暗闇になる少し前には、ヤマフジのなだれる場所に行けそうだった。 山に近づくと、麓の前あたりで、周囲が白く薄くけむるように見えた。 焚き火の煙が広く流れたあとかと。 火のにおいはない。山肌も空にもどこにも濃淡はない。 しかし北に向く傾斜がはっきりするあたりまで来ると、 水の匂いがいよいよ肌に触れて、これは雲。霧とわかった。 ずいぶん平地の方まで雲が降りた。 あの場所へ行く途中にも、 日光を求めて高い樹木に巻いて昇ったヤマフジの、藤色の花の房が あそこにここにあるはずだけど。 霧は濃くなり、日暮れが早まったように暗くなって、フジの昇った先は見えない。 毎年ヤマフジの若い緑と藤色の房と蔓が岩肌をなだれる場所で、 ヤマフジは、霧にかすむ中からあらわれた、広く流れる滝の一部のように見えた。 強くうねる幹、みずみずしい葉、うつくしい花のしたたり。 山の水を甘くするヤマフジの香り。 薄暗い霧の中で、ヤマフジの命が光っている。 目で見る光でなく身体で見る光だ。 私がヤマフジの花をいつもいつも待っていつも山の中へ見に行くのは、 それにふれて、私の命が動くからだろう。 同調して。 そんなことは言葉で考えなくても身体は知ってる。 だれでも。ずっと昔の人たちも。ずっと。 うつくしいとは。 万葉集。 万葉人が、うつくしいとは、色や形の面白さでなく それぞれの姿の中に見出される生きようとしているそのエネルギーを うつくしいと捉えていたこと。 日本人は自然に命を寄せ重ねてきた。 観念を重ねたのでなく具体的な、身体の、実感の重なり。 池坊さんは、植物にふれることで、 古い時代の日本人の感触を共有されてきたかたなのだろうと思った。 ・2012-03-17 中世芸能の発生 431 春の野 古代における神聖とは ・2010-03-16 中世芸能の発生 297 土地の木 ・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは 神聖の本質は、現代イメージされるタブーでも清浄でもなく、 イノチ生命力の強さが神聖だったこと。 そのことは万葉集歌におけるタマや倭文の用例とその変遷からも理解される。 いきいきしたものにふれると私の命もいきいきする。 さわやかな場所にいけば気が晴れる。臭いものに気持ちはふさぐ。あたりまえのこと。 日本の民俗、ないし信仰のベースは、 論理的、哲学的、体系的、抽象的な思想にあるのでなく、 ある意味原始的ともいえる自然とその実感、自然との共感に基づいている。 素朴な類感の世界だ。 それは発達展開した思想を重ねた後世において、一見見えなくなっているようでも、 消滅することなく民俗の底に生きている。 イノチに近い部分だから。普遍性をもって。 ・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元 自然の中に立つ時、 私は日本の文化や宗教は、自然の実感が根元にあると思う。 それは個別化された神や仏より前の、 自分もその一部である自他の分かれない自然の実感だったと思う。 私達は、自分達の生きる時代におけるある物の意味を通して、 いつもその深い底に、本来の性質に、 流れつづけている太い水流に、 常に触れているのではないだろうか。 そこにふれて、心身は動く。 ・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷 自然の体感、自然と人の共感が、願望達成のための呪術に展開。 芸能への流れ。 ・2012-02-16 中世芸能の発生 428 「ホ」 穂(ほ) 寿(ほ)ぐ 誉(ほ)む 言祝ぎ(ことほぎ) ・2009-12-11 中世芸能の発生 263 ほうほう蛍 まじないのことば ・2009-10-28 中世芸能の発生 233 ふくらすずめ ・2010-02-14 中世芸能の発生 295 奄美のユミグトゥ(ヨミゴト) 自然との類感 → 呪術的性質の芸能 → 芸能 アメノウズメ 白拍子 ・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽 ・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし 自然との類感 → 呪術的性質の芸能 → 芸能 相撲 囃子 ・2010-05-14 中世芸能の発生 309 はやし はやす ・2009-05-13 中世芸能の発生 131 だだ 足踏み 古代の人にとっての花見とは。 旺盛な咲く花に接して、花の命の旺盛さが伝染して、 こちらの命が活発化することが期待された。 威勢のいいものに接すると、つられてこちらの威勢もよくなり活気づくというような、 元は素朴な身体感覚に基づくもので、 それは身体が自然に求める薬であり、 神仏を媒介に頼まないという意味で素朴なまじない(呪術)の行為でもある。 広く行われていた古来の習俗。 古代には薬、医術と呪術は同じ範疇のものだった。 律令制において宮内の典薬寮に医師と並んで呪禁師が置かれていたように、 その時代にもなお医と呪術は融通している。 花見の習俗。 イノチを活気づける花見 (山見、鳥を見ること、国見) の習俗 ・2011-02-24 中世芸能の発生 382 ビターオレンジ ダイダイ(橙) たとえば御所の、お雛様の、右近の橘(オレンジ)も。 五月の節句 菖蒲の葉 ・2010-05-15 中世芸能の発生 310 くすり 呪術 万葉人と花 ・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花 私は結局のところ、論理や理論より、身体感覚を優先する。 その点ひどく現実的。 世の中の全てのものごとの中で、自分が実感できることなどごくわずか。 だから身体感覚を優先することは僭越、という考え方が まっとうな考え方なのかもしれない。 ただ、さまざまとの接点に身体が感じる感触で、私は世界を認識するから、 その感触は、全ての論理の底。 その感触は、 論理や理論にならない森羅万象の底。 その感触は、 目や耳や肌で組み立てる世界の底。 と思う。 ただ感触する自然を、あると思ってる。 ・2010-07-01 ぜんぜん論理的じゃないこと 類感・共感の世界 ・2009-12-08 中世芸能の発生 260 呪術・宗教と身体感覚 ・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応 ・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型 ・2008-06-01 自然と我 04 古代の信仰 滝の水。 命を活気づける祝福。和歌。 古い歌には、イノチのいきおいがある。 ことばの中の水に、自分の水が響く。 歌の中に、石走る水が流れつづけている。 そこに立っているような、ほとばしる水の実感。水に響くイの、祝福の体感。 ・2010-08-30 中世芸能の発生 352 滝 木綿花 ・2011-03-03 中世芸能の発生 385 石走(いはばし)る垂水(たるみ) 祝福 ・2010-09-02 中世芸能の発生 353 ことほぎ 自然 滝の水 命を活気づける祝福。和歌。 私は、日本の民俗や信仰を語るのに、神仏の系譜ばかり追うことは、 むしろその本質から離れていくことだと思う。 またこうした自然とそれにふれる身体的実感からおこった素朴な呪術的行為を、 オカルト的に特別な力のように言うものには、違和感がある。 特別なもののように言う心の底には、 自分への特別視や、自分の優位を求める生臭さがあることも多く。 そこで、自分の心の生臭さは見ないことにしておけるのかな、と思う。 もちろん人それぞれで、 そう思うことで自尊心を保てるなら、それでいいんだけど。 そんなことより、人に親切なことの方がよほど大事だし、 周囲に思いやりをもって接する人の方がよほど素晴らしく、尊敬できることだ。 と思ったりする。余計なことだな。 私の心がせまい。 つづき 知識は助けになることがあるけれど、 知識だけでは、周辺をまわりつづけるだけで、 深いところへはいけない。 身体感を通してしか、 近づけない至れないものがあると思う。 物事ってたいていそうなので、すごくあたりまえだけど。 たとえば信仰や宗教を、○○神の系譜はと、 神仏の系譜でたどることをもっぱらとされることの違和感。 それは、詩について語る時、 文章の技法や技術を語って判断し、 詩の魂を語らないのと同じで、 神仏の系譜や技法ばかり目を向けて信仰を語ろうとするものは、 その核、本質から離れることだと思う。 身体感抜きで、 信仰や宗教を語ることはできないのではと思う。その歴史も。 文化も同じで、 系譜だけをもっぱらに語る時、 文化や民俗の核、本流を語れないと思う。 身体感抜きで語るのは、片手落ちだと思う ・・て意見は、よそで全然聞かないので、 私はずれているんだろうか。 ・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元 自然の中に立つ時、 私は日本の文化や宗教は、自然の実感が根元にあると思う。 それは個別化された神や仏以前の、 自分もその一部である自他の分かれない自然の実感だったと思う。 木綿花。 古い歌には、イノチのいきおいがある。 ことばの中の水に、自分の水が響く。 歌の中に、石走る水が流れつづけている。 そこに立っているような、ほとばしる水の実感。 春のよろこび。 水に響く祝福の体感。 ・2010-08-30 中世芸能の発生 352 滝 木綿花 ・2011-03-03 中世芸能の発生 385 石走(いはばし)る垂水(たるみ) 祝福 ・2010-09-02 中世芸能の発生 353 ことほぎ 自然 たとえば『風姿花伝』において、申楽(猿楽・能楽)のはじまりを、 “推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰て、且は天下安全のため、且は諸人快楽のため、六十六番の遊宴を成て、申楽と号せしより以来” との記述。 ここの記述はよく取り上げられているけれど、なぜかここから、 申楽のルーツを聖徳太子、秦河勝に求めるものがほとんどみたい。 申楽のルーツを求めようとされる方々は、 なぜ聖徳太子、秦河勝の系譜ばかりを追うのだろう。 名前が意味を持たないわけではないけれど、 こうした名前はある意味契機や象徴や権威付けであって、 この部分の記述の核は、 身体に響かせる「天下安全」「諸人快楽」、 祝福の方だと、私は思うけど・・。ずれてるの? ・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽 ・2012-04-07 中世芸能の発生 433 太い水流 私達は、自分達の生きる時代におけるある物の意味を通して、 いつもその深い底に、本来の性質に、 流れつづけている太い水流に、 常に触れているのではないだろうか。 そこにふれて、心身は動く。 ・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷 私は結局のところ、論理や理論より、身体感覚を優先する。 目の錯覚が簡単にひきおこされることなどから、 身体感覚はあてにならないと知ってもなお。 抽象的で昇華された観念よりも、最終的には、身体の実感を優先する。きっと。 その点ひどく現実的。 世の中の全てのものごとの中で、自分が実感できることなどごくわずか。 だから身体感覚を優先することは僭越、という考え方が まっとうな考え方なのかもしれない。 ただ、さまざまとの接点に身体が感じる感触で、私は世界を認識するから、 その感触は、全ての論理の底。 その感触は、 論理や理論にならない森羅万象の底。 その感触は、 目や耳や肌で組み立てる世界の底。 と思う。 ただ感触する自然を、あると思ってる。 ・2010-07-01 ぜんぜん論理的じゃないこと これまで見てきたたとえば「チ」の感覚、「二」の感覚、「ヒ」の感覚は、 自然に接する身体の感覚としてよくわかる。 これら古い一音節は、私は、 身体に感じる自然の働き、自然の性質の種類とその感触を、 声の音にしたものだと思う。 私は、「チ」「二」「ヒ」の感覚は、 直に自然に接する時、はじめに感じる肌感だと思う。 また、自然の中で、科学や星の運行や、 これまで得てきた知識を、ひとつひとつはずしていった、最後に残るもの。 多様な自然を総体として捉えているとき、 自然と身体の接する所にある身体の実感であり、自然の姿だと思う。 ・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感 ・2010-07-07 中世芸能の発生 335 固有名詞にならないもの 万葉集。万葉人が、 うつくしいとは、色や形の面白さでなく それぞれの姿の中に見出される懸命に生きようとしているそのエネルギー、 それをうつくしいと捉えていたこと。 日本人は自然に命を寄せて重ねてきた。 観念を重ねたのでなく具体的な、身体の、実感の重なり。 池坊さんは、植物にふれることで、 古い時代の日本人の感触を、 共有されてきたかたなのだろうと思った。 ・2012-03-17 中世芸能の発生 431 春の野 身体に実感をよぶこと。 身体の感覚を起こすこと。 歴史をたどって 自然を身体の中に起こす 遊びだ。 ・2009-03-01 草の息 私はただ、ずっと、それだけをしている。 ものと人の共感に、 人のことばの発生と本質があると私は思う。 ・2010-04-02 中世芸能の発生 299 ことばの発生と本質 つづく つづき 何年か前のある禅僧の方のインタビューを見た。 インドで生まれた禅が東へ伝搬したルートは概ね二つある。 大陸の南側を通ったものと、大陸の北側を通ったもの。 日本の禅は、大陸の北側を通って伝わったもの。 インドの仏教は各地の信仰や文化と混ざりあいながら世界へ広がった。 日本に伝わった仏教や禅は、 昔の中国や朝鮮半島の国々などの文化や思想の混ざった仏教で、 それが日本に来て日本の文化風土と混ざって育ち、 日本の仏教になった。 チベットの仏教には、やはりチベットに根付いた仏教のありかたがある。 禅は究極には、心を自由に保つこと、ではないかなと思うけれど。 禅の状態に近づく方法として、日本では、 日本人にとっては馴染みの背筋の通った座禅スタイルが代表される。 現在中国の座禅は、時にはうちわをあおぎながらゆったりと座り、禅に近づく。 インタビューでお話されていた禅僧のお坊様は、 アメリカで禅の普及につとめられた方。 お話によると、 アメリカの禅(ZEN)は日本からアメリカへ伝わった禅で、 日本の禅と兄弟の禅なのだが。 日本の禅が仏教(宗教)とワンセットで、 いわば出家や僧侶の禅であったのに対して、 アメリカの禅は出家や僧侶ではない一般の人々にとっての禅であること。 そこに、禅の可能性をご覧になっている。 禅と宗教が重なっていた日本ではついに為し得なかった禅というものを、 アメリカの禅が実現してくれるのではないかと期待している、 とお話しされていた。 この禅宗のお坊様は、 禅の本当に深い場所、本質をご覧になってお話されているのだと思った。 ご自身の宗教にも知識にもとらわれない、 禅そのものをごらんになっているのだと思った。 中世からの宣教師の記録に見るように、 日本の仏教では、 キリスト教の神も異国の神も仏や如来の化生(というか仮の姿)と考えてきたところがある。 (神仏習合もそうした考え方のひとつ) ただ一つの神を信じる宗教の人々にとっては許しがたい解釈だろうけど、 ともかくそういう考え方はされてきた。 こうした考え方は仏教に限らず古来の信仰にも見られる。 何かのあらわれとしての仏、 何かのあらわれとしての神々、 何かのあらわれとしての草花、 何かのあらわれとしての様々のもの。 という視点。 喜びや悲しみも、何かのあらわれの上に咲いて散る花とする。 時々に対立はありつつも、 何かのあらわれとしてのものの姿であるということは、 いつの時代もどこかで意識されてきたのだと思う。 神仏習合が どちらかを低く見ることにつながった部分があったのは残念なことだったけれど、 姿の奥のそのものにおいて高低などない。 許しと相互の尊重にもつながる考え方と思う。 そして、 とらわれのない心の自由にもつながる考え方と思う。 私達は、自分達の生きる時代におけるある物の意味を通して、 いつもその深い底に、本来の性質に、 流れつづけている太い水流に、 常に触れているのではないだろうか。 そこにふれて、心身は動く。 ・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷 ・2008-09-26 水波之伝 このお能の作者が最も心を動かしているのは、 山神でも楊柳観音菩薩でもなく、 作者の心を動かしているのは、 峰の嵐や 谷を駆け下る水の音、滝の音だと思う。 それはきっと古い芸能の根元だと思う。 私も深い本流を見ていたい。 西行や作仏聖の心象。 木や石や土の中にもともとある仏を彫り出すあるいはとりだす。 自分が仏を造形するのでなく。 ・2009-08-17 中世芸能の発生 188 作仏聖 円空 棟方志功 うつろうものの奥の仏法を詠み出す。 一首詠み出でては、空の中に一体の如来の形を造る思いをする。 ・2008-12-16 本来空 つづく つづき ヒヤシンスが咲いて、うれしかった。 芽が遅くて、もう出ないのかしらと思った。ベランダの鉢。 土に芽がのぞいたと思ったら、あっという間に伸びて咲いた。 ユキヤナギの芽の緑もあふれるように増えている。 遠目にけぶるように見えるあの谷の白梅の群れは、 いつもよりひと月ほどおそく、 今年は、冷えた大気の中の幻の香というよりは、 春のただなかの存在感。 ジンチョウゲが花を咲かせる頃。 こちらはいつものようにちょうど今。 草花を植えること芽や花をよろこぶあたりまえの心が、私の中にもある。 それが私の心臓を動かしている。 万葉集歌を紹介する番組で、 いけばなの池坊の池坊由紀さんが、山部赤人の歌を紹介されていた。 --------------------------------------------------------------- 春の野(の)にすみれ摘(つ)みにと来(こ)しわれそ野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝にける (1424) 春の野にすみれを摘もうとして来た私は、野があまりにもなつかしいので、一夜寝てしまったことだ。 ・なつかしみ 心ひかれるので。野は官人生活の反対 ---------------------------------------------------------------- (参照:『万葉集(一)』中西進著) 番組の中で池坊さんは、野の魅力について、 お花屋さんに並んでいたら目立たないような可憐な草花が、 野山の実際の自然の中で見ると小さくてもそれがすごく生き生きと見えること、 とおっしゃってそして、 美しいとは何だろうかと考えた時、 いけばな人は表面的な例えば色であるとか形の面白さを美しいとしたのではなく、 やっぱり花や植物が懸命に生きようとしているそのエネルギーを それぞれの姿の中に見出して、そのエネルギーこそが美しいと捉えたんだと思う、 とお話されていた。 池坊さんのおっしゃる、 うつくしいとは、色や形の面白さでなく それぞれの姿の中に見出される懸命に生きようとしているそのエネルギー、 それをうつくしいと捉えていたこと。 これは古い歌の中に見られる「タマ」の意味と同じ。 古歌によく出てくる例えば「玉蔓(タマカヅラ)」は、 姿形が美しい蔓というのではなく、旺盛な生命力のあらわれている蔓のこと。 単に姿形の良さでなく、 蔓にこもっている旺盛な生命力、エネルギーをうつくしいととらえ 「タマ」の美称が付いた。 しかし時代が下ると、 この旺盛な命のエネルギーとしての「タマ」は忘れられ、 もう平安時代には「タマ」は、もっぱら 真珠のような美しい珠「タマ」の印象に重ねて用いられるようになる。 生まれて間もない子供を、 たま(珠・玉)のような女の子、たま(珠・玉)のような男の子、と言って、 つやつやにかがやく珠・玉のような命のかたまりをよろこびたたえる。 タマのような子ということばに、私達は 見目のうつくしい子供という意味とともに、 生まれたての生き生きとした命のエネルギーの輝きを感じ、受け取っている。 とてもタフで元気なご老人でも、 タマのようなおじいさまおばあさまとは言えないのだ。 「たまきはる」は、命につく枕詞。 (たまが極(きは、きわ)まる → たまきはる) 「たまきはる」は現代では、「霊魂」が極まる、と解釈されがちだけれども、 古い時代の「たまきはる」の「タマ」は命の力、命のエネルギーのことをさしており、 それが満ち、はりつめた状態が「たまきはる」だったと思う。 私達の命は、春(はる)のように、命のエネルギーのはった状態から、 冬に葉を落とす植物のように、命を削ぎ落して生きていく。 と、昔の人たちに感じられていた。 古いことばの音には、そのもの自体が響いている。 だから古いタマの概念を忘れてしまった現代の私達にも、 古いことばの響きから、タマの意の本質を感じ取る。 池坊由紀さんは上記の赤人の歌について、 美しいということとは何かということにつづけて、 春は色んな命が芽吹く時、 色んなきざし(兆し、萌し)が感じられる時であること、 “春の野に入ることによって、そういった同じように芽吹いている植物の命と自分の命を重ね合わせて、これから成長していこうという希望とか喜びとか期待とかそういうのを実感するそういう場所でもあると思います。” とお話されていた。 日本人は自然に命を寄せて重ねてきた。 観念を重ねたのでなく、具体的な、身体の、 実感の重なり。 池坊さんは、植物にふれることで、 古い時代の日本人の感触を、 共有されてきたかたなのだろうと思った。 玉葛(たまかずら 玉蔓) 歌に見る「タマ」の意の変遷 ・ 2010-08-15 中世芸能の発生 337 綾 玉葛 水流 命(イノチ) = 「イ」の「チ」 ・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花 「イ」は「厳(いつ)」「いかし(厳し)」の語に今も感じられるように、 たけだけしいほどの自然の生命力の横溢。 「チ」はチカラ。 古代における神聖は、生命力の強さのこと。 ・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは ・2010-03-16 中世芸能の発生 297 土地の木 春 きざし(予兆) 花 ・2008-03-23 春の黄の花木 マンサク ・2008-08-13 「ほ」を見る。 ・2012-02-16 中世芸能の発生 428 「ホ」 穂(ほ) 寿(ほ)ぐ 誉(ほ)む 言祝ぎ(ことほぎ) ・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型 日本の思考の底に、主客の分かれない感覚があると思う。 自然と人、神と人、のように個々に相対化しようのないもの、 自然との境のない、 主客のない感覚が、今も思考の底に流れてると思う。 以前、生物学者、生命科学の中村桂子さんが、 万葉集のナデシコの花を植えた歌を紹介されていた。 中村さんは、生き物をみると、 自分だけじゃなく他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、ということが 生き物の中にこもっており、 全体として、つづこうとしている、 ということをお話されていたように思う。 そして、歌や、花を植えることは、 そうした生き物としての人間の表現、とおっしゃっていた。 歌・和歌を「詠(よ)む」と言う。 世(よ) 代(よ) 夜(よ) 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ) ・・ 「よ」の音に聞こえるのは、 くりかえしくりかえし、命が再生し、生まれつづける、 永遠の時のイメージ。 「よ」は命のことだ。 「よ」は、くりかえしくりかえしつづいていく命。 かつて、歌(和歌)を「詠(よ)む」と言ったのは、 歌(和歌)の本質に、命のいのりとことほぎがあった記憶。 土橋寛が、和歌を作ることを「ヨム」というのは、 「ヨム」という動詞は「寿ぐ」と同じ意味の語であり、 和歌の根源ないし代表が、 「ヨミ歌」(祝歌)であったことに基づいていると述べた。 平安時代の歌からは消える、 古代の歌にいつもある性質、祈りのようなものを感じる時、私は、 和歌の根源、ないしは和歌の代表が 生命をほぐ「ヨミ歌」(祝歌)であったということは、まことと思う。 中村桂子さん 「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」 ・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々 「よ」の音 ヨ 詠む 詠む人々 ・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ ・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能 日本の信仰というか、謂わば民俗の底には、 自然という水流がずっと続いていると私は思う。 それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。体系的でも哲学的でもない、 自然の実感としかいえないようなものだ。 古い日本の芸能は、 自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。 繰り返しつづいていく自然と、遷都、輪廻の思想。 ・2011-02-16 中世芸能の発生 380 輪廻 遷宮 遷都 自然に寄せていのる ・2010-02-14 中世芸能の発生 295 奄美のユミグトゥ(ヨミゴト) 自然に寄せてイノチをことほぐ ・2010-09-02 中世芸能の発生 353 ことほぎ 自然 ・2011-03-03 中世芸能の発生 385 石走(いはばし)る垂水(たるみ) 祝福 ・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし 花見 (山見、鳥を見ること、国見) でイノチを盛んにする。 旺盛な自然の生命力を伝染させると考えられていたこと。 ・2011-02-24 中世芸能の発生 382 ビターオレンジ ダイダイ(橙) 日本の民俗は自然風土と密接にあることが、 君が代のことばの中にも一本の糸になってつづいている。 ・2011-02-16 君が代 02 ことほぎは、周囲と無関係に個人を祈るものではないこと。 つながりあう森羅万象、国土草木(山川草木)全てのイノチが、 共に盛んであればこそのもので、共に盛んで長く栄えることの祈りだったこと。 ・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元 ・2010-02-03 命の全体性 私は結局、このことだけを求めているのではないかと思う。 ・2009-03-01 草の息 古代歌謡や、万葉集の歌には、祈りのようなものがある。 願いごとや宗教感が詠まれているということでない。 古い歌には、イノチのいきおいがある。 自然と直接つながっていることばは命、生命の風がある。 私はいつもそれを身体におこしたい。 ただそれだけ。弱いからか。 ・2010-10-17 水の旅 都祁 山辺の御井 自然と魂と直接つながっていることばは命、生命の風がある。 「日本の風土というものを自分とじかに対面させて、その心音の部分、 奥深い、日本の自然というものと魂を向き合わせた。そういうすばらしい歌です。」 ・2009-11-08 中世芸能の発生 239 さぶるこころさまねし さびてあまねくなっていく。 それは自然の中に居る時の感覚ととてもよく似ている。 つづく つづき 万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。 万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、 現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。 私はある人の命が助かってほしいと強く願ったことがある。 もうだめだ、と思った時、 私は、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った。 たすけて、と。 その時、私は、 近視眼的な自分の判断のみに目を向けて、 自分の判断などはるかにこえる森羅万象の関わりの中で生きている、 自分もその一粒であるという共生の感覚を、 切り捨てた。その瞬間だったと思う。 あとに残る苦みは、 全体の命の中にあることを拒否し、切り離した、 独善的な自分への苦みだ。 ・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願 この、自力をすべて投げ出すほどの絶望、というのを見て、 自分の力の限界を知って謙虚になったのだと解釈する人がいるけれども、 それはちがう。 自力をすべて投げ出すほど絶望することは、 独善的な自分の判断のみに目を向けて、 (独善的な自分の判断のみ信じて、) 自分の判断などはるかにこえた森羅万象の 大きな関わりの中にあることを否定し拒否すること。 自分のみに目を向けて、 自分の判断などはるかにこえる森羅万象の関わりの中で生きている、 自分もその一粒であるという共生の感覚を、切り捨てた。 私には、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った時が、 その時だった。 私が何か強い願いを持つ時の感覚は「“を”祈る」で、 どうしても「“に”祈る」と言えない。 私にとってはだけど、 どこかにある何か「に」(「へ」)祈ることは、 自分の卑近な判断をこえてはるかに関係し合っている 森羅万象の働きの中にあるということの否定。 無数に関係しあう森羅万象の働きを忘れ切り捨てて、 近視眼的な一見の利を求めることだ。 他力を本願とすることは、 誰かの力をあてにして生きるということでない。 一見自分にとって都合が良く感じられること、 都合の悪く感じられることはあるけれども。 他力を本願とするということは、 そうした人の卑近な判断や把握をこえた 近目には見えない森羅万象の大きな働きの中にいることを自覚すること。 良い悪いなどの判断の範疇にない交錯する無数のイノチ(動植物という意味でなく)の 関わりの中で生きて死ぬという自覚と覚悟が、 他力を本願とするということではないかと私には思える。 他力を本願とする(他力にゆだねて生きる)とは、 誰かの力をあてにして生きることでなく、 自分を生きることの否定でもない。 自分の独善的な判断をはるかにこえる、 森羅万象の関わりの中に自分もあるのだという自覚と覚悟だと思う。 それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもあるのだ。 かつて日本の仏教では、そのような感覚を、 如来の他力を本願とすると解釈したのではないかしらと私には思われる。 うーん。やっぱりうまく言えなかった。 だってだって、 「“に”祈る」 と 「“を”祈る」 は、全然、感覚が違うー。 こうした感覚の共感を、私は本の中の数行に見、万葉集の中に見る。 ─── 万葉集における 「神“に”祈る」 と 「神“を”祈る」 ─── “現代のことばでは「神“に”祈る」というが、『万葉集』では「神“を”祈る」と表現しているのである。”(土橋寛『日本語に探る古代信仰』) この小さな「神“を”いのる」の項目を読んだ時、胸がふるえた。 なぜなら私はどうしても「神“に”祈る」と言えないから。 ・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏 “我々が「神に祈る」のは、神が祭礼の時以外は縁遠い存在だからであり、万葉人が「神を祈る」というのは、神を身近な存在として、日常的にも祈ったり祭ったりしていたからであろう。そしてそのような意識の源流を辿ってゆくと、「祈り」からさきに述べた「イ罵り」に近づいてゆくのではあるまいか。”(土橋寛『日本語に探る古代信仰』) さらにいうなら、私は、 その近さは、距離の近さというよりは、 神と人との未分化の状態だったと思う。 ・2010-08-26 中世芸能の発生 349 神「を」祈る イ罵(の)り 「天地(あめつち)の神「を」祈りて」の表現に、 あまねくある神々の印象がある。 万葉の人々は、例えば天上などどこか「に」いる神に向かって祈るのでなく、 すべてにいきわたっている神「を」祈る感覚があったと思う。 そういうのは歌に響いてる。 万葉集中の神「を」祈るの表現からも、 万葉時代の人々にとって神は 自分から分離した客観的な「対象」になっておらず、 天地にあまねくあって自分にもある、 万葉の人々の、自と他が未分化の感覚を見ることができると思う。 このことは、相対化され個別化していく霊や神の概念以前の、 自他の境のない、 ものごとが融通している世界観(身体感)の名残と思う。 ・2010-08-27 中世芸能の発生 350 神「を」祈る 神「を」祈(の)む 私はある人の命が助かってほしいと強く願ったことがある。 もうだめだ、と思った時、 私は、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った。 たすけて、と。 神「を」祈ると言った万葉の時代から、 神「に」祈ると言う時代へ移った。 自然風土と密な呪術的な民俗信仰の社会から脱し、新しい社会へ移行した。 その間には、自分の中の神「を」捨てるほどの多くの絶望があって、 人は自分の外「に」救済を求めたんだろう。 と思った。 ・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願 ・2008-06-01 自然と我 04 古代の信仰 ・2008-06-03 自然と我 06 ・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型 ・2010-07-01 ぜんぜん論理的じゃないこと ・2009-08-30 地続き ・2008-08-24 弓と自然 自然と他力本願 ・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること ・2012-02-27 他力本願 ・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々 「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」 そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、 それが生き物としての人間の表現、 と、おっしゃって、 そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。 日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、 自然という水流がずっと続いていると私は思う。 それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。 体系的でも哲学的でもない、 自然の実感としかいえないようなものだ。 中世芸能が生まれるまでの、 芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、 自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。 つづく たった、木の幹を流れる雨水という樹幹流ひとつも、様々なものとの関係している。 めくるめくような大きな範囲で森羅万象は影響しあってる。 ひとつのことを自分の想像の範囲で判断すること、 ひとつのことに意味を付けすぎることはあまり意味のないことのように思う。 近視眼的な一見の利を求めすぎること。 また都合の良い因果、あるいは都合の悪い因果を語ることは、 無数に関係しあっている森羅万象の働きの中にあることを 切り捨てていると思う。 森羅万象が影響しあっている中に生きて死ぬという自覚は、 時間や季節や、地震や津波ももちろん、 自分は人の及ばない無数に影響しあっている自然の中の一部であるという自覚であり、 覚悟だと思う。 仏教で言う他力本願を、人の力をあてにして頼る、と理解して、 批判的に言うのを目にすることがあるけれど。どうして。 他力本願は、 人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない、 自分の人生を生きることの否定でもない。 自分の運命は、自分に見える判断の範疇をはるかにこえた めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという 強い自覚と、覚悟だと思う。 仏教で、人智の及ばない森羅万象の無数のはたらきを、 如来の他力と表わされたもので、 他力を本願とすることは、 無数のはたらきの中にあることを信じる(意識する)ことではないかと思う。 他力を本願とすることは、 人智の及ばない無数のはたらきの中にあることの自覚と、覚悟だと思う。 それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。 ・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い ・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること ・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願 ・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々 「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」 そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、 それが生き物としての人間の表現、 と、おっしゃって、 そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。 日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、 自然という水流がずっと続いていると私は思う。 それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。 体系的でも哲学的でもない、 自然の実感としかいえないようなものだ。 中世芸能が生まれるまでの、 芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、 自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。 つづき 雨降り。木の幹に、雲から落ちてきた水が伝って流れている。 森に降る雨水が木の幹の表面を伝って根元に流れる水のことを樹幹流という。 雨が、空気中の物質を含みながら空から落ちてくる。 それが森の木の幹を伝う短い間に、 水は木の表面についた色んな物質も含んで地面に注がれる。 木の表面についた苔や微生物やカビ、細菌、 森の環境から出るチリなどが含まれた樹幹流の成分は、 木の種類や環境によって異なっている。 様々な成分が含まれる樹幹流が地面に注いで、 そこに生きる様々なものや生物、生物以前のものも生きる。 土地に適した樹木を流れる雨水は、 土地に適した成分を含む樹幹流になるので、 森にとって樹幹流の水は、水道水を注ぐのとは違うそうだ。 数えきれないものが無数に互いに関係しあって自然の森は構成している。 もとの自然の状態だと、樹幹流もその森に合って森を構成するけれども、 例えば針葉樹ばかりの植林の木の樹幹流は、 ph等変わって本来の土地や生物に合いづらく、 森や土壌を弱らせる原因のひとつになっている。 また樹木が土地本来の土地に適したものでも、 空気中の排気ガスなど化学物質を含んだ雨水が樹幹流になることで、 環境を変化させ弱らせたりする。 最近では原発事故で排出された放射性物質も、その要因のひとつになった。 たった、木の幹を流れる雨水という樹幹流ひとつも、様々なものとの関係しあう。 めくるめくような大きな範囲で森羅万象は影響しあってる。 もう自然は本来の自然でないから、 人によるコントロールなしには自然は維持できないという意見が 最近大きくなってきて、 そして人の介入なしには維持できない自然になったのだから、 今後はより積極的に、天候気象の人為的な操作を含めて、 人が地球の自然環境をコントロールしていこうという方向性が強くなっていることは、 容易に同意する気持ちになれない。 人が快適に生きることは、自然のバランスを壊すこと。そうなんだけど。 人間に自然環境を思うように動かすだけの知恵が蓄えられているのなら、 いかに人が手の入らない本来の自然を保ちつつ、人は共存するかという方向で、 なんとかしてその知恵を働かせられないものか、 と、どうしても思ってしまう。 私はあまりものを知らなくて自分の意見は自分で見ても幼稚だし、 こういうのは都合のよい理想論と言われてしまうものだと思うけど。 ごく小さな範囲内のたった一本の木を切っただけで、バランスが崩れて、 あっという間に地面は乾き、苔はなくなり、 土は荒れて、生き物がうんと減ってしまったのを見た。 樹幹流というひとつの要素の中にも無数に感じられる、 複雑に影響しあっているバランスを、 近い利益を得るため人間がする行為がうまく操作できると思わない。 自然のさまざまを壊すことは、結局人も壊すことでもあると思う。 人は生きなければならない。 寒い時にはあたたかいお風呂があったらいいし、 お風呂の暖かいお湯は、膝までよりも、肩まであったらすごく幸せ。 私にだってすっごくわかる。 良いお薬と手術で痛みを免れたのならそれは幸い。 それでも、自分も共生の運命の中で生きて死ぬのだという自覚を、 持つのがいいと思う。 自分は共生の運命の中にあるという自覚。覚悟。 人の経験も、森羅万象の関わりと似ていて、 目先のスパンで見るものでなく遠く関係しあう。 様々な経験は結びついて、いくつかの経験にむすんでいく。 ひとつの経験を自分の想像の範囲で判断すること、 ひとつの経験に意味を付けすぎることはあまり意味のないことのように思う。 近視眼的な一見の利を求めすぎること。 また都合の良い因果、あるいは都合の悪い因果を語ることは、 無数に関係しあっている森羅万象の働きの中にあることを 切り捨てていると思う。 森羅万象が影響しあっている中に生きて死ぬという自覚は、 時間や季節も、地震や津波ももちろん、 自分は人の及ばない無数に影響しあっている自然の中の一部であるという自覚であり、 覚悟だと思う。 仏教で言う他力本願を、人の力をあてにして頼る、と理解して、 批判的に言うのを目にすることがあるけれど。どうして。 他力本願は、 人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない、 自分の人生を生きることの否定でもない。 自分の運命は、自分に見える判断の範疇をはるかにこえた めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという 強い自覚と、覚悟だと思う。 仏教で、人智の及ばない森羅万象の無数のはたらきを、 如来の他力と表されたもので、 他力を本願とすることは、 無数のはたらきの中にあることを信じる(意識する)こと。 他力を本願とすることは、 人智の及ばない無数のはたらきの中にあることの自覚と、覚悟だと思う。 うーん。どうして?ことばにしようとするとうまくできないんだろう。 今度、も一度チャレンジ。 日本の古い芸能は、祝福の系譜。ことほぎの伝統。 おまじないのような祈りの習俗の流れ。 ことほぎは、自然に寄せてイノチが盛んで栄えることを祈る。 横溢する自然の命の祝福がイノチに反映するように願われた。 ことほぎの特長は、 周囲と無関係に個人を祈るものではないということ。 人は自然の中の一部として、 つながりあっている森羅万象、国土草木(山川草木)、全てのイノチが、 共に盛んであればこそのもので、 共に盛んで長く栄えることを祈る共栄の思想に基づく。 自然の一部としての人の、 自然の共栄の思想が、芸能の底の方にも残ってる。 仏教で仏性とは何をさすのか知らないけれど。 自然の中で、観念的でない具体的なイノチを実感する。 ・2008-07-10 神仏習合思想と天台本覚論 01 ・2010-08-12 森のイノチ ・2011-03-27 祝福 ・2010-08-13 自然と生きること ・2011-04-07 国土の保全 知恵と伝承 ・2011-03-17 森林と国土 ・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い ・2012-02-27 他力本願 ・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々 つづき つづき 「ほ」は、あらわれ。 「ほ」は、さきがけ。 のような。 冬の明けきらない頃、 枝ばかりの木々の先に咲く花に 「ほ」を見る。 それをしるしのように感じ、 あらわれた「ほ」に、 先の幸いを重ねる。 生物として、背後に来ている季節の予兆を、 身体に感じていると思う。 春のはじまりに、 いくつも「ほ」を見つける。 ・2008-08-13 「ほ」を見る。 ・2008-03-23 春の黄の花木 マンサク 「ホ」の音に感じるイメージは、さきがけのような。 頭を出した氷山の小さな一角のような。 はっきりと目には見えないもののあらわれのような感じ。 「ホ」という性質。 「ホ」はこれを語根として 「ほぐ(祝ぐ 寿ぐ)」「ほむ(誉める)」「秀(ほ)」「穂(ほ)」等々 祝福のことばに展開している。けれども、 「ホ」のただ一音の印象は、予兆に小さく胸がふるえるもので、 それ自体善でも悪でもない。 意味でない「ホ」は「ホ」という性質だ。 さきがけの「ホ」に、私達は予兆を見る。 まだはっきりと目に見えていないものの姿を「ホ」に感じる。 そしてそれが瑞兆であることを願う。 だから古来「ホ」は、卜(占い)と親しかった。 精霊や神の概念ができてからは、「ホ」は、 精霊や神の真意のあらわれと観念されるようになった。 万葉集にも歌が残る「ほかひびと」(ほがいびと 食乞者)は、 「ことほぎ(言祝ぎ 言寿ぎ)」をして家々から物を乞い歩く芸能者たち。 ほぐ芸能者である彼らのする「ことほぎ」は、 良いことや命令を言うことで、 物事や精霊をその良い状態へ導こうとする予祝(呪術、ままじない的)の芸能をしていた。 それは当時の人々が祝福を求めた願いから、 (あるいは「ほかひ」「ことほぎ」によって「ほ」をあらわすという 一種卜(占)的な面も含まれただろうか、) あらわれた「ほ」を良い状態へ、積極的に導こうとするような行為だったと、 「ほかい(ほがい)」の名からも思われる。 いうことをきかせようというもの。 同じ呪的行為でも「たまふり」とは少し性質の違うものだ。 古い詞章や歌など見れば、 「ほ」の意味も、予祝の呪術芸能も、 万葉の時代にはすでにこんなに複雑化していたんだけど。 たとえば平安時代、源氏物語 宿木の、 穂(ほ)にいでぬ物思ふらししのすすき招く袂(たもと)の露しげくして、 のように、 外に現れて人目につくようになることを、 「穂(ほ)に出ず」、と人々が言っていた。 やはりそこには、稲の穂、漢字の穂よりずっと前の、 ただ見えていなかったものが表に現れる、 なつかしい「ホ」の響き(印象)がある。 他「ホ」 ・2008-08-13 「ほ」を見る。 ・2008-03-23 春の黄の花木 マンサク 「イ」 ・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ ・2010-06-05 中世芸能の発生 320 祈(イノ)リ イ罵(ノ)り 日本の「イノリ」(祈り)とは、 抽象的な神に敬虔な願いを捧げるような新しい祈りでなく、 「イ」を宣(ノ)る強い行為であったこと。 「ヨ」 世 代 夜 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ) ・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ ・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能 「チ」 血(ち) 乳(ちち) 道(みち) 市(いち) ヲロチ(おろち) ・2012-02-14 中世芸能の発生 426 道(ミチ)のチ ・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花 「ヒ」 日 火 檜 ヒレ(鰭) ヒロメク ヒラメク ヒレ〈領巾・肩巾〉 ・2010-02-17 中世芸能の発生 284 ハタ ヒレ ・2010-02-18 中世芸能の発生 285 ヒ ヒル ヒヒル 蝶 ・2010-02-19 中世芸能の発生 286 ヒレ ヒラ ヒレ有る骨柄 ・2010-02-20 中世芸能の発生 287 ヒロメク 蛇 剣 ・2010-10-03 中世芸能の発生 357 檜扇(ひおうぎ)の民俗 「キ」 木(き) 毛(け) 気(き・け) 気枯れ 穢れ(けがれ) ・2011-09-05 中世芸能の発生 412 キ(木) 毛(ケ) キ・ケ(気) 「ユ」 斎(ゆ) 湯(ゆ) ユ槻(ゆつき) ユ笹(ゆささ) ユツ真椿(ゆつまつばき) ・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは ・2010-04-08 中世芸能の発生 303 日本料理 湯屋 湯聖(ひじり) ・2009-10-19 中世芸能の発生 224 ゆささ 湯 「ニ」 匂う(ニホフ) 丹(ニ) ニフブ(和ぶ 柔和) ニコニコ ・2010-02-13 中世芸能の発生 280 ニフ 土地 ・2010-02-13 中世芸能の発生 278 ニコニコ ニフブ 笑む ・2010-02-13 中世芸能の発生 277 住吉のハニフ(黄土) 他「イ」の性質を含む行為の例 斎(い)む 忌(い)む 祝う 呪(いは)う ・2010-02-06 中世芸能の発生 270 イハフ ・2010-02-07 中世芸能の発生 271 イハフ言葉 イハフ行動 ・2010-02-08 中世芸能の発生 272 マツル ・2010-02-09 中世芸能の発生 273 イム <性質をあらわす一音節について> 「チ」「二」「ヒ」 一音節 固有名詞にならないもの 土橋寛 ・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感 ・2010-07-07 中世芸能の発生 335 固有名詞にならないもの ・2010-03-05 中世芸能の発生 292 海幸山幸(ウミサチヤマサチ) ことばの音 ・2010-05-17 中世芸能の発生 312 ことばの神聖視 ・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷 つづく つづき その市(イチ)の立つ日は、そのあたりの人々は、 神社で神様に捧げたお米が使われてるっていう 食べると厄除けになるというおまんじゅうを食べるのがならわしだそう。 春のはじまりに、このおまんじゅうを食べて、 今年一年を無病息災で過ごせますようにという願い。 これは、お祭りに使った松明(たいまつ)の火や、火の粉や、 燈心のようなものをいただいて帰ったり、 聖なる水とされるお水を汲んで飲んだり、 神社で神様に捧げたお酒や贄など神饌を 皆で分配したりするのと同じことで 神聖なイノチのチカラに満ちたものをいただいたり身近に置くことで、 そのチカラが伝染することをと願うもの その結果厄が払われる。 神社のおふだやお守りもこうしたもののひとつ。 ありがたいもの、おめでたいもの。 神聖なチカラに満ちたものの感染を期待する、 古~い時代からの呪術的な行為。 日本では現代もマジカルな行為が身近にいっぱい。 自分の身体の痛いところと同じ場所を撫(な)でて不調の軽減を願う撫で仏も、 仏の姿ではあるけれども、 仏教以前の、身体的な実感からつづいてきた呪術的な行為の系譜にある。 我欲を捨てることで苦しみを逃れるという論理的な宗教の理論の中に、 宗教以前のマジカルなものへの期待と行動は生き続けている。 それらが習合したものが日本の宗教の形になっている。 現代では呪術というとおどろおどろしいものをイメージされることが多いけど、 ここで言う呪術は、 抽象的な神を媒介として願望の達成を祈るというような 比較的新しい宗教的な祈りというよりは、 神を媒体とせずそれ自体に直接はたらきかけようとする行為にもとづくもののこと。 まじない。 強い名を付けて、丈夫な強い子に育ちますように、とか、 美しい名を付けて美しい子になりますように、という行為も、 ここでいう呪術的行為のひとつ。 ぴちぴちした人の近くに行くとぴちぴちした気持ちになったり、 爽やかな土地に行って、晴々したり。 やさしい音におだやかな気持ちになったり、 良い香をきいて、リラックスしたり。 うるさい音の中でいらいらしたり、 山野で獲れたての、活きのいい食べ物を食べると 元気になるような気がしたり、 そうした身体的行為に基づくものが、 哲学的抽象的な宗教以前の、呪術的意識の基本として今もあると思う。 現代人にも日常的な、 ありがたいもの、おめでたいものにあやかろうという行動は、 そういった古い時代からの身体的感覚に基づく行為と基本的にかわらない。 で、市に行って、ありがたい厄除けのおまんじゅうをいただいて、 みんなで分けて、楽しかった☆ ついでに私だけこっそり日本再体験気分も満喫。 ありがたさの伝染 ・2009-10-28 中世芸能の発生 233 ふくらすずめ ・2010-05-15 中世芸能の発生 310 くすり 呪術 ・2010-05-14 中世芸能の発生 309 はやし はやす お相撲さんにさわったりすることも ・2010-09-24 中世芸能の発生 356 横綱と神木 ・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型 ・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応 ・2009-12-08 中世芸能の発生 260 呪術・宗教と身体感覚 ・2010-02-14 中世芸能の発生 295 奄美のユミグトゥ(ヨミゴト) ・2010-03-05 中世芸能の発生 292 海幸山幸(ウミサチヤマサチ) ことばの音 ・2011-02-24 中世芸能の発生 382 ビターオレンジ ダイダイ(橙) ・2008-06-01 自然と我 04 古代の信仰 ・2008-06-03 自然と我 06 古い時代における神聖とは、生命力・霊力の強さをいう。 清浄・タブーの神聖観念はそれよりも後。 ・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは) 日本の芸能は祝福(寿ぎ)の系譜。 横溢するチカラにあずかって、 イノチのゆさぶり、イノチを活発化しようとした呪術的行為(タマフリ)の系譜。 市(イチ)のこと ・2012-02-12 中世芸能の発生 424 市(イチ) ・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ ・2012-02-14 中世芸能の発生 426 道(ミチ)のチ つづく つづき 漢字より前からの古い時代の「チ」の音を含む語、例えば 「ミチ」(道)、「チ」(血)、「チチ」(乳)、「ヲロチ」(大蛇)、「イノチ」(命)、 等々は、 「チ」の音のあらわす種類の性質を内蔵するという感覚に基づき 「チ」の一音節を語根としたことば。 「チ」は チカラ の チ 命は「イ」の「チ」。 ・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花 古い時代からのことばの音の印象は、 古い時代の、共通する一音節の音を語根として含む語をいくつか並べてみると、 それらに共通する性質がいっそうよくわかり、 一音節自体の音の性質も理解できる。 例えば、「ヨ」の性質を含むもの。「ヨ」の性質。 世 代 夜 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ) ・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ 語の語根となり様々な語を形成している特徴的な一音節の 「イ」「チ」「二」「ヒ」「ヨ」等を含む名詞、動詞、形容詞、接頭語、神名等を見ると、 文字より前の、古い時代の人々が、 何を神聖視してきたかがうかがえる。 それは固有物でない、 性質(昔の人にとっての霊質)であったと理解される。 「ホ」 花の穂 稲穂 祝ぐ(ほぐ 寿ぐ) 言祝ぐ(ことほぐ) 誉む(ほむ) ・2008-08-13 「ほ」を見る。 「チ」「二」「ヒ」 一音節 固有名詞にならないもの 土橋寛 ・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感 「ヒ」 ・2010-07-07 中世芸能の発生 335 固有名詞にならないもの 「ヒ」のこと ・2010-02-17 中世芸能の発生 284 ハタ ヒレ ・2010-02-18 中世芸能の発生 285 ヒ ヒル ヒヒル 蝶 ・2010-02-19 中世芸能の発生 286 ヒレ ヒラ ヒレ有る骨柄 ・2010-02-20 中世芸能の発生 287 ヒロメク 蛇 剣 「キ」のこと ・2011-09-05 中世芸能の発生 412 キ(木) 毛(ケ) キ・ケ(気) 「ニ」のこと 匂う(ニホフ) 丹(ニ) ニフブ(和ぶ 柔和) ニコニコ ・2010-02-13 中世芸能の発生 280 ニフ 土地 ・2010-02-13 中世芸能の発生 278 ニコニコ ニフブ 笑む 古代における神聖とは、横溢する生命力・霊力の強さ ・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは) ・2012-02-12 中世芸能の発生 424 市(イチ) ・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ ・ 2012-02-15 中世芸能の発生 427 厄除けのおまんじゅうの分配 ・2010-05-17 中世芸能の発生 312 ことばの神聖視 つづく < 前のページ次のページ >
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