中世芸能の発生 51 福祉拠点の寺院化

つづき


それから100年ほど後の天平時代に、
聖武天皇の皇后である光明皇后が、平城京に施薬院と悲田院を作った。

その施薬院は、庶民のための施薬と治療を兼ねた施設で、
悲田院は施薬院に属した。

天平時代の施薬院、非田院は、
四天王寺の四箇院と同じく仏教の慈悲と救済の実践であり、
より国家的な福祉活動の一環だった。


京(みやこ)が京都平安京へ移っても、
平安京内に施薬院、悲田院は作られた。

しかし時代の変化から、
これら施設は国の支援だけでは運営が困難になった。



前回打ったけど、
これら施設はもともと国の社会福祉施設ということでなく
仏教の慈悲の実践の場だった。

悲田院の悲田とは福田。仏教のことば。
そこは、仏教の慈悲によって苦しみを除き福徳を生みだす田、の意味。

恵みを施すことで徳を積むことと考えられていたから、
施薬院や悲田院は、藤原氏など貴族の喜捨を受けたが、

それだけでなく主に自ら収入を得ることで、
維持することが必要となっていった。


もともとこうした施設は仏教の衆生救済の思想から作られた
仏教と縁が深いものだったから、
国家との関わりが薄れる平安時代を通して
いっそう寺院とのつながりを深めていった。

鎌倉時代の忍性が行った活動もこうしたものの一つ。
忍性も、行基ら先人のように、
道を作り、橋を作り、井戸を掘り、勧進し、施設を作り、
孤児を養い、病人を世話し葬った。

それは仏教の慈悲の実践であり、
参加する人々に善行を積むきっかけを与えるものであり、
人々が仏教を知る場だった。

活動とともに仏教は広まり、
各地にこうした福祉拠点となる寺ができた。


・2008-12-29 中世芸能の発生 45 忍性 利他

・2008-09-17 中世芸能の発生 15 慈悲の実践


つづく
by moriheiku | 2009-01-04 08:00 | 歴史と旅
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