宮沢賢治「雨ニモマケズ」の、 ・・・ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ は、 自分の人生を精いっぱい生きながら、 ホメラレモセズ クニモサレズ 特別な人でない、自然の、森羅万象のうちの一部であることを望んでいるものに 私には聞こえる。 この詩には、我への注視にとどまらない視点がある。 私は特に宮沢賢治のファンということはなく詳しくないけど。 この人の詩を文章を読むと、 個人からの視点と同時に、それをはるかに縦横にとりまく世界の視点があり、 この人は何か、ある執着を手放している人だという感覚を持つ。 (あ~~我ながらなんて非論理的ないいかた) (手放している、は、ネガティブな意味でも、ポジティブな意味でもない。 ただそうあるということ。) この詩には、我への注視にとどまらない視点がある。 篤い仏教徒の賢治にとってそれは、 仏の真理ということだったかもしれないけど。 他力本願 ・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い ・2012-02-27 他力本願 ・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること 他力本願は、 よく誤用されているように人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない。 自分の人生を生きることの否定でもない。 他力を本願とするということは、 自分もまた自分の判断の範疇をはるかにこえた めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという 強い自覚と、覚悟につながっているものだと思う。 遷宮 季節 細胞 くりかえす命への視点 ・2011-02-16 中世芸能の発生 380 輪廻 遷宮 遷都 古い森は、内で絶えず死と再生をくりかえし更新している、常に新しい森だ。 昔の人が、春夏秋冬をくりかえしめぐる季節に、死と再生、イノチの継続を見、 日月の周期にくりかえすイノチとイノチの継続を見ていた。 草木や動物や、大きいものにも小さいものにも、くりかえす生と死の循環を見ていた。 現代の日本人は、 体の細胞は絶えず死んで生まれてをくりかえしながら その人が保たれていることを学校などで習う。 細胞のことなど知らない昔の人が、 生と死をくりかえしてつづく命全体の循環を知っていたことの慧眼、 自然の全体性の実感を思う。 輪廻の思想は、こうした命の循環を 宗教的に解釈したものではないだろうか。 遷宮、古い時代の遷都も。 しづやしづ ことほぎ 命の再生への祝福と呪術 ・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし ・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ ヨミ トコヨ ヨム ヨゴト コヨミ 「よ」 ということば。 世 代 夜 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ) 他・・ 「よ」の音に感じられるのは「時」。 ただ「時間」のことでなく、 命とむすびついている「時」の感じ。 古い和歌や詞章に使われた「よ」には、 営々と栄えつづける時のイメージが重なっている。 ずいぶん昔の「よ」は、 現代のように時刻や、刻々と流れ刻まれる時間でない。 繰りかえし再生しつづける永遠の時のイメージで、 それは「命」のことだ。 古い時代の芸能。芸能者の役割。 ヨム人々 ホグ人々 芸能 ヨゴト 命の再生 和歌 ・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能 芸能のはじめ アメノウズメノミコトの神楽 天岩屋伝説 太陽の復活 ・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽 古い芸能につらぬかれる、死と再生の物語 ・2009-07-07 中世芸能の発生 166 死と再生の物語 ・2008-12-31 中世芸能の発生 47 谷行(たにこう) 宗教における死と再生 ・2009-07-06 中世芸能の発生 165 捨身
by moriheiku
| 2012-09-09 08:00
| 言葉と本のまわり
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