中世芸能の発生 455 貨幣 勧進 大仏造営


つづき


幕藩体制の終了で、母方の当主さんが江戸から地元へ戻った時、
(今でいう)退職金の一部が牛だったという。生きている牛。
貨幣より前の、物がやり取りされていた時代を、少し身近に思った。



日本人にお金とお金の概念が知られはじめた初期には、
貨幣による物の流通は定着しなかった。
租税もお金で納めるのでなく物だったのだから。

物の交換になれていた人々は、
物とは違って、
それ自体の価値ではない価値で流通するお金というものによる流通の不思議さを、
お金にまつわる不思議な力と理解した。

そのため人々はお金を、不思議な力のあるものとして、
お金が手元に来てもお金として使わず、祀って大切にし、
実際には相変わらず物での流通がつづいた。
初期の貨幣は祭祀の場所から出土している。

奈良時代に富本銭が鋳造されたが、
経済活動の貨幣としては出回らなかったようだ。

中世になると、経済活動の中での貨幣として宋銭が流通している。
市で出回っていたようだ。
でもまだまだ経済全体では物での支払い物の交換の方がメジャー。


時代が下るにしたがって、
布教と寺社運営のための社寺の勧進活動が盛んになっていった。

奈良時代は作善として、労働力の提供が多かった。
その提供された労働力が集合し多くの土木工事が行われた。

人々は神仏に救いを求め、
滅罪や亡者の鎮魂のため、また徳を積み往生を願い、勧進作善に参加した。

一人一人の小さな作善を集めて大きなものをなすということにも、
宗教的に重要な意味があったのもその理由だ。

行基のような優婆塞(私度僧)達が、勧進で人々をいざなって盛んに行った
橋を架ける、道を作るなどの大規模工事は、
宗教的思想の実践でもある会福祉事業。

井戸を掘り、池を作り、道を作り、橋を作る。福祉施設を作り運営する。
後の時代までも勧進の僧、聖たちの多くが、
土木工事のプロデューサーでもあったゆえんだ。

自然居士 勧進の優婆塞 プロモーター ヒーロー 芸能
・2008/09/25 中世芸能の発生 29 勧進聖 自然居士
・2008/07/21 中世 07 芸能の独立
お能の設定にはこうした立場の人々への共感があるようだ


貴族は布施として物や写経を喜捨して後生を祈ることができたけれども、
民衆はささやかな物と、あとは自分の労働力を喜捨、作善とし、後生を願った。



聖武天皇は大仏を建立するにあたって詔(みことのり)を出し、
全ての人々に大仏造営の参加を呼び掛けた。
一枝の草、一把の土を持ってと。

全ての人が参加し一つの何事かを作り上げることは、
当時の仏教の実践でもあり、
古来の信仰を映した国のありかたの理想でもあった。

聖武天皇は官の認めた正式な僧でない私度僧の行基に、
大仏造営の協力を依頼している。

行基は、仏教を説き各地で福祉と大規模土木工事等を行い、
民衆の支持を広く集めていた。

聖武天皇が、朝廷が取り締まる対象ともなる私度僧の行基に
大仏建立への協力を依頼したのは、
単に行基のもとに集まる大勢の労働力だけをあてにしただけのものではなかった。

聖武天皇にとって、行基とそこに参加する人々のようなありようが、
華厳の教えや、古来の民俗信仰にある
無数の個あるいは森羅万象が結び合い一つの世界を成しているという理想の世界に
かなうものだったから。

行基
・2010-05-10 中世芸能の発生 305 勧進と芸能
作善 芸能の芸術化




行基とそこに参加する人々のありようは、
聖武天皇の願った国のありかたの理想に近かった。

聖武天皇にとっては、
どんな方法でもいいから大仏を完成させるのではなく、
人々が広く大仏の建立に参加することに意味があるった。
そのための詔の一文だ。

大仏の造営に皆自発的に関わった人々が実際どのくらいいたかはわからないが。


こうした大仏建立の例に見られるように、
奈良時代には労働力を喜捨とすることはめずらしいことではなかった。




古来の信仰の体系をベースにして渡来の制度をあてはめた律令制度は、
社会・思想の変化にともなって、奈良時代後期には崩壊しつつあった。

神祇信仰と租税の徴収
・2008/09/05 中世芸能の発生 05 神祇信仰と租税徴収
律令制度の崩壊 芸能者の立場の変化
・2010-02-05 中世芸能の発生 269 「神聖」の観念の変化


律令制度の崩壊により寺社は、それまで受けていた国による庇護を失った。
寺社は寺社維持のため、自身での経済活動が必要となった。

大きな寺社は貴族同様各地に大規模荘園を所有しそこから利益を受けるようになるが、
平安時後半には荘園制度も崩壊。
不安定な時代、戦乱も続き、社寺が焼かれたり壊されたりもした。

そのため、もとは仏の教えを知らせ、
人々を仏教にいざなう布教のための勧進活動は、
寺社の維持のため喜捨を募ることにより重きが置かれるようになった。

布施や喜捨の内容も、
仏教の慈悲の実践としての
(今でいうところの)社会福祉活動)への作善、労働力の提供よりも、物へ、
物よりもお金、へと変化していった。
※融通念仏 リンク



僧や聖、比丘尼他、彼らのような宗教性を帯びた人々が
各地を巡って行った勧進の活動は、
より人々を招くことが必要。

経典の教えを知らせ、霊験を説き、
人々の信心と同時に喜捨を募るため行われた勧進の芸能、歌や語りなどは、
より耳目を集めやすく共感(と喜捨)を得やすいものへと工夫され、
勧進の芸能化、興業化が進んだ。

中世芸能の担い手 説経 唱導 勧進 
・2009-05-25 中世芸能の発生 133 俗の土壌
・2009-05-28 中世芸能の発生 136 優しい誤解

後生を願い救いを得たいと勧進の場に集う人々を信仰に招くため、
勧進をする側は、難解な経典の内容を、
人々にとって身近な話題に置き換え物語化したり、
派手になったり、涙を誘ったり、
訴えかける抑揚や動作をつけたり、洗練されたりして、
芸能がさまざまに展開していった。



天岩戸の神話のアメノウズメノミコトのあそびや神楽に象徴されているるように、
古くは芸能は、
あらゆるものを活気づけ、命を活発化、再生させることが期待された
タマフリの実感的習俗だった。

古い時代の対象に直接働きかけ効果を期待された呪術的性質のもの。
・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽

霊や神仏の概念ができてからは、
イノチを活発化させる芸能は霊や神仏をよろこばせなぐさめるものにもなった
(結果として荒ぶる霊や神仏は鎮まるという考え方 鎮め、鎮魂)。

イノチを活気づけるたまふりや神仏や霊にささげる呪術性宗教性を帯びた芸能は、
人々の生活や願いとともに、広く一般化していった。


平安時代に京で猿楽が、それまで一対で行われてきた法会と離れ、
猿楽だけで単独に上演された記録などある。
芸能は、布教のための俗化をしながら、
同時に宗教から離れていくことになった。

宗教と芸能が未分化だった時代は過ぎて、芸能は、
人々へ宗教の周知の役割を持ちながら 同時に宗教と芸能の分離を内包している。
それは、芸能から芸術への分岐にも見える。
・2010-12-01 中世芸能の発生 368 今様

芸能のはじまりの性質上、
完全に宗教と芸能が離れるのはまだうんと後だけど。



信仰や宗教と分離していった芸能。
喜捨されるお布施も、
信仰の意味での作善や喜捨でなく、
芸能への対価になっていく過程。


勧進の僧や聖の行う土木工事も、
民衆の自発的な小口の作善を集め皆で行うことに意味があるという段階から、

徐々に、物やお金による大口の喜捨を募って、
それを労働者に支払うものに変化していった。




経済活動が、
労働力や物の交換と流通の段階から、
貨幣の流通の段階に進み貨幣経済が定着するでには、
結構時間がかかってる。

宗教にかかわる経済は、
経済全体の変化のうちの一例にすぎないことだけれども、
ともかく貨幣経済が浸透には、
社会と意識の変化両方が必要だったんだ。




・2008-06-10 『身毒丸』 折口信夫 01
「田楽法師は、高足や刀玉見事に出来さいすりや、仏さまへの御奉公は十分に出来てるんぢや、と師匠が言はしつたぞ。」
田楽法師。護法童子の名を持つ人。
宗教者の末に連なる芸能の人たち。
遍歴し勧進する芸能する人たちを描いた描写。




静御前 白拍子
・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし
祝福芸。ことほぎ。
呪術的芸能から世俗的芸能へ。
それにともなう芸能する人々の立場の変遷。





全然歴史を知らない私。てさぐり勉強しはじめた頃。
あー成長しない。未だ終わらず。

遍歴する芸能者と商売 傀儡子と櫛 櫛宋銭と唐人(宋の商人)
・2009-01-30 中世芸能の発生 57 遍歴する人々と外国
中世の市には宋銭が流通していた。
宋銭は、日本列島の北から東南アジアまで広く流通していたそうだ。へー。 

勧進 経済の多様化 宋銭
・2008-09-25 中世芸能の発生 28 勧進

供御人 遍歴する人々の経済活動 宋銭
・2009-01-24 中世芸能の発生 53 供御人


こうしてみると、
貨幣が流通するようになった時期と理由が、少しだけわかった気がした。
2013年の今頃。




もー、一気に書いてめっちゃくちゃ。

あとでゆっくり打ちなおそ。



つづく
by moriheiku | 2013-08-22 08:00 | 歴史と旅
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