中世芸能の発生 378 本歌取 擬態


つづき

本歌取りの歌は、現代では、
借りものや真似のように思われることがある。

本歌取りは、
歌に本歌の背景を重ねることで歌に深みや広がりをつける
歌の装飾の技法のひとつではあるけれど。

それが同時に、
詠み手の知識の深みの披露ということにもなりもしたけれど。


私は、本歌取りのようなことは、だいぶ古い時代には、

歌に本歌にあるイノチのチカラを
重ねるようなことだったと思う。

単にダブルイメージをねらうものでなく、
歌に本歌のイノチを入れるような。


良い本歌取りの歌は、
古くからずっと流れつづける世の上に、折々に花開く花のように、美しく見える。

本歌取りの歌には、
古来からずっと流れつづけている水流に連なる
めでたさがあったと私は思う。



たとえば、山辺赤人の歌が柿本人麻呂のパクリだという解釈は違うだろう。
同じフレーズであっても。

個人の独自の表現や個人の主張を披露するのが最もすばらしいこと、ではないのだ。
その時代は。

現代にイメージされる歌でない。

イノチを含むフレーズ。
イノチのある歌で、イノチをことほぎ、
揺り動かしてイノチをぴちぴちとさせる歌だから。

前の時代の人麻呂の歌の中にある強いイノチを重ねた
ことほぎ力の増強。

それによって一層ゆりうごかされれる。



古い歌や音のかたちを知ることは、
まねでなく、繰り返し続いてきたイノチにふれることのように感じられる。



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ちはやぶる
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仏教より前から信仰されていた古い神々は、
神とされる以前は魂や霊やものと考えられ、
それをさらにたどれば、それは神でも霊でも魂でもなく、

それは横溢する命の力。
自然に横溢する命の力を感じ、ただ自然に横溢する命の力へあこがれた。
その源にあるものは、自然という命の総体だったと思う。
・2010-02-03 命の全体性



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隣国であった万博でテーマソングやパビリオンなどに
よその国のものとそっくりなものがあったことは、

本歌取の奥底の感覚とは全く異なる行為で、借り物で、

もしイノチを重ねるような感覚があったなら、
決してしなかったことだろうと思った。





祭りで地域の誰かが神の役(擬態)をするものがある。
その時その人には神が重なっている神であるという考え方。
これは本歌取りと通じる考えで、
単に表面上の真似とはとらえらえられないところに成り立つ。
・2010-04-03 中世芸能の発生 300 俳優(わざおぎ) 神態(かみぶり) 流浪する芸能者




つづく
by moriheiku | 2011-01-25 08:00 | 歴史と旅
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