佐保山 大伴邸




つづき


奈良盆地、平城京の北側には、丘陵が横たわっている。

東西に伸びて奈良と京都の国を分けるゆるかなこの山(というか丘陵)全体を、
平城山(ならやま、奈良山)という。

平城山のまんなかあたりから東側は佐保山、西側は佐紀山と呼ばれてきた。
平城山全体には、古墳が50個ほどもあるそうだ。

一歩ひいて京を見下ろす南面の丘。
古墳も作りくなるだろう。


現在は佐保山佐紀山の間を、国道24号線、JR関西本線が通り、京都へ抜ける。






佐保山には多くの人が葬られた。
佐保に屋敷のあった大伴家持の妾(おんな・妻)も。
家持の空想という説もある。


妾が死に、家持が詠んだ歌。

昔こそ 外(よそ)にも見しか 我妹子が 奥つきと思へば 愛(は)しき佐保山

(訳)
昔こそ 無縁なものとして見ていたが わが妻の 墓所と思うと いとしい佐保山だ




出でて行く 道知らませば あらかじめ 妹を留めむ 塞(せき)も置かましを

(訳)
あの世へ出て行く 道を知っていたら あらかじめ 妻を留める 塞(せき)も置いたのに




佐保山に たなびく霞 見るごとに 妹を思い出(い)で 泣かぬ日はなし

(訳)
佐保山に たなびく霞を見るたびに 妻を思い出し 泣かぬ日はない




我がやどに 花そ咲きたる そを見れど 心も行(ゆ)かず
愛(は)しきやし 妹がありせば 水鴨(みかも)なす 二人並び居(ならびい)
手折りても 見せましものを 
うつせみの 借(か)れる身なれば 露霜(つゆしも)の 消(け)ぬるがごとく 
あしひきの 山道(やまぢ)をさして 入日(いりひ)なす 隠(かく)りにしかば 
そこ思(おも)ふに 胸こそ痛き 言ひも得ず 名付けも知らず 
跡もなき 世の中なれば 為(せ)むすべもなし


(訳)
我が庭に 花が咲いている それを見ても 心は晴れない
いとしい 妻が生きていたら 鴨のように 二人寄り添い
手折って 見せもしように
(うつせみの・現世の)仮の身なので 露や霜が 消えゆくように
(あしひきの)山道をさして 入日のように 隠れてしまったので
それを思うと 胸がいたい 言いようもなく 例えようもない
はかない この世のことだから どうすることもできない

             参考:完訳 日本の古典 第二巻 万葉集(一) 小学館




肩を寄せ合って

花を見たのか。



“十一年己卯の夏六月、大伴宿禰家持、
亡ぎにし(すぎにし)妾(をみなめ)を悲傷びて(かなしびて)”

739年。家持は22才。






たくづのの、の枕詞ではじまる大伴坂上郎女の、
新羅の国から渡ってきた尼、理願の死を悲嘆して作った歌も。


話し合う親兄弟とていないこの国に渡って来られて
都にぎっしりと 里や家はたくさんあるのに
佐保の山辺に家をつくり 長く住みつづけていらっしゃって
頼りにしていた人々が旅に出ている間に
佐保川を朝渡り 春日野を後ろに見ながら
山辺をさして 夕闇のように隠れてしまわれたので
言うすべもするすべもなく 白い喪服の袖も乾かないほど嘆き続けて

                            (訳 略)



新羅の国の尼僧、理願は、
大伴家持の祖父、大伴安麻呂の佐保の邸に住まいし、
数十年をすごされた。




山隠る。
山辺をさして隠りましぬれ。

山にはそういう一面がある。




佐保の美しい自然を詠んだ歌もたくさんある。


“昔こそ 外(よそ)にも見しか”
妻が亡くなる前は、気に留めず見ていた佐保山。

佐保の大伴の邸は、法蓮町のあたりと思われる。
今は住宅たくさんだけど。


佐保山が少しせり出すあたりだろうか。
邸の後ろの佐保山に妻(坂上大郎女でない)を葬ったとしたら。

宮のほど近く、宮へ出仕し、佐保の川に親しみ、歌をよみ、
それまでは佐保山を眺めていたところ。


古の人々は、
自然に寄せて心を詠った。




つづき
by moriheiku | 2007-11-12 08:00 | 歴史と旅
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