で高度な思想の衣を幾重にもまとって、
人の暮らしの底に流れている。
(子供に強い名をつけて強くに育ってほしいと願ったり、
優しい響きの名を与えて、優しい子になりますようにと願いを託すのも、そのひとつ。
これは現代では呪術という意識されないが、かつての呪術敵意識と同列のことだ)


春の野で草花を摘む行為の展開は、
たとえば仏塔、たとえば作仏、たとえば正月の修正会の後戸の芸能、たとえば修験道、他、
または宗教に限らない諸文化の展開のしかたと同じだ。

・2010-05-05 中世芸能の発生 304 仏塔 心柱 刹柱
・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元

後戸の芸能  呪術から芸能へ。  呪師 猿楽 東大寺 興福寺 
・2010-06-15 中世芸能の発生 324 後戸 後堂 しんとくまる
修正会 修二会 東大寺 呪師の中に残る仏教より前の古い民俗



実感の上に様々の概念をひたすら重ねていく。
前を捨て去らずにひたすら重ね、習合していく。
典型的な日本的思考。
(で案外重ねていった表面ばっかに気を取られ、
そちらばかりに意味を持たせて、
肝心の、底に流れつづけている水流を忘れてしまう、ってとこも、
典型的な展開だったりする
・2009-04-20 中世芸能の発生 114 中世人にとっての故実
故実にばかり気を取られ・・。



身体的実感に、渡来の道教などの思想が重なり、
陰陽の思想を重ね、仏教を重ね、
また土着の周囲の似た意味、似た性質のものを、
願いとともにひたすら重ねていった。
・2009-10-28 中世芸能の発生 233 ふくらすずめ
おせち料理



民俗は植物や生物のようにあるということが思われる。

と同時に、

昔の人たちがそうした行為をやめずにずっとしてきた、
絶えない動機、
ことばにならない切実さが心を打つ。








日本の民俗、ないし信仰のベースは、
論理的、哲学的、体系的、抽象的な思想にあるのでなく、
ある意味原始的ともいえる自然とその実感、自然との共感に基づいている。
素朴な類感の世界だ。

それは発達展開した思想を重ねた後世において、一見見えなくなっているようでも、
消滅することなく民俗の底に生きている。
イノチに近い部分だから。普遍性をもって。




・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷
長い時代いつもありつづけた物は、時代によってそれの持つ意味が変わる。

ある時代におけるその物の意味が、
その時代を生きる人にとっての真実だと思う。

けど、その物のありようを見るとき、

その物のもともとの性質が、
時代時代のその物の意味を生んでいるように見える。




万葉の時代になるとすでに、
人の願望と呼応し呪術は複雑に展開していたけれども、
万葉集歌ひとつにも容易に見いだせるように、
底に流れるものに触れている、そこに触れて心身は動く。





古代における神聖とは。生命力の盛んであること。
古い詞章における神聖を表す語とそれが冠されたことば。
・2010-03-16 中世芸能の発生 297 土地の木
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは





万葉集の時代 花を贈ること。大伴家持。
・2010-02-11  中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花






いけばな 池坊 昔の人が花にみていたもの。
・2012-03-17 中世芸能の発生 431 春の野
万葉人が、うつくしいとは、色や形の面白さでなく
それぞれの姿の中に見出される生きようとしているそのエネルギーを
うつくしいと捉えていたこと。

日本人は自然に命を寄せ重ねてきた。
観念を重ねたのでなく具体的な、身体の、実感の重なり。

池坊さんは、植物にふれることで、
古い時代の日本人の感触を共有されてきたかたなのだろうと思った。




植物学者 花を植えるという行動 万葉集
・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。
みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。
それはもちろん死というものもあるんですけど、
なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、
そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」

そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、
それが生き物としての人間の表現、

と、おっしゃって、
そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。

日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。


それは個人の教祖や教義など、つけようもない。

体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないものだ。


中世芸能が生まれるまでの、
芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、

自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。







意味を重ねていく思考。変遷の例。

うんと古い時代、
海の彼方にイノチの湧くところイノチの往くところがあると考えられていた。

時代の経過とともに、
土地の風土と生活に密着したそれに神仙思想や神話や仏教思想が重ねられ、
それぞれの物語(神話、お伽噺おとぎばなし、寺社縁起、説話、伝説)が形成されていった。

たとえば、

渚の神聖に見る  海の彼方に対する思想とその変遷
・2012-01-20 中世芸能の発生 421 若水 渚に寄せる水
・2012-01-21 中世芸能の発生 422 渚の砂 うぶすな 産砂 産土
・2012-01-22 中世芸能の発生 423 白砂 白沙 お白州
海の彼方から常世の水の寄せる渚は、
いのちの行くところ、来るところ。
この世とこの世でないところとの境となる強い力のある場所、
つまり神聖な場所と考えられていた。

渚の中でも印象的な白い浜の白砂は、やがて渚にある神聖な力の象徴とみられるようになって、、

例えば古墳の表面に敷きつめられた白い小礫、
神(神社)の庭、天皇の宮や、高位の人の庭に敷かれた白い砂や小礫、
おなじみ銀閣寺の砂庭や、竜安寺のような石庭の砂につながっていく。
奉行所のおしらす(お白州)も、こうした流れの末のものと思う。





たとえば、

古墳に見える 海の彼方に対する思想とその変遷
・2011-08-16 中世芸能の発生 409 船の棺


たとえば海、

ある時代には海の彼方はイノチのいくところ、イノチの湧きつづけるところ、というイメージが持たれていた。
それが時代が下ると、神仙思想、仏教思想が重なって、
大阪、四天王寺の西門から、難波の海より西の彼方に沈む夕日を見て
西方浄土を想う日想観が盛んになる。

海の彼方の常世(とこよ)は、
いつしか、仏教の西の海の彼方の浄土の意味に姿を変えて、
平安時代の人々は、難波の西の海に、命の安らぐ浄土を見ていた。

浦島太郎。補陀落渡海。平家物語。
二位の尼が幼い安徳天皇を抱き、
「波の下にも都のさぶろふぞ(波の下にも都がございます)」と壇ノ浦で波に沈んだ
・2009-08-26 中世芸能の発生 190 他界 浄土
・2009-08-27 中世芸能の発生 191 三途の川



・2011-08-15 中世芸能の発生 407 直越の道 難波の海 常世 日想観




・2011-08-08 中世芸能の発生 405 健全なボディーを作ること




つづく
by moriheiku | 2012-11-27 08:00 | 歴史と旅

気風



全体として、こういう流れになってる、とおっしゃって、
ぱっと波形のくりかえしのような仕草を腕でされた。


あっ、そういうことか。

と、よくわからないけど感動した。

おっしゃったことが頭の中からこぼれないように
すごく気をつけて帰ったけど、
帰ってきたらこぼれていた。



呂、

中、

干(甲)、

干(甲)ノ中、

って何、とずっと思ってた。
ここでの読み方もよくわからないままだった。

呂(りょ)が、音律のことばの呂(りょ)のことだと聞いたとたん、
はっとした。

そうなんだ!


それで、
干(かん)で高くなって、
干(かん)の中(ちゅう)で
高くなった干(かん)から中(ちゅう)の高さに低くなってきて、
また呂になって、中になって、干になって、干の中になって、
っていうワンセットで高い低いのある一つの流れになってる、ということ。

そうか!

呂、中、干(甲)の波形のような流れをくりかえして、
段の区切りがきて、おろしや直りがあって、また呂、中、干をくりかえすというような
曲全体の流れになっているということをうかがった。(様な気がする・・ちがったかな)


この呂が、雅楽や声明と類する音律の呂のことだと、
どうして私ずっと気づかなかったんだろう。
ほんとに自分にびっくりだ。

呂が音律の呂となれば、
干(甲)は、甲高いって言うから、高い音のイメージが湧くし。

するするするっとわからなかったこといくつかがひとつにつながった感じ。



それまで呂、中、干は、私にとっては唱歌の本の中に時々書いてあるただの印だった。
ずぶの素人の私が気を付けるのは指の数字だけで、
これまで何もかかわりなく過ぎてきた呂、中、干の記号は、
実はワンセットで一つの波形で、曲全体にはそういう流れがあるんだ。

日本人の意識の流れが音に聞こえるような新鮮さ。
わあー。




悪いところはこちらから言うので聞くなとおっしゃったので、
何も聞けなかった。

合っても合わなくてもそのまま進み、
合っているのかいないのかもわからないまま、
ただ棒のように指の数字の音を吹くことだけを心がけてきた。

誰かのまねをすることに何の意味もない、とのことで、
何がまねになるのかそうじゃないのか私にはわからなくて、
誰のまねにもならないように、
ただ棒のように指の数字の音を吹くことだけを心がけてすぎてきた。



あたし、わからないことを聞いてもいい場所に来たんだ。

ここではどういう曲か知ろうとしてもいいんだ。
ここでは曲を聞いてみてもいいし、
誰かのメロディーを聞いていいんだ。と思った。



あたしはほんとにわからなくて。
呂、中、干の呂が、これまで邦楽の音律の呂と気づかなかったくらい、
信じられないくらいにぶい。


邦楽界では、、呂、中、干って、
きっとドレミファソラシドくらいあたりまえすぎることなのでしょう。

だれかにとってあたりまえのことでも、
私には空気が入れかわるくらい新鮮なこと。
うれしいな。

私にとっては、
ヘレンケラーが、
ウォーターという記号がこの手に流れる水のことだって、はじめて知った時の、
プチ版くらいのことだった。



聞いたことをこぼさないように帰ったけど、その日は頭からこぼれてしまった。
次の時、またうかがってもいいかおたずねした。
説明を録音してもいいって。
録音時間は1分半だった。



以前そこでは聞いてはいけないということもわからなくて、
呂、中、干とは何ですかとおたずねして答えはなかった。

そこから5、6年くらい。
ずっと知りたいと思ってた。

自分をばかだと思った。

こちらに来て1分半の説明を聞くまでに5、6年もかかった。

そう思うと悲しくて、地下鉄に乗るとき涙がでた。



自分の下手さが自分の耳につらい。
でもこれからは私でも、もしかしたらほんの少しづつでも上達できるかも。
私の小さな希望の芽。




・2012-09-12 中世芸能の発生 446 三つの瀬 三途(さんず)の川 垢離 禊
・2012-09-13 中世芸能の発生 447 一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬 滝 こぶ取りの翁

各地に一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬の地名が残っている。

この本では、静岡県藤枝市の「宇嶺(うとうげ)の滝」は、
川(山)を上流にさかのぼりながら
一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬と垢離(こり)・禊(みそぎ)をくり返した最後の、
禊や修行や祈願をしめくくった滝と考えられ、

「宇嶺(うとうげ)の滝」という名については、
禊を完結させしめくくる「打ち上げの滝」の音転であると結論されている。

かつて祈願や行の方法として
一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬と水で垢離、禊をくり返し行を完成させたのだが。
私が興味深く思ったのは、
この本に掲載されている具体的な事例よりむしろ、
一ノ瀬 → 二ノ瀬 → 三ノ瀬 → 打ち上げ 
と至る心象についてだ。

邦楽の鳴り物の、お囃子の、
初段、二段、三段、と上ってきて、打ち上げ留めで留める心象は、

一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬・・・と禊(みそぎ)水垢離(こり)をくり返し、
禊と行を完成させる高揚感と、
その心象は全く無縁ではないのではと思った。



人が建築や仏像の年代がわかること。
それは資料や酸素量で測定してわかることのほかに、見た目でわかる。

学術的に具体的に説明できなくても、
誰の作だとわかったり、
時代が鎌倉時代っぽいとか天平時代っぽいとわかるのは、

その時代のあらわれた造形の集まりとして、
その時代の気風がその全体に現れているからで、

まあ普通にアメリカっぽいとか、イタリアっぽいとか、インドっぽいとか、
エジプトっぽい、ブラジルっぽい。フランス的だとかそういうのを同じことだ。

音についても、バロックということばを知らなくても、
たとえばバロック音楽の共通性をわかったり、
レゲエやボサノバやジャズ、ロックミュージック、雅楽の違いをわかったりする。

そのように音にももちろん気風はあって、
音に聞く初段、二段、三弾と繰りかす心象は、
一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬と繰り返す心象と融通するものがある。






昔の人にとっての、くりかえすことの意味


遷宮  季節  細胞  くりかえす命への視点
・2011-02-16 中世芸能の発生 380 輪廻 遷宮 遷都

古い森は、内で絶えず死と再生をくりかえし更新している、常に新しい森だ。

昔の人が、春夏秋冬をくりかえしめぐる季節に、死と再生、イノチの継続を見、
日月の周期にくりかえすイノチとイノチの継続を見ていた。
草木や動物や、大きいものにも小さいものにも、くりかえす生と死の循環を見ていた。

現代の日本人は、
体の細胞は絶えず死んで生まれてをくりかえしながら
その人が保たれていることを学校などで習う。

細胞のことなど知らない昔の人が、
生と死をくりかえしてつづく命全体の循環を知っていたことの慧眼と、
自然の全体性の実感を思う。


輪廻の思想は、こうした命の循環を
宗教的に解釈したものではないかと思う。

遷宮、古い時代の遷都も。




・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ ヨミ トコヨ ヨム ヨゴト コヨミ

「よ」 ということば。
こうして並べて一度に見るとわかりやすいと思うけど、

世 代 夜 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ) 他・・

古くからの「よ」の音に感じられるのは「時」。

ただ「時間」のことでなく、
命とむすびついている「時」の感じ。

古い和歌や詞章に使われた「よ」には、
営々と栄えつづける時のイメージが重なっている。

ずいぶん昔の「よ」は、
現代のように時刻や、刻々と流れ刻まれる時間でない。

繰りかえし再生しつづける永遠の時のイメージで、

それは「命」のことだ。








古い芸能につらぬかれる、死と再生の物語
・2009-07-07 中世芸能の発生 166 死と再生の物語


・2008-12-31 中世芸能の発生 47 谷行(たにこう)
山の修行。命の再生。生まれ変わって山から出てくるという修験道。
お能の谷行にあらわれたそれ以前の思想と民俗。






しづのをだまきくりかえし  ことほぎ  命のくりかえし 再生への祝福と呪術
・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし



古い時代の芸能。芸能者の役割。  ヨム人々 ホグ人々 芸能 ヨゴト 命の再生 和歌
・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能





中性時点で芸能のはじめはアメノウズメノミコトの神楽と言われたこと。
天岩屋伝説  太陽の復活 命の再生
・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽
by moriheiku | 2012-11-26 08:00 | 音と笛のまわり

枯葉




近くの高校の並木の葉が、風に運ばれてベランダに落ちてる。

しばらく赤や黄のつやの鮮やかな葉だったけど、
ここのところはもう枯葉色。数も少なくなった。
by moriheiku | 2012-11-25 08:00 | つれづれ

遠い祈り




今年はどの花も十日から二週間近くも遅れたのだ。

朝、ベランダの鉢の緑に水をやりながら、
こうしてつつがなく季節がくりかえすことにただ安堵する。

遠い祈りに似ている。
by moriheiku | 2012-11-24 08:00 | つれづれ

土地が染める



菊の花が、ベランダのバラの鉢に咲いた。 

植木鉢に知らない芽が出てきたら、
どんな植物なのか見るためそのまま一度は育てる。

今年バラの鉢に出てきた知らない芽。数センチ。
菊の葉のような形に見えた。

イネ科の雑草が多いけど、菊??

20センチに伸びた頃には、どう見てもキク科の典型的な茎と葉で、
30~40センチくらいになると、茎の先にどう見ても菊の蕾、がついた。

咲いた花は一重、立派で生花店で売っているものと遜色ない。
直径は小菊より大きくマーガレット大。
色は、白色の花一色のものと、紫寄りの紅色一色のものがある。
一株で二色の花。


和菊か洋菊かはわかんないけど、見覚えがある。
だってだってこの辺りのお家の庭先に、今たっぷり咲いている菊だから。

庭で栽培されているのでなく、あちこちのお庭と道路の境あたりに自生して、
こんもり茂り花を咲かせている菊。

で、この辺りの道端の祠の神仏の前の花入れに挿してあったりする花だから。

園芸品種の菊だったかもしれないけど、この一帯ですでに野菊。


小鳥に付いて種がベランダに運ばれたのかな。

前に鉢に生えたキク科の雑草は綿毛のような種をつけたから、
この菊も種が風に乗って、ここまで上がってきたかも。


ここ周辺に住んでる野良猫の多くは白と黒のツートーン。みんな親戚か。

土地を染める。小さな風土。
ベランダの鉢も染まる。私も染まる。自然はすごいね。




いくつかしてきた(している)お稽古事の中で、
いけばなは子供の頃からだから、一番長い。

でも私は、菊は茎がそう好みではないため、
自分からは積極的に使ってはこなかった。

菊は日本人がよく知ってる花なのに。
菊は挿し木(挿し芽)で簡単に増やすことができると聞いたことがあったけど、
スミレのように種で増えるんだ、って、ベランダのキク科の雑草を見て、
割と最近知った。
by moriheiku | 2012-11-23 08:00 | つれづれ

青森



遠くから来た紅玉リンゴの大きな箱。
玄関からえいっとキッチンまで運んだ。
蓋を開けたら、冷えた空気とリンゴの香りの風が出てきた。
by moriheiku | 2012-11-22 08:00 | つれづれ

キーボード ことば

手で文字を書けと。
文字をキーで打つのでなく。

手で文字を書くことの大切さをよく聞く。

それがとても大切なことは、私にもよくわかるけど。


キーボードでことばを打つのは、ピアノを弾くのに似ている。

ことばをキーボードで打つのは、

ペンでで文字を書く時にするように、
文字を美しくはらったり、バランスをとったり、
文字の形を造形することの多くを通らず、

手とペンでで文字を書くスピードよりも速く。


外からやってきた刺激や何かが、身体を通って、
腕を通って、指先からパラパラパラパラと出て立ちのぼる、
指先から音が出てくるような心地。

音を打っているような心地。


ことばを声にするように、
ことばを筆記具で書くように、

キーボードで音を、いえ、ことばを打つことの心地、
というのもあるよ。

と控えめに言ってみたり。





・2007-09-19 ヨリシロ

それとも別のときには、

対象について文字で打つときに、対象を、でなく、

腕の先や、指にある、空気感を、
字面へ乗せて、のぼらそうとしている。

字面に見える文字や文章の意味にはないものを打っている。

全部じゃないけど。たいていは。




西行
・2008-12-16 本来空
・・・
「よみいだす(詠み出す)」。
西行が明恵に語ったこの短い言葉の中に、
「よみいだす」という語が二度ある。

「よむ」のではない。「よみいだす」。
この強調は、自分を強く主張しているのではない。

一瞬あらわれるようにみえて、あとかたもない。
本来空(くう)。
その時風情の中の本来を、よみいだす、思いなのだ。

聖(ひじり)としての西行の作歌。作歌聖。



作仏と作歌 同質の心。
作物聖。作歌聖。
・2009-08-17 中世芸能の発生 188 作仏聖 円空 棟方志功
・2010-04-07 中世芸能の発生 302 一刀彫
自分が仏を造形するのでなく、
木や石や土の中にある仏を彫り出すあるいはとりだすというのは、
現代の仏師も言う。







キーボードで打つ歌は、手で筆記具で書く歌より
心と歌の間に文字のフィルターが入らず、
歌と心は直になる。

キーボードで古い歌を打つと、歌は音に聞こえる。
声の音に近くなる。

キーボードで古い歌を打つのは、
ピアノで音が鳴るのに似ていて、楽しい。
by moriheiku | 2012-11-21 08:01 | つれづれ