自分の子供の感性がいかに変わっているかということを、 とても自慢に思っているお母様がいらして、 変わっていると思われる部分をご両親に自慢に思ってもらえることは、 そのお子さんにとって幸運だと思った。 人が意識せず互いに理解しあう日常に、 人と異なる感覚を持っている人は孤独だろうと思う。 異なることの多い人は、 あたりまえの日常のひとつひとつに、理解されない孤独を持ちながら、 理解される部分で周囲と接して生きていくのだと思う。 しかしそういう人を本当に苦しめるのは、孤独ではないだろう。 意識せず理解しあえる人たちは互いに理解しあえるため、 理解や想像できないことを 自分たちの理解できる想像の範囲のものにおきかえることに疑問がない。 人と異なる部分を多く持っているひとは、 多数の人にとってあたり前の日常にも、 ああ思っているだろう、こう思っているんだろう、と 意識せず理解しあえる人たちの勝手に想像する姿で、不審に思われたり、誤解されたり、 その人たちの思うレッテルを貼られるのではないかと思う。 異なる部分の多い人を苦しめるのは、本質を共感しあえない孤独よりも、 誤解ではないかと思う。 多くの人々が共感できる範囲の中での個性、 というのが幸せなのではないかと思うことがある。 それでその時私はそのお母様の愛情に、まっすぐ共感することができなかった。 ああ。私はなんて。 でもその子もとってもいい子なので、大丈夫。 実りある楽しい人生になりますように。
by moriheiku
| 2011-08-10 08:00
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