つづき 『お伽草子』(御伽草子おとぎぞうし)の半分以上を、縁起談と本地談が占めている。 それらがもともとは唱導の説教「語り」だったことは、 文字となって残っているものからうかがえる。 たとえば「ぜんくわうじほんぢ」(善光寺本地 善光寺縁起)のおしまいに、 “(前略)此そうしを、一たびよむ人は、によらいにまい(詣)りたるにおなじ。しんずべししんずべし。 とあって、縁起の功徳文にあたるのである。お伽草子の大部分にある「此の草子を一度よむもは云々」という功徳文は、かつての縁起唱導の「かたり」が読み物本化されたときにつけられたもので、これのないもおはむしろ「かたり」そのものであったとかんがえられる。” “たとえば「中しひゃうひめ」(中将姫)では、 しかるあひた、一たびさんけい(参詣)のともから(輩)は、むし(無始)のさいしやう(罪障)をめつ(滅)し、九ほん(品)れんたい(蓮台)にしやう(生)し、けんせ(現世)にはむひ(無比)のらく(楽)をうけ、こしやう(後生)にはくわこくほつたんみやうとく(妙徳)を、えせしめ給へきなり。 とあって、『当麻曼荼羅』の縁起をかたる語り口もよくのこっている。” 仏法、経典を人々に説明するため、 身近な例に置き換えてわかりやすく語ったやわらげが、 説経唱導の世俗化・芸能化や「お伽草子」成立につながった。 この世俗的説経は、さまざまな芸能へ展開したのだが、 室町中期にはひとつには「古浄瑠璃」にかたちを整えた。 古浄瑠璃の「中将姫本地」の五段目に、 「当麻曼荼羅絵解(えとき)」の口上がそのまま残っているそうだ。 “まつ是成ていそう(体相)は、上ほん(品)上しやう(生)、是は中ほん、扨々(さてさて)このたん(段)は下ほん也。かく九ほん(品)とたてたるは、上こん(根)、中こん、下こん、うへに三つ、下に三つ、爰(ここ)をあはせて九ほんとあれ共、是はしやばのこんき(根気)をあらはす。忝(かたじけな)くもじやうと(浄土)にわうじやう(往生)いたしては、上中下のへだていさゝかもつてさら(更)になし、(中略)さて此ていそう(体相)は八くとくち(功徳池)をあらはせり。(中略)さてまた左へりにあらはしたるは、につさうくはん(日想観)、右のへりは十三ぜんてう(禅定)のぐはんもん(願文)のあらはし。(下略)” 笞(むち)をもって指しながらの絵解の語り口がよくあらわれているそうだ。 声に出して読んでみると、ああそうしていそう。 ちょっと寅さんの口上を思い出す。 この、奈良の葛城の、二上山麓の當麻寺(当麻寺)に有名な 中将姫と当麻曼荼羅の伝説は人気があって、 浄瑠璃、謡曲(猿楽、能楽)、歌舞伎の題材にもなっている。 中将姫が捨てられたのが、宇陀の雲雀山あるいは和歌山の 有田や橋本市の雲雀山だという伝説のバリエーションは、 そのまま、説経の語り手だった漂白の宗教者芸能者たちの足取りだ。 古い芸能に「そもそも」と、さかんに縁起本地が語られる。 浄瑠璃、歌舞伎、猿楽(能楽)などの筋が説経の流れにある。 その流れの上流に、勧進の唱導説経をした人々がいる。 参考: 『寺社縁起からお伽噺へ』 五来重 芸能の担い手 ・2009-05-24 中世芸能の発生 132 説経・唱導のストーリー ・2009-05-26 中世芸能の発生 134 芸能の担い手 ・2009-05-28 中世芸能の発生 136 優しい誤解 ・2009-05-30 中世芸能の発生 138 密教的禅的解釈 二上山 當麻寺 当麻寺 当麻曼荼羅 『死者の書』 南家藤原郎女(中将姫) ・2008-07-10 神仏習合思想と天台本覚論 02 ・2008-12-03 地形を旅した 當麻寺(当麻寺) ・2008-12-03 地形を旅した 折口信夫の『死者の書』 ・2008-06-12 『死者の書』 折口信夫 ・2008-12-02 地形を旅した 風の森峠で ・2008-11-01 地形を旅した 山の西 唱導する人々の抱える矛盾とその解消 ・2010-05-21 中世芸能の発生 316 今様即仏道 芸能者と仏教 つづく
by moriheiku
| 2009-06-10 08:00
| 歴史と旅
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