八心思兼神


日本語からみえる物事の捉え方に、あれこれ感じるところ。

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こういう関係から、日本の昔の文章には、一篇の文章の中に、同時に三つも四つもの意味が、兼ねて表現されている。ちょっと見ると、ある一つのことを表現しているようでも、その論理をたぐってゆくと、譬喩的にいくつもの表現が、連続して表されていることを発見する。しかも、作者としては、そうした多数の発想を同時に、かつ直接にしているのであって、その間に主属の関係を認めていない。これがそもそも、八心思兼神(やごころおもいかねのかみ)の現れる理由である。思兼神とはたくさんの心をかねて、思う心を完全に表現する、祝詞(のりと)を案出する神である。つまり、祝詞の神の純化したものである。こういうふうに、日本の古い文章では、表現は一つであっても、その表現の目的および効力は複数的で、同時に全体的なのである。

(中略)

見かけはすこぶる単純なようでも、その効力は、四方八方に及ぶのが、祝詞的発想法の特色であって、この意味において、私は祝詞ほど、暗示の豊かな文章はないと思う。
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折口信夫(著) 『古代研究(2) 祝詞の発生』 の「神道に現れた民族論理」より



八心思兼神(やごころおもいかねのかみ)。。

ぷ。ぷぷぷ。





しかし、私は、この文章は。
この文章が水としたら、その水の振動が伝わるように、私の中の水が振動する。


自分がそういう方向のものだからだと思う。
こうした日本人らしい感覚を常に意識していることはない。
けれど私は、
一つを限定し追求していくことでは、表したいことは現せない。

多くを兼ねて表したい形が現れる。
その中に満ちる。拡散型。

そうして表すことが一番直接的。



それをあいまいと見る人もいるだろう。
それは受け取る力の違いだ。

外国人にとって日本の余白の多いアシンメトリーな美がわかりずらいように。
私にとって、構築的な美がわかりづらいように。



これは

“そうした多数の発想を同時に、かつ直接にしているのであって、
 その間に主属の関係を認めていない。”
のだが、

受け取る側が、自分を投影した主属の関係をそこにいちいちあてはめて見たら、
まったく違うものになって、全体の形は見えない。
もちろん表れる姿に同調しようもない。


また、自分はわかる、という厚顔さは無辺でないことの表れで、
その思い込みはまさに限定すること。
全体のありようからまったくかけはなれている。



折口の一文のような、こうした文章が読めるなんて幸運。えがたいな。
by moriheiku | 2007-07-16 08:00 | 言葉と本のまわり
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