中世芸能の発生 444 古い芸能 くりかえす命への視点


つづき


私が居なくても世間に支障はきたさないという考え方は、誤解されがちだけれども、
自分や誰かの人生を軽視ししていることでなく、
全ての命全体への信頼と希望なのだってこと、
うまく説明できたらいいな。

宮沢賢治の「アメニモマケズ」のくだりまで、別角度から
も一回チャレンジしてみよう。



あらゆるものが様々なものと影響し合っている。

大きな関係性のうち、人と人との関係についていえば、
私ももちろん誰かとかかわりを持ち互いに影響し合って生きてる。

人と人の関係は、
助け合ったり学んだり、世話を焼いたり焼かれたり、
愛情を注いだり、反目したり、笑い合ったり共感したり、癒したり癒されたり・・etc。

私がケガをしたりいなくなれば、誰かが悲しみ、誰かは困り、
傷ついたりすることもあると思う。

ただ、喜びや楽しさ同様、悲しみや傷も含め、
それぞれのかけがえのない人生だと思う。

関係する人たちに自分のためにつらい気持ちを味あわせたくはないけど、
不慮の死なども含め自分が責任をとれないことは必ずある。

そうしたことにまで“自分”がその人をコントロールしようとすることは、
かけがえのないひとりひとりの人生に対して不遜と感じる。

人には人の人生と成長がある。
人は自分が接する様々の出来事を引き受け経験を血肉に変えながら、
その人自身の人生を生きる。
他者にできるのはそれに寄り添うことまで。

できるなら誰かの中にある悲しみや苦しみを
一滴も残さず肩代わりしたいと思ってもできない。
誰かのケガをこちらの体へまるごと移したくてもそれはできない。
ケガをした本人の身体でケガは治る。病気をして時には抗体ができる。

痛みを持って見つめながらも、周囲の人ができることは、
ひとりひとりが経験を血肉に変えていくのをフォローすることまでだ。


これは絶望や投げやりなことばに聞こえることがあるかもしれないけど、
必ずしも絶望や投げやりじゃない。

これはその人の命に対する信頼でもある。
と同時にその人も含まれる無数の
(生物無生物に限らない森羅万象という意味の)命全体の働きへの、信頼でもある。

個や我にだけ注視しない、
生と死をくりかえして循環する広い命全体のありように、希望がある。



無数のかけがえのない人生。
ひとりひとりの人生が、他に変えられない大切なものであること。

ひとりひとりを尊重することと、

私が何ら特別な人間でなく過去もこれからもいる無数の人のひとり、
無数の命のひとつだということは、
ぜんぜん相反しない。


私が居なくても大局に影響はないという気持ちは
ぜんぜん「あきらめ」じゃない。

私が居なくても世間に支障はきたさない、という考え方は、
自分を含むひとりひとりのかけがえのない人生に対する信頼であり、
また(生物無生物と限らない森羅万象という意味での)
命全体に対する信頼と希望だ。


その景色は、あきらめや絶望とは全くちがう。
命全体のありように対する信頼と、明るく澄んだ希望です。


ってことなんだけど。

やっぱりうまく言うことできなかったなー。

いつか言いたいこと、ことばにできるようになったらいいな。




私が居なくても世間に支障はきたさないという考え方について、
なぜすぐに、命や人生を軽んじているととらえられてしまうんだろう。

私は、すべてのものが私の判断の及ばない
広い関係性を持ってあることを、ただ思うんだけど。




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仏教と接点を持ち始めた頃の西洋では、

仏教は、仏教にある空(くう)の思想から、
虚無の思想をおしすすめるものと考えられて、
批判と恐れと対象になっていたそうだ。

空(くう)は無気力というふうに理解されていたらしい。


以前テレビで、仏教関連の著作のある五木寛之さんが、
アメリカのポジティブシンキングの著作を出されている方と話されているのを見た。

五木さんが五木さんの仏教の思想についてお話しされようとすると、
ポジティブシンキングさんは全て、
やればできると思うことだ、努力努力、目標に向かってやるんだ、やればできる
とばかりおっしゃって。
五木さんが話す考え方には、そんなのは意味がない、理解する必要なしの
最初っから最後までオール否定で、
ポジティブシンキングを教えてやってるって感じだったので、
私は思わず笑ってしまった。アハハハハ。
あまりにかみあう場所がない。受け入れることも理解する気持ちもない。
いや、ぜんぜん通じてないじゃん。お互いに。って。
無理もないか。人の考え方って違うものねーって思った。
第一人者だから、考え方は強固なのだ。
使命感だろうか、おそれだろうか。うむうむ。



他力本願について。
他力本願ということばが、
他の人やものの力をあてにして頼り自分の願いを叶えようとすることと解釈され
使われていることは不思議でしかたない。

仏教に親しくない人がはじめから他力本願を
如来の本願力と理解するなんてことはとうていないと思うけど。

それでも、どうして他力本願が、
他の人やものをあてにして頼ること、という意味ばかりになるのかな?
って思うけど。

もうすっかりその意味で定着して、違和感なく使われているってことかな。


私にとって他力を本願とすることのイメージは、

物事は自分の想像の範疇(自力)をはるかにこえた
めくるめくような相互の関わりの中にあり動いていることの
強い自覚のようなものだ。

自分の近視眼的なあるいは独善的な判断(我)を、
すべての主軸にしないとこと。

物事は、自分の範疇(自力)をこえて
はるかな相互の関わりの中で動いており、
自分もその中で生きているという自覚と覚悟
のイメージ。

(それは自分を生きることの否定ではないし、人生のあきらめでもない。)


まあこれも、しょーもない意味付けにすぎないけど。
しかし他力本願と聞いてイメージするこの考え方は
救いにつながっていることに驚く。
(近視眼的、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いとなる。)

私は仏教者じゃないので如来の本願ということばは使わないが、
他力本願ということば自体に、救いの響きがあるというか、
やはり救いにつながる考え方をこのことばが内包している感じがする。

で、こういうことを書く自分が、
つくづく論理性とかけはなれていること自覚する。



二つ前の日記で打った宮沢賢治「雨ニモマケズ」の、


・・・
東ニ病気ノコドモアレバ

行ツテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクワヤソシヨウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒデリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボウトヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハ

ナリタイ


は、
自分の人生を精いっぱい生きながら、
特別な人でない、自然の、森羅万象のうちの一部であることを望んでいるものに
今の私には聞こえる。

この詩には、我への注視にとどまらない視点がある。

私は特には宮沢賢治のファンではないけど、
この人の詩を文章を読むと、
個人からの視点と同時に、それをはるかにとりまく世界の視点があり、
この人は何か、ある執着を手放している人だという感覚を持つ。

(手放している、は、ネガティブな意味でも、ポジティブな意味でもない。
ただそうあるということ。)

この詩には、我への注視にとどまらない視点がある。

仏教徒の賢治にとってそれは、
仏の真理ということだったかもしれないけど。





遷宮  季節  細胞  くりかえす命への視点
・2011-02-16 中世芸能の発生 380 輪廻 遷宮 遷都
古い森は、内で絶えず死と再生をくりかえし更新している、常に新しい森だ。

昔の人が、春夏秋冬をくりかえしめぐる季節に、死と再生、イノチの継続を見、
日月の周期にくりかえすイノチとイノチの継続を見ていた。

草木や動物や、大きいものにも小さいものにも、くりかえす生と死の循環を見ていた。

現代の日本人は、
体の細胞は絶えず死んで生まれてをくりかえしながら
その人が保たれていることを学校などで習う。

細胞のことなど知らない昔の人が、
生と死をくりかえしてつづく命全体の循環を知っていたことの慧眼、
自然の全体性の実感を思う。

輪廻の思想は、こうした命の循環を
宗教的に解釈したものではないだろうか。

遷宮、古い時代の遷都も。




しづやしづ  ことほぎ  命の再生への祝福と呪術
・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし
 


・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ ヨミ トコヨ ヨム ヨゴト コヨミ
「よ」 ということば。
世 代 夜 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ) 他・・

「よ」の音に感じられるのは「時」。

ただ「時間」のことでなく、
命とむすびついている「時」の感じ。

古い和歌や詞章に使われた「よ」には、
営々と栄えつづける時のイメージが重なっている。

ずいぶん昔の「よ」は、
現代のように時刻や、刻々と流れ刻まれる時間でない。

繰りかえし再生しつづける永遠の時のイメージで、

それは「命」のことだ。




古い時代の芸能。芸能者の役割。  ヨム人々 ホグ人々 芸能 ヨゴト 命の再生 和歌
・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能

芸能のはじめ  アメノウズメノミコトの神楽  天岩屋伝説  太陽の復活 
・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽




古い芸能につらぬかれる、死と再生の物語
・2009-07-07 中世芸能の発生 166 死と再生の物語
・2008-12-31 中世芸能の発生 47 谷行(たにこう)

宗教における死と再生
・2009-07-06 中世芸能の発生 165 捨身




他力本願
・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-27 他力本願
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること



・2012-09-11 つづく
by moriheiku | 2012-09-08 08:00 | 歴史と旅
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