つづき 猿楽(お能)の『蟻通』で。 紀貫之が和歌の神に詣でる旅の途中、知らずに蟻通明神の森を通りかかると、 にわかに大雨になり馬も伏し立ち往生してしまった。 あらわれた蟻通明神の宮人にすすめられて、貫之はそこで蟻通明神に和歌を捧げた。 「雨雲の立ち重なれる夜半なれば。ありとほしとも思ふべきかは」。 雨雲が重なる夜なので、星があってほしいと思う、 「ありと星(ありとほし)とも思ふべきかはとは」。 ・・・この歌って、面白いの? この歌、神様を楽しませ慰める法楽になるの・・? ダジャレでいいんですか? って、思わず蟻通明神様や歌の作者に聞きたくなるけど、 しかしこれは、ただ「蟻通」と「ありと星(ありとほし)」の 洒落の面白さで蟻通の神を悦ばせるのでなく、 この歌は呪(まじない)。 ・2009-12-08 中世芸能の発生 260 呪術・宗教と身体感覚 ・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応 この歌は願望をことばにすることで対象(神霊)をそのように導こうとする、 予祝やことほぎと同じ呪(まじな)い。 古代の直接的なことばによる呪(まじな)いは、 この曲の作られた中世には、 歌(和歌)は神をよろこばせるものでその結果神慮に叶うことになる、 という間接的なものになっている。 この曲(『蟻通』)の背景には、 対象をことばにかぶれさせてそのことばの通りに動かそうとする たいそう昔の、呪(まじない)としてのことば(和歌)の歴史がある。 また、呪(まじない)としてのことばの歴史とともに、 呪(まじな)いした人々の歴史がある。 蟻通明神の宮人に和歌を詠むことをすすめられた貫之は、 「これは仰にて候へども。それは得たらん人にこそあれ。われらが今の言葉の末。いかで神慮に叶ふべきと。思ひながらも言の葉の。末を心に念願し。」 と神慮に叶うことを念じつつ歌を詠んだ。 この貫之の「それは得たらん人にこそあれ・・」は、 ことばと祈りを一致させた昔の人なら神慮に叶う歌ができるだろうが、 今の、ことばの末にあるわれらに、どうしたらそれに叶う歌ができるだろう。 てこと。 昔の、ことばにつられて物事がそのように動くことを願った素朴な願いは、 やがて言葉の威力を霊力とする言霊信仰になっていった。 それがさらに時代が下って『蟻通』の作者の生きた中世、 あるいは『蟻通』の登場人物の紀貫之の生きた平安時代には、 昔のことば、昔の人の発することばにはものや神霊を動かす力があったけど、、 ということになっていて、 『蟻通』の作者にとってもう ことばの力は過去のものになりつつあると感じられていた。 田辺聖子さんが、 万葉人は心がそのままことばになっている、歌になっている、 とお話されていたこと。 町田康さんが万葉集歌に対して、 心とことばと景色がなんか直列でつながっている、 ことばと景色が一本の棒のようなもので、 ことばという棒のようなものでつらぬかれている。 とおっしゃったこと。 また以前読んだ『日本人の言霊思想』の豊田国夫氏の、 「言事融即(げんじゆうそく)」の言葉観は、 中世の猿楽の作者の感じた、昔のことばと、昔の、 そうしたことばを使う人たちに対する見方と重なっているものだから、 ことばで表現する作家や、ことばに近い人たちの、時代を越えた ことばに対する鋭敏な感覚に心を打たれる。 別の時代への萌芽が見えるが、 どうしてか、万葉集のことばにはまだ自然の命が生きている。 ・2008-07-30 芸能の発生 古代~中世 06 和歌と祝詞 蟻通 ・2009-12-11 中世芸能の発生 263 ほうほう蛍 まじないのことば ・2009-12-12 中世芸能の発生 264 いや重(し)け吉事(よごと) ・2009-12-13 中世芸能の発生 265 田児(たご 田子)の浦ゆ 豊田国夫『日本人の言霊思想』 ・2009-06-28 中世芸能の発生 157 『日本人の言霊思想』 ・2009-06-29 中世芸能の発生 158 母語 母国語 民族語 ・2009-06-30 中世芸能の発生 159 ことばの生命 ・2009-07-02 中世芸能の発生 162 芸の力 ・2009-06-21 中世芸能の発生 155 振幅 ・2009-09-13 中世芸能の発生 201 陀羅尼 三昧 ・2009-09-12 中世芸能の発生 200 声と身体 ・2009-12-09 中世芸能の発生 261 たまふり たましづめ 鎮魂 ・2009-12-08 中世芸能の発生 260 呪術・宗教と身体感覚 ・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応 ・2009-03-01 草の息 つづく
by moriheiku
| 2009-12-16 08:00
| 歴史と旅
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