中世芸能の発生 350 神「を」祈る 神「を」祈(の)む


つづき


万葉集。神「を」祈る、の表現について。


万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。


万葉集中、神「を」祈るが用いられる歌いくつか。 ※現代語訳は神「に」祈る。

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巻第十三 三二八七
天地(あめつち)の神を祈りてわが恋ふる君いかならず逢はざらめやも (3287)

天地の神々にお祈りして、私の恋するあなたは、必ず、どうして、私に逢わぬことがあろう。

・神を祈りて 神乎禱而
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巻第六 九二〇
あしひきの み山もさやに 落ち激(たぎ)つ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺(かみへ)には 千鳥数(しば)鳴き 下辺(したへ)には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人(おおみやびと)も をちこちに 繁(しじ)にしあれば 見るごとに あやに羨(とも)しみ 玉葛(たまかづら) 絶ゆること無く 万代(よろづよ)に かくしもがもと 天地(あめつち)の 神をそ祈る 畏(かしこ)くあれども(920)

あしひきのみ山もさやかにこだまして、落ち流れる吉野川の、川瀬の清らかなさまを見ると、上流の瀬には千鳥がしきりに鳴き、下流の瀬には蛙が妻をよんで鳴く。ももしきの大宮人たちも、あちこちと大勢が遊んでいるので、目にするたびに心もそぞろにひかれる。そこで玉葛の絶えることがないように万年の後もかくあれと、天地の神々に祈ることだ。恐れおおくはあるが。

・あやに羨(とも)しみ  織り目も美しい綾(あや)あやしいほどに美しいので。
・神をそ祈る 神乎曽禱
・玉葛(たまかづら) 美しい蔓草。絶えないの意に続く。
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同じ歌
・ 2010-08-15 中世芸能の発生 337 綾 玉葛 水流



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巻第十三 三三〇六
いかにして恋ひ止(や)むものぞ天地(あめつち)の神を祈(いの)れど吾(あ)は思ひ益(まさ)る (3306)

どうしたら恋の苦しさはやむものだあろう。天地の神を祈るけれど、私は思いがつのることだ。

・神を祈れど 神乎禱迹
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巻第二十 四三七〇
霰降(あられふ)り 鹿島(かしま)の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)にわれは来(き)にしを (4370)

霰降り鹿島の神に祈願をこめて、天皇の軍に私は加わってきたものを。。

・鹿島の神を祈りつつ  可志麻能可美乎 伊能利都〻
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巻第二十 四三七四
天地(あめつち)の神を祈りて征矢(さつや)貫(ぬ)き筑紫の島をさして行くわれは (4374)

天地の神々に無事を祈って、矢を靱(ゆぎ)に貫き、筑紫の島目ざして行く。私は。

・天地の神を祈りて 可美乎伊乃里弖
・本来サツ(幸)矢は狩の矢。戦の矢はソ(征)矢。ここは矢の総称か。
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サチについて。
・2010-03-04 中世芸能の発生 291 サチ 弓矢 狩人 開山伝承
・2010-03-05 中世芸能の発生 292 海幸山幸(ウミサチヤマサチ) ことばの音




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巻第十一 二六六〇
夜並(よなら)べて君を来(き)ませとちはやぶる神の社(やしろ)を祈(の)まぬ日は無し (2660)

毎夜続けてあの方よいらっしゃいと、神威ある神の社に祈らない日はない。

・ちはやぶる 逸速ブルの意味で神の形容
・神の社を 神社乎
・ノムは元来、首を前に出す動作、よって祈る
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ノムは元来、首を前に出す動作、よって祈る、とある。



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巻第十一 二六六二
吾妹子(わぎもこ)にまた逢はむとちはやぶる神の社を祈(の)まぬ日は無し (2662)

吾妹子にまたも逢いたいと、神威ある神の社に祈らない日はない。

・ちはやぶる 逸速ブルの意味で神の形容
・神の社を 神社乎
・ノムは元来、首を前に出す動作、よって祈る
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ちはやぶる
・2008-10-03 中世の人の感性



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巻第三 四四三
天雲(あまくも)の 向伏す国の 武士(ますらを)と いはゆる人は 皇祖(すめろき)の 神の御門(みかど)に 外(と)の重(へ)に 立ち候(さむら)ひ 内(うち)の重(へ)に 仕へ奉(まつ)り 玉葛(たまかづら) いや遠長(とほなが)く 祖(おや)の名も 継(つ)ぎゆくものと 母父(ははちち)に 妻(つま)に子等(こども)に 語らひて 立ちにし日より 垂父根(たらちね)の 母の命(みこと)は 斎瓮(いはひべ)を 前にすゑ置きて 片手には 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和細布(にきたへ)奉(まつ)り 平(たひ)らけく ま幸(さき)くませと 天地(あめつち)の 神祇(かみ)を乞(こ)ひ禱(の)み いかならむ 歳の月日か つつじ花 香(にほ)へる君が 牛留鳥(をしどり)の なづさひ来むと 立ちてゐて 待ちけむ人は 大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 押し照る 難波(なには)の国に あらたまの 年経(ふ)るまでに 白栲(しろたへ)の 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜(つゆしも)の 置きてゆきけむ 時にあらずして (443)


天雲が遠く地平につらなる国の勇敢な男といわれる人は、天皇の神の宮殿の、外の御門を立ち守り、宮の中ではお側近く仕え、美しい葛のようにいよいよ末長く、父祖の伝えた名をうけついでゆくものだと、父母妻子に語って故郷を出発した。その日以来、はぐくみ育てた母君は、神酒のかめを前に据え、片手には木綿の幣(しで)を、もう一方の手には和栲を捧げ、わが子が事もなく健やかにいるようにと、天地の神々に祈り、いつの日にか、つづじ花のごとく晴れやかなわが子が、長の旅路を帰りつくことかと、立っても座っても待っていただろうが、そのあなたは天皇の御命令をかしこんで、光り照りわたる難波の国に、あらたまの幾年もの間、白い布の衣も脱ぐ時とてなく、朝夕をはげんで来た。ところがあなたは、どう考えておられたのだろう、現実の命惜しいこの世を、露霜のように置いて死んでしまったなあ。天寿を全うしないで。

・神祇(かみ)を乞(こ)ひ禱(の)み 神祇乞禱
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死んでしまった息子を待っていた母、父、彼の妻子。

丈部龍麿は、班田の管理を担当する官吏として、摂津(難波)に赴いた。
神(天皇)の御門(みかど)にお仕えするのだ、
天皇のみこと(御言)を全うし末長く父祖の名を継いでいくのだと、
さっそうと国を出てきた。

国の母は息子が健やかであるように、
神酒のかめを前に据えて、片手には木綿(ゆふ)の幣(しで)を、
もう一方の手には和栲(にぎたへ)を捧げ、天地の神々を祈って待っていたのに。

この歌を見ると、ことさら熱心にまじめに働きすぎたのだろうか、
どんな思いをしていたのか。
龍麿は首をくくって死んでしまった。


丈部龍麿の母が、息子の健やかであることを天地の神々を祈る時に手に持っていた
木綿(ゆふ)の幣(しで)、和栲(にぎたへ)の幣(ぬさ)。

栲(たへ)は、麻、楮、藤など日本に古来からある植物を原料に作られた布。
同じ原料を用いて織られた倭文(しつ しづ しず)よりも新しい、
倭文より目の細かいような布と思われる。
和栲(にぎたへ)は、荒栲(あらたへ)よりもさらに柔らかい目の細かい栲か。


木綿(ゆふ)は、栲(たへ)、倭文(しつ しづ しず)の原料と同じ
麻、楮(こうぞ)などの繊維をたばね取り付け、
祓の串や依り代となる垂(しで)にしたもの。

白い木綿を取り付けた木綿垂(ゆふしで)は、
白い花が咲きだすようだから木綿花と言われた。

龍麿の母は、神を祈り、イノチをふる木綿(ゆふ)の花に
神々の「ほ」を、幸いのあらわれをみていたかもしれないのに。

・2008-08-13 「ほ」を見る。
・2008-03-23 春の黄の花木 マンサク
・2012-02-16 中世芸能の発生 428 「ホ」 穂(ほ) 寿(ほ)ぐ 誉(ほ)む 言祝ぎ(ことほぎ)




「天地(あめつち)の神を祈りて」の表現に、
あまねくある神々の印象がある。

万葉の人々は、
例えば天上などどこか「に」いる神に向かって祈るのでなく、
すべてにいきわたっている神「を」祈る感覚があったと思う。

歌のひびきから受ける印象はそう。


以上、万葉集中の神「を」祈るの表現からも、
万葉時代の人々にとって神は
自分から分離した客観的な「対象」になっておらず、
天地にあまねくあって自分にもある、
万葉の人々の、自と他が未分化の感覚を見ることができると思う。

・2009-11-08 中世芸能の発生 239 さぶるこころさまねし


このことは、相対化され個別化していく霊や神の概念以前の、
自他の境のない、
ものごとが融通している世界観(身体感)の名残と思う。

力説。孤軍奮闘か。にゃはは。






参考:中西進(著)『万葉集』



上記、神「を」祈る 神「を」祈(の)む 各歌は、
万葉仮名が「を」の音だと私でも確認できるものをできるだけ選んだ。
443の歌が、
神祇乞禱を神祇(かみ)「を」乞(こ)ひ禱(の)みと読むことは、
他の神を祈る歌の用例からあてられてきたと思う。






多くの人が目にする万葉集の現代語訳も、
神「に」祈るとするのでなく本来の神「を」祈ると訳したらいいのに。
だって「神“に”祈る」 と 「神“を”祈る」 では、全然、感覚が違う。
違う意味になるから。







・2008-06-01 自然と我 04 古代の信仰
・2010-06-03 中世芸能の発生 318 息にわがする 息のように深く
・2010-08-16 中世芸能の発生 338 メモ




万葉集。 神「を」祈る、の表現について。 自他の分離 人と自然の分離
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏
・2010-08-26 中世芸能の発生 349 神「を」祈る イ罵(の)り
・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願
万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。

後の時代から現代にいたるまでの表現「神“に”祈る」の場合、
神は自分から分離して「対象」になっている。

それより前の「神“を”祈る」は、神と自分が分離していない表現。

自然がひびけば自分もひびく(はやし)。
大昔は、自他の境のない、主客のない感覚があったと思う。

境がないから「対象」とならない。
自然との境のない、個々に相対化しようのないものだ。

自然と人の距離ができ自然を体感することから離れ、
身体感覚より優先するものができいって、
自他は分離していく。

自然と密だった原始的、実感的な信仰の時代を過ぎ、
やがて哲学的、観念的な思想を持つ宗教が誕生し、
風土や身体感覚を超えた精神的な救済へ向かおうとする。


日本の信仰の特徴として、
木も石も全てのものに命が宿っている、とか、
森羅万象全てに仏性がある、という考え方をあげられているのをよく見る。

私はそれは、
一人につき一つ心臓があるような、個別に神仏が宿るイメージでなく、
もともとは自他の境のないイノチの実感からきていたと思う。

念仏が溶け合って和合する融通念仏の発想も、
そんな感覚が影響していたと考える。




・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型
自然信仰の色の強い古い民俗信仰は、
一神教に相対するかたちで、多神教や汎神論と考えられることが多いけど、
そのようには思えない。

一神教、多神教、汎神論は、
やはり魂や神や概念ができてからのもの。
新しく感じられる。

原始的な信仰の原型は、主客の分かれないところにある。

神と人、のように個々に相対化しようのないもの、

自然との境のない、
主客のない感覚が、宗教の原型だったと思う。




・2008-06-03 自然と我 06
自然に畏敬の念をおぼえ、
自然のありように、止まずときめくとき、

原始的な感覚が、身体を通じて、意識の底からのぼってきて、
具体的に何を祈るということはないけれども、

自、他のはっきり分かれる前は、

自然や、後の時代の神仏に祈る時は、

同時に、自分の中の自然を祈っている。

日本の信仰のはじまりに、
そんなところはなかったか。





倭文 木綿 栲
・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし
・2010-08-19 中世芸能の発生 341 倭文(しつ しづ しず 倭文織)








・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-27 他力本願
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること
他力本願は、人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない。
自分の人生を生きることの否定でもない。

他力本願は、
自分の運命は、自分の判断の範疇をはるかにこえた
めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。

それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。





つづく
by moriheiku | 2010-08-27 15:31 | 歴史と旅
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