中世芸能の発生 430 他力本願 救い



つづき


万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。



私はある人の命が助かってほしいと強く願ったことがある。

もうだめだ、と思った時、

私は、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った。
たすけて、と。


その時、私は、
近視眼的な自分の判断のみに目を向けて、

自分の判断などはるかにこえる森羅万象の関わりの中で生きている、
自分もその一粒であるという共生の感覚を、
切り捨てた。その瞬間だったと思う。


あとに残る苦みは、
全体の命の中にあることを拒否し、切り離した、
独善的な自分への苦みだ。

・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願



この、自力をすべて投げ出すほどの絶望、というのを見て、
自分の力の限界を知って謙虚になったのだと解釈する人がいるけれども、
それはちがう。


自力をすべて投げ出すほど絶望することは、
独善的な自分の判断のみに目を向けて、
(独善的な自分の判断のみ信じて、)
自分の判断などはるかにこえた森羅万象の
大きな関わりの中にあることを否定し拒否すること。


自分のみに目を向けて、

自分の判断などはるかにこえる森羅万象の関わりの中で生きている、
自分もその一粒であるという共生の感覚を、切り捨てた。


私には、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った時が、
その時だった。




私が何か強い願いを持つ時の感覚は「“を”祈る」で、
どうしても「“に”祈る」と言えない。

私にとってはだけど、

どこかにある何か「に」(「へ」)祈ることは、

自分の卑近な判断をこえてはるかに関係し合っている
森羅万象の働きの中にあるということの否定。

無数に関係しあう森羅万象の働きを忘れ切り捨てて、
近視眼的な一見の利を求めることだ。



他力を本願とすることは、
誰かの力をあてにして生きるということでない。


一見自分にとって都合が良く感じられること、
都合の悪く感じられることはあるけれども。

他力を本願とするということは、
そうした人の卑近な判断や把握をこえた
近目には見えない森羅万象の大きな働きの中にいることを自覚すること。


良い悪いなどの判断の範疇にない交錯する無数のイノチ(動植物という意味でなく)の
関わりの中で生きて死ぬという自覚と覚悟が、

他力を本願とするということではないかと私には思える。




他力を本願とする(他力にゆだねて生きる)とは、
誰かの力をあてにして生きることでなく、
自分を生きることの否定でもない。

自分の独善的な判断をはるかにこえる、
森羅万象の関わりの中に自分もあるのだという自覚と覚悟だと思う。



それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。




かつて日本の仏教では、そのような感覚を、
如来の他力を本願とすると解釈したのではないかしらと私には思われる。




うーん。やっぱりうまく言えなかった。







だってだって、
「“に”祈る」 と 「“を”祈る」 は、全然、感覚が違うー。

こうした感覚の共感を、私は本の中の数行に見、万葉集の中に見る。








他力。 自他の分離のないこと。 自と他の関係性の中にあること。

万葉集。 神「を」祈る、という表現に見る、自他の分離 人と自然の分離
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏
・2010-08-26 中世芸能の発生 349 神「を」祈る イ罵(の)り
・2010-08-27 中世芸能の発生 350 神「を」祈る 神「を」祈(の)む
・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願

万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。

それより後現代にいたるまでの「神“に”祈る」という表現では、
神は自分から分離し、「対象」となっている。

それより前の時代の「神“を”祈る」は、神と自分が分離していない表現。

自然がひびけば自分もひびく(はやし)。
そのように、万葉集の時代までは、自他の境のない、
主客のない感覚の実感があったと思う。

境がないから「対象」とならない。
自然との境のない、個々に相対化しようのないものを祈る。

その後、自然と人の距離ができ、
自然を体感する身体感覚より優先するものができいって、
自他は分離していく。

自然と密だった素朴で実感的な信仰の時代を過ぎ、
哲学的、観念的な思想を持つ宗教が誕生展開して、
風土や身体感覚を離れて精神的な救済へ向かおうとする。


日本の信仰の特徴として、
木も石も全てのものに命が宿っている、とか、
森羅万象全てに仏性がある、という考え方をあげられるのを見聞きする。

私はそれは、
一人につき一つ心臓があるような、ひとつひとつに個別に神仏が宿るイメージでなく、
もともとは自他の境のないイノチの関係性の実感からきていたと思う。

念仏が溶け合って和合するかつての融通念仏の発想も、
そうした境のない感覚の影響があったと考える。





・2011-03-29 自然と人 わざわいもなぐさめも
人の生活は、自然に依存している。

自然の動きは、人にとって恵みとなる。人に大きな災害になる。
それでも人は、自然風土をベースに、自然に寄って生きている。

幼児が、おかあさんにおこられて、泣いて、
そのおかあさんにすがっていくように、

わざわいもなぐさめも、
自然の中にあるのだと思う。





自然の共感と信仰  自他の分離と宗教化

・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型
自然信仰の色の強い古い民俗信仰は、
一神教に相対するかたちで、多神教や汎神論と考えられることが多いけど、
そのようには思えない。

一神教、多神教、汎神論は、
やはり魂や神や概念ができてからのもの。
新しく感じられる。

原始的な信仰の原型は、主客の分かれないところにある。

神と人、のように個々に相対化しようのないもの、

自然との境のない、

主客のない感覚が、宗教の原型だったと思う。




・2008-06-03 自然と我 06
自然に畏敬の念をおぼえ、
自然のありように、止まずときめくとき、

原始的な感覚が、身体を通じて、意識の底からのぼってきて、

具体的に何を祈るということはないけれども、

自、他のはっきり分かれる前は、
自然や、後の時代の神仏に祈る時は、

同時に、自分の中の自然を祈っている。

日本の信仰のはじまりに、
そんなところはなかったか。




・2008-07-10 神仏習合思想と天台本覚論 01
姿の見えない鶯の声が、谷間をわたる。

ホケキョウ
ほほき ほほきい。
法喜 法喜 法華経。
誰かには、鶯の鳴も、ありがたいお経に聞いた。

私には命の声に聞こえる。
自然が鶯の声になって、そこに鳴っていると感じる

法華経は、女人成仏を説く。
日本の天台宗の本覚論は、草木成仏にも及ぶ。

日本の天台宗の本覚論は、
有情である人や動物だけでなく、
非情である草木にも仏性はあると考えた。

もとのインドの仏教の、
有情のものは、仏に近づく心を起こし、修行して成仏(悟り)に至る。
非情のものは、心自体を持っていないから、成仏(悟り)はしない。
という思想から、

有情のものは菩提心を起こし修行して
自分の中の仏性を取り出し成仏(悟り)に至る。
草木はそれ自身が仏性の現れとしてあり、
すでに成仏の資格がある(すでに悟りである)。

とするに至った。というところだろうか。

日本では、万物は、遠い仏に近づくのでなく、
むしろ全ての中にすでにある仏性に気付く。というような思想。

天台本覚論は、
知らず身体に沁みている、
日本の宗教以前の自然観でもある古来の信仰に、
仏教の言葉で説明をつけたものと言える気がする。

長い時代をかけ重ねられてきた信仰の習合の働きは、
ここでもまたなされる。

思想を重ね習合を成立させていった底にいつも生きつづけていたものは、
自然の実感であったと思う。






樹幹流 他力本願

・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-27 他力本願
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること
他力本願は、
よく誤用されているように
人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない。

自分の人生を生きることの否定でもない。

他力本願は、自分の運命は、
自分の判断の範疇をはるかにこえた

めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。

それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。




・2012-11-30 動物学者へのインタビュー
たとえば
もうどうにもならない目の前の一つの命の前に立った時、
私たちの心をほんとうに救うのは、その命をつなぎとめる奇跡でなく、
その命もまた私たちの想像の及ばない無数の関係性と全体性の中のひとつだという
現実の自覚ではないだろうか。
それは、ひとつの覚悟であり希望だ。

人もはるかに関係しあってきた自然の一部であるという現実に、
人も救われる。




・2012-12-01 遷宮 季節 細胞  くりかえし新しくなる命への視点



日本の信仰の流れ。 日本の命の概念。
・2013-02-06 日本の命の概念
日本の古来の命の考え方は、
大陸から入ってきた命の考え方とは違う。

大陸的な考え方では、命はもっぱら動物、また植物の生命のことを指す。
(今は日本人にもこれに近い考え方だろうか。)

古来の日本の命は、
その生命力、圧倒的な力、横溢するエネルギーのことを、命と感じていた。

したがって昔の日本では、山にも岩にも命がある。
滝も水の流れも、風も、命そのものだ。
光も、音も。何かの中におこる力や性質自体も。


ごく古い時代の日本のこうしたイノチの感覚がやがて、
日本における精霊やタマの概念になり、日本における神の概念になり、
仏教が入ってからは民俗信仰と習合した仏の概念になっていった。

かつて命はエネルギーのようなものに概念されていたので、
古い時代の日本では、命の概念で生物と無生物は分かれない。

したがって日本では、
森羅万象に命があり、森羅万象に神が宿り、
岩にも木にも仏がいるという理解になっていった。
日本の信仰の流れ。




万葉集。植物学者。他力の中の命のひとつ。
・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」

そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、
それが生き物としての人間の表現、

と、おっしゃって、
そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。

日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。

それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。
体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないようなものだ。

中世芸能が生まれるまでの、
芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、
自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。




・2012-12-02 関係性




・2010-07-01 ぜんぜん論理的じゃないこと
・2009-08-30 地続き
・2008-08-24 弓と自然





つづく
by moriheiku | 2012-02-28 08:00 | 歴史と旅
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