中世芸能の発生 349 神「を」祈る イ罵(の)り


つづく


土橋寛『日本語に探る古代信仰』より「神を祈る」一部抜粋。

“ 人間は願いごとを聞き届けて下さるよう、種々の幣物を供えて神に祈る。現代の言葉では「神に祈る」というが、『万葉集』では「神を祈る」と表現しているのである。”

すべて「神を祈る」と表現しており、「神に祈る」という例は一つもないとのことで、

“「神に祈る」と「神を祈る」との違いは、人間と神との関係が遠いか近いかによるものであろう。それは「妹に恋ふ」と「妹を思ふ」との関係に類比することのできるもので、前者は妹が遠い存在である場合のことであり、後者は妹がすでに自分のものになっている場合である。我々が「神に祈る」のは、神が祭礼の時以外は縁遠い存在だからであり、万葉人が「神を祈る」というのは、神を身近な存在として、日常的にも祈ったり祭ったりしていたからであろう。そしてそのような意識の源流を辿ってゆくと、「祈り」からさきに述べた「イ罵り」に近づいてゆくのではあるまいか。”


万葉人にとって神が、現代人にとっての神より近い存在で、
「神を祈る」表現になっているのはきっとその通りで、

(大変僭越とわかっているけれど)さらにいうなら、私は、
その近さは、距離の近さというよりは、
神と人との未分化の状態だったと思う。


神と人だけが未分化だったのでなく、
同程度に、他のあらゆるものとの未分化の状態がまだ残っていた。

このことは万葉集の、観念的な宗教以前の、原始的呪術的な祈りの表現他、
枕詞のあらわれ方や寄物陳心の歌、ほか様々な歌の類感的表現からわかる。


土橋寛は「神を祈る」の一節を、
祝詞──神に祈る言葉──ができる過程として、
「イ罵(の)り」から「祈り」への変化があったことを示す例の一つにあげられる。

罵ることは罵る相手を対象と見ているもので、
そこにはもちろん自他の意識はあるけれど、

万葉集では、イ罵りを、神霊や遊離魂としての魂に媒介させるのでなく、
神への祈願と同時に、イ罵りを直に伝染させようとする呪術がされており。

万葉の時代には、大陸から伝わった道教などの進んだ呪術の他に、
古来の類感的呪術の尻尾がまだまだあることに、
万葉時代の未開と新しい文化の混在を感じる。

古来の土俗的民俗信仰の呪術は、
認められないものとして国家から禁止されたけど、

元はやはり自然風土や、人の生に近いものだから、
形をかえて引き継がれたものがある。


祈りは神の概念ができてからの比較的新しい考え方で、
卑弥呼の時代なんかはもしかしてまだ、イ罵(の)りの方が多かったのかな。



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他力本願は、人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない。
自分の人生を生きることの否定でもない。

他力本願は、
自分の運命は、自分の判断の範疇をはるかにこえた
めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。

それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。



つづく
by moriheiku | 2010-08-26 08:00 | 歴史と旅
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