机上の空論



お風呂で、ふんふん恋のを歌っていた。
なんちゅーご自分様中心の恋の歌♪
と思いながら。

思いながら、
私は誰かのために死ねるか、とかつらつら思った。


多くの親は、自分の子供のために死ねるというが。
私に子供はいないので、甥のりょがおは、どうだろう。


ああ、死ねるね。

と思う。


私はりょがおに命をあげたっていい。


そんなにかわいがっているわけでもないけれど。
例えば、りょがおに内臓をやらなければりょがおが死ぬなら、
りょがおに内臓をあげて私は、一時間後に死んでいていい。

だって、りょがおは小さいからね。

これから色んなものを見ればいい。

友達とけんかしたり、乗りこえたり、
転んで泣いたり、おいしいと思ったり、
何かを好きになったり、、
季節がうつる喜びを感じたり、
していけばいい。



記録や話で聞くような、
ほんとにどうでもいいような事情で切腹させられた、
見届けたかったものを多く持っていた武士などにも、
そう思ったりすることがある。


そんな気持ちは、
たとえば、知らない人のどこまでに、持続できるかな。
追求もしないけど。



でも、
あまりにも、むごい死にかたをするのだとしたら、考えてしまう。
その程度なのか。甘すぎる。




ミスチルの歌の中で、

「例えば誰か一人の命と
 引き換えに世界を救えるとして
 僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ

 愛すべきたくさんの人たちが、
 ぼくを臆病者に変えてしまったんだ」

っていうのあった。

そうしたら、私は、名乗り出ようか。
引き換えとは、やな言葉。

自分が名乗り出ることを、引き換えとは思わない。
引き換えじゃないでしょう。




でもこの死に方は。
あまたの、意味もわからず死ぬしかなかった死と比較すれば、
意味づけしやすい、
わかりやすくて、理解しやすい死じゃないか。

本人は、意味を納得して、死に向かえる。
周囲にとっても、意味づけしやすく、立ち直りやすい。
むしろ、めぐまれた死になる側面があるかもしれない。



誰かのため、自分のために死を選ぶ心と、
自分のために、誰かのために、
責任を持って強く生き抜こうと決意する心の方との、違いはなに?

無責任?
どうして、誰かのため、自分のために死を選ぶ意志を、
間違っている、悪いと言える?

そこを、ほんとうのところ、私は、わからない。



私は、何度も何度も何度も何度も、
一つの細胞の死よりもささやかな死を、
日常で、仕事で、幾度も練習してきているような気がする。
自分を消して仕事全体を生かす。
別の形で生きることの練習。

本当の死はそんな甘っちょろい浅はかなもんじゃないっていうのに。



人は死ぬ。どうか生きていてほしいと願われている人もその時がくる。
誰かや私が消えることで、誰かの心が動くかもしれないけど。
もっと切実なものが助かるなら、もっと切実なものがあるなら、
自分は死んでいい、


とまあ、そんなふうにつらつら思うのは、
自分が人の形で生きているのと、
死んで空気の一部や炭素や、水になるのと、
なにか違うの? と思うから。
そう感じるから。

即物的すぎるのか。





生死のこと、机上の空論で、あれこれできるほど、
私は今幸福に過ごさせてもらっているのだろう。
それで、いざという時、うんとうんとじたばたするのだろう。




私は、底冷えがするほど、
人の心の大切なものを、わからないのだろう。
どうしてこんなにわからないのかと思う。
これからわかるかな。
わかるようになるのはこわい。
こわくない、と自分に言い聞かせる。




─── <夕食> ────







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by moriheiku | 2007-02-05 08:00 | つれづれ
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