好きな顎


私の好きなあごは、
すっきりしていて、男らしいあご。
えらが張っていない。
逆三角形の鋭角的でもない。

正面から見る時、
あごの左右の付け根を結んだ幅と首の幅が同じくらいで、
首と顔の幅の差があまりないあご。

なんでかそういうあごを
とてもきれいだと思う。

髭や、長い髪も好きだけど
隠れるのはもったいない。

一瞬、ほんの一瞬、
そういうあごの人が動画で写って、
きれいで胸を打たれた。

鬼籍の人。
# by moriheiku | 2015-02-05 08:00 | つれづれ

心の泉



今日はハープが見えないよ。


楽器は見えても見えなくても、

オーケストラの音の中でハープの弦が一音鳴ると、

心の泉が湧く。


心の泉は、心臓の下くらいにある。


ハープの音と一緒に、

ここから泉が湧く。
# by moriheiku | 2015-02-04 08:00 | 音と笛のまわり

音の糸






今日の指揮者さんの指揮はシンプル。


指揮にひっぱられて、

私の中から見えない音の糸が、強く引き出される。


ここ数年、来日の予定もつかないほど人気の上がったこの指揮者さんの

信頼される理由の一つ。


私はほんとうは指揮者の体の前面が見える位置で聴くのが好き。
# by moriheiku | 2015-02-03 08:00 | 音と笛のまわり

古い音






この施設は日本語の古い発音を聞くことができる場所だったけど、

ある時から聞けなくなった。


そのまま何年も経って、

時々、また復活していないかな、と訪れてみるけど。

もうこのまま聞けないのかな。




本や少ない動画を頼りに、

古い発音を口に出してみるけど。

もう少し発音したい。体系的に知ってみたい。

まだ真剣度が足らないのだ。
# by moriheiku | 2015-02-02 08:00 | 言葉と本のまわり

白梅




一月の終りの方に、ようやく好きな神社へ行った。


木や水や土や岩やそこにある無数の命がひとつになった清浄な山のにおいが、

からだの底まであらって、

わたしはあたらしい空気と入れ替わる。


肺の中まできれいにする。

冷えて澄んだ空気が好きだ。




石段を下まで下ったところの右少し奥に、

白梅が数輪咲いていた。

今年最初の梅の花。梅花の香。
# by moriheiku | 2015-02-01 08:00 | つれづれ

よいお年をお迎えください、という言い方は間違っていることについて

近年「よいお年をお迎えください」って言うのをよく聞くようになったけど。
この「お迎えください」ということばの使い方は違うと思う。


「よいお年を」は、よごと(寿詞)。言祝ぎの系譜。
「よいお年を」の主体は「人」ではなく、
その人に宿る「イノチ命」へのイノリ、予祝、よごと(寿詞)だったはず。

「迎える」を加えた言葉は人に重点を置き過ぎ。
そのために極端に意味を狭めてしまっている。

もともと「よいお年を」は、
あなたが良い一年を過ごせますように、のような
現代的な、西洋的な祈りのニュアンスじゃなくて。

「あなた」、じゃなくて「歳」つまりイノチに言っている。
お迎えくださいでは対象が違っている。
と思うが、身近な人にもこのニュアンス、わかってもらえない。

どうして同じに思える?
同じに見えるけどぜんぜん違うよー。わーん。


「よいお年を」は年、つまり命へのよごと(寿詞)。
現実に命が活気づくようにと行われてきた古い「予祝」の習俗の流れ。
ものごとがそうなるように願って、あらかじめほめることで物事の現実化を願う、
素朴で強いイノチへの願い。
素朴な呪術というか、いいきかせの行為でもある。
それが日本の宗教や芸能の底にある。
それはことほぎ(言祝ぎ)、祝言、予祝の習俗のはじまりであり根本だ。
(芸能の祖とされてきた神話のアメノウヅメノミコトのしていたのは
そのまんまイノチの復活の行為(天岩戸伝説)をする神)


古代に国司が赴任先の国で、
新年の始まりの行事でめでたいよごと(寿詞)を詠んだこともも。

天皇や首長へのよごと(寿詞)の奏上も。

国褒めの行事や和歌も。

わりに近年まであった正月の門付けの、家褒めなどの風習も同じ流れ。

もちろん君が代もこの言祝ぎの末。
君が代の元の歌と解説されることも多い平安時代に収録された和歌は、
それ以前から長い時代、広く行われてきたイノチを言祝ぐ系譜の和歌。

元歌も、山川草木のイノチを言祝ぐことでそれらのイノチを活発化させ、
つられて対象となる人のイノチも活発化させる、イノチに対する祈り。
イノチ(ヨ)がつづくことを願って詠まれた祝福歌。
もちろんよごと(ヨゴト、寿詞)。予祝。

国褒めや家褒めを想えば、わかりやすいのではないだろうか。
国褒めは、土地の山川草木や無数の命を褒めて活発化させることで、
国土の命を活発化させ、一緒に国主の命を活発化する。
家褒めは、家を褒めあげ家の精霊を活発化させることで、
その家の主人のイノチが活性化、長生きし、家が栄える、という感覚。

古い校歌は学校の周囲の自然環境を織り込んだものが多いけど、
あれはただ学校の立地環境を語っているのでなく、
かつては山や川を詠みあげ織り込む国褒めに共通した共栄のイメージがあっただろう。
(「詠む」ということ自体がイノチの祝福だった。)


日本の宗教や芸能のはじまりは、
世界中で決して珍しくないごく原始的なイノチにたいする願いと
イノチを活気づける行為であって、
そうした願いの行動が、時代の流れの中で
原始的な呪術へ、哲学的な内容を持った宗教や芸能へと展開していった。

今も日本の習俗、宗教や芸能の底を見れば、
いつもイノチを盛んにし活気づけるごく原始的な感覚や行為があるのが見える。


はなしを戻すと、
「よいお年を」は、
「人」ではなくて、その人に宿る「イノチ命」に対する予祝、よごと(寿詞)だったのだが。

「よいお歳を迎える」ということばは、人の行為に重点を置き過ぎている。
むしろ意味を置き換えている。

だいたい日本の古来の風習で「人」を第一の主体にすることは、ものすごい違和感がある。
本来自然のイノチを活気づけることで、ワタシ(人)も活気づいていくという姿勢のものだ。
活気のある場所に行くと、つられて生き生きするような、
素朴な身体の実感に基づいたごく原始的なイノリ、呪術行為のものだ。


ごく近年の現代的な感覚で、言葉の落ち着きをよくするために「迎える」とか言って、
歳を迎える、という意味に落ち着かせたのではないかと思うけど。
それはあまりにも意味を小さくして、ゆがませていることだと思う。
古来の文化を尊重していない。

お迎えください、って何だ。
ちゃんと真剣にイノれ。
真剣にイノチを祈った時、迎える、なんていう言葉になるか。
真剣にイノる時、ことばの力を放つ時、
ことばは、それに対して命令のような形になる。

だから相手のイノチや歳をことほぐ時、
相手のイノチの発揮を願うイノリなら、
「よいお年を!」で終わるのだ。



それでもほとんどの人は
「お迎えください」って言っても同じ、って言うのだ。
くっきり違うのに。

私にこういうことを説明することばのないことが、
いつも心から残念だ。



70歳代以上のお年寄りのお話を聞くと、これらの感覚が自然に生きていると思うことが多い。
よごと(寿詞)の習俗と感覚はここ三十年くらいで一気に忘れられ、
長い時代のイノチをことほぐ、ことほぎのことばや行為の伝統をなくしていく現代、

ここ数年特に、歳神様を迎える、という意味の一部にとにかく飛びつき、
それだと古来の日本的な感覚から離れ、現代的に理解しやすかったから、
NHKが「よいお年をお迎えください」と言い始める。

わざとか。わざとやってるのか。
NHKだから。
日本語を大切にするはずだったアナウンサーさんがたはどういう気持ちで言っているのか。


お迎えください、なんて意味がまったく違う。
まだ、よいお年を「お過ごしください」の方が、
イノチへの祝福の意味に近いのではないか。


このへんをもっと語感に鋭敏で、きちんと説明できる方に、
しっかり言っていただけないだろうか。

山折哲雄さんが要って下さらないかな。
柳田國男や折口信夫が生き返って、日本人にきっちり言ってくれたらいいのに。


だって日本の正月のイノり、

よいおとしを、は日本の ことほぎ なのだから。


自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜。
ひとつの記事には書ききれないが、
この感覚は日本の思想のあらゆるところにつながっているのだから。


正月のことほぎも捨てる。
これは日本の文化の根本を捨てること。
それはあまりにも浅はかで、残念だ。



ことばの変化は止められないけれども。
どうしてそういうことに。

だって、今もいつも、イノチへの祝福が見えて、
心身がゆさぶられるんだもん。



・2009-12-11 中世芸能の発生 263 ほうほう蛍 まじないのことば
たとえば蛍を呼んだり、明日天気になれ、と強く願う時、
我々のことばは命令になる。

霊(タマ、魂、精霊、神)の概念ができ、
ものに霊(タマ、魂、精霊、神)があると信じられるようになれば、
その命令は、霊(タマ、魂、精霊、神)に対しての命令になる。

それがことばによる命令ならば、
ものの霊(タマ、魂、精霊、神)に影響を与えることばの威力が、
言霊(ことだま)ということばの霊力(タマ、魂、精霊、神)である。


物事がその通りになってほしいという願いと結果を、
ものの霊(タマ、魂、精霊、神)にかまけさせ(類感させ)て、
その通りの結果が得られるように、
よごとは唱えられ予祝がされてきた。





万葉集。 神「を」祈る、の表現について。 自他の分離 人と自然の分離
神「を」祈る 神「に」祈る
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏
・2010-08-26 中世芸能の発生 349 神「を」祈る イ罵(の)り
・2010-08-27 中世芸能の発生 350 神「を」祈る 神「を」祈(の)む
万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。

後の時代から現代にいたるまでの表現「神“に”祈る」の場合、
神は自分から分離して「対象」になっている。

それより前の「神“を”祈る」は、神と自分が分離していない。

自然がひびけば自分もひびく(はやし)。
大昔は、自他の境のない、主客のない感覚があったと思う。

境がないから「対象」とならない。
自然との境のない、個々に相対化しようのないものだ。

自然と人の距離ができ自然を体感することから離れ、
身体感覚より優先するものができいって、
自他は分離していく。




日本の信仰の特徴として、
木も石も全てのものに命が宿っている、とか、
森羅万象全てに仏性がある、という考え方をあげられているのをよく見る。

私は、それは、
一人につき一つ心臓があるような、個別に神仏が宿るイメージでなく、
もともとは自他の境のないイノチの実感からきていたと思う。

念仏が溶け合って和合する融通念仏の発想も、
そんな感覚が影響していたと思う。



万葉集。
「天地(あめつち)の神を祈りて」の表現に、
あまねくある神々の印象がある。

万葉の人々は、
例えば天上などどこか「に」いる神「に」向かって祈るのでなく、
すべてにいきわたっている神「を」祈る感覚があったと思う。

以上、万葉集中の神「を」祈るの表現からも、
万葉時代の人々にとって神は
自分から分離した客観的な「対象」になっておらず、
天地にあまねくあって自分にもある、
万葉の人々の、自と他が未分化の感覚を見ることができると思う。

・2009-11-08 中世芸能の発生 239 さぶるこころさまねし

これは、相対化され個別化していく霊や神の概念以前の、
自他の境のない、
ものごとが融通している世界観、つまり身体感の名残と思う。



・2010-05-15 中世芸能の発生 310 くすり 呪術
五月には、菖蒲の葉をお風呂に浮かべた。

切ってはかわいそうなほど瑞々しい菖蒲の葉は、
湯船の中で緑に輝いていた。

命の喜びと痛ましさがある。

菖蒲にふれて、輝く緑の息を吸いこんだ。

こうして命をもらいあって生きるのだ。



薬は、現代では、薬効が体のどこに効いてという理解だろうけど、
遠い昔は、薬の原料の草木や動物の力が、
身体に伝染する(うつる)ととらえられていただろう。

薬の原料の草木や動物の生命の力が自分の一部になる。

祭りで、神饌を下げて分け合っていただく直会が
重要なことであった(ある)のも、
こうした意識に基づく。

私も様々の一部になっていく。
全てが様々の一部になっていく。


相互に伝染させて効果を及ぼそうとした古い時代の
原始的、呪術的な芸能は、
ものや人がつながりあっている実感があたりまえに前提にある。


田植神事やことほぎや家ぼめのような予祝は、
あらかじめ望ましい状況を演じほぐことで
物事がその通りに進むことを期待して行われる呪術の展開だ。


ものや人がつながりあって影響しあう実感がなければ
予祝の効果は及ばない。
ものや人がつながりあって影響しあう実感がなければ、
そもそも呪術などありえない。


観念的哲学的な思想をもって心を救う宗教以前の、
原始宗教の呪術の始まりは、
ぴちぴちした土地に行けば身体がぴちぴちするし、
生気あふれる食べ物を食べると、元気になる気がする、
風や水に威力を感じる、そういう素朴な身体の実感にある。


強いものの名を名前に付けて強く育てと願ったり、
美しい音を名にしてそういう子に育つことを願うのもそれで、

それなのに、現代の日本人の多くが、
自分は呪術や宗教とは無関係と考えているのはどうして?


でなければ非常に抽象的な概念や、
人格的な神々をまず前提に物事を説明されたりして。



・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花
ぴちぴちとれたての魚、美味しくって身体に良さそう!とか。
笑い声につられて、こちらも元気になる、とか。

大伴家持、ユリの歌。
花や酒(クシ 薬の認識あり)を客に勧めるのは、
その人の命を祝うこと。

これは、植物や酒といういってみれば呪物によって
直に家持のイノチをイハフもので、呪的効果を期待した行為である。

現代では呪術というとおどろおどろしいものを想像するけれども、
いいものが感染(うつ)りますようにという、
良いおまじない。

客のイノチを生命力で満たそうとする、おもてなしの心だ。

よい宴の情景
# by moriheiku | 2014-12-29 08:00 | 歴史と旅

センサー


玄関から道路に出るぱお(実家)の小道は、
ゆるく左右に振れている。

小道の真ん中くらいにセンサー式のライトをつけた。

先日ぱおに行った時、
ライトが人が通らないのに点灯する、とぱお母が言う。

「そうそう。」と私「さっき灯いた。」
ぱお父も「ああ、時々灯いてるね。」

薄闇。
暗くなる前に見に行った。
「あ、ついた。」

ライトを取り付けた小道の脇の、藤棚の端に、
季節外れの剪定で伸びた藤の蔓が風に揺れ、
センサーに届いたのだった。


父が剪定鋏で伸びた蔓を伐った。


三人とも思っていたことを控えめに言った。


 「幽霊の・・・」と小さく私。

父 「正体見たり」

母 「そうそれ。」
# by moriheiku | 2014-12-28 08:00 | つれづれ

中世芸能の発生 457 パラオ 植民地における日本語 学校教育の観点から 中島敦



つづき


パラオ。南洋庁が置かれていた。
当時、中島敦が教師として赴任していたと聞いて心が惹かれた。

教科書に載っていた中島敦の『山月記』は、
思春期の子供たちに読ませるために選ばれた。
研いだ夜のようなあの文章。
新学期には、新しい国語の教科書を一気に読んだ。

そうか、
まだ読んだことのないい中島敦の『南島譚』は、
南洋に住んでいたから書かれたのか。


パラオは美しい島という印象。
青い海、生い茂る椰子、海の音、子供の声、鳥、魚。絵葉書のような島。
夢のようなイメージ。
つまり私は太平洋ミクロネシアの島々の歴史をまるで知らないということ。
そのことにも気が付いていなかった。
私には遠い島々だった。

ただ、ずっと以前、
テレビでパラオの人々の暮らしの中に
今も日本語がわずかに残っているのを見て胸が痛んだ。
それがずっと胸にある。


中島敦とパラオのつながりをきっかけに、
日本と関わりあった時代を中心に、ほんの表面的な部分にすぎないけども、
パラオのことをなぞってみた。


日本の中世期、
西洋では海運が発達し、多くの西洋人宣教師や商人が、
西洋人にとっては未知の場所だった世界中の島や土地に入っていった。
日本へも。
中世以降日本を訪れた宣教師達が残した日本についてのレポートは、
大変興味深く参考になるので私も時々読んでいた。

太平洋、ミクロネシアの島々へも、
スペイン人、ポルトガル人、他西洋人が入った。

1885年、パラオはスペインの植民地になった。
西洋からきた伝染病や厳しい支配から、
スペイン統治時代の15年間で、パラオの人口は1/10に減ったそうだ。

たった15年間で、人口が1/10に減少。
たとえば誰かが、私があなたが生き残ったとして、
生き残った人にとって、15年後には、
身近な人々がほとんどがいなくなっていたという現実。
これはどういうこと。
西洋列強の植民地ではめずらしいことではないのだが。それでも。

このような経緯があり、パラオから統治国スペインが得る利益は減っていた。
また西洋各国の国力も変化しつつあり、
スペインは、1899年、パラオを含むスペイン領ミクロネシアのほとんどをドイツへ売却。
その後15年間ほど、パラオはドイツの植民地となる。

やがてドイツが第一次世界大戦で敗戦。
パラオは、第一次世界大戦では戦勝国だった日本の委任統治領下になった。

委任統治とは信託統治の前身で、敗戦国の植民地だった土地を戦勝国が預かるもの。
植民地支配でなく、現地が自立独立するまで
戦勝国が統治を担当するという形のものだったが、
実際には世界中の委任統治領の多くは
以前の植民地時代とさほど変わらない統治状況がされていたようだ。


スペイン領時代とドイツ領時代のパラオでは、
宗主国による現地の人々への交通、教育、医療等、社会福祉の整備や普及は
ほとんどなされなかった。

日本領時代になると、2万人以上の日本人がパラオへ移住した。
この時代、パラオのインフラ、社会福祉の整備は急速に進んだ。
日本は西洋秩序のルールに従い、また生来の日本人の価値観に沿って、
真面目に委任統治に取り組んだようだ。

それで現地の人々のための学校も作られた。
ただしパラオは、併合して日本、日本国籍の人となった台湾、朝鮮とは異なって、
学校と教育内容は日本人とは別だった。

朝鮮には日本国朝鮮の人の高等教育のため、
大阪帝大、名古屋帝大に先立って帝国大学が作られた。
パラオには大学は作られなかった。



日本本土で教師をしていた中島敦は、
パラオへは教師として赴任したのでなく、
現地の人々のための教科書編纂のため南洋庁の書記として赴任したようだ。

これはwikiからではあるけれども、
教育の軽視など、現地住民がおかれた状況を悲観的に分析した手紙を家族に送っている
とのこと。
教育の普及への真摯さがうかがえる。

そういえば先日何かで見たが、
当時の日本領の学校も含む日本全国の小学校の学力テストで、
パラオの学校は総合二位、算数では一位だったそうだ。
もともと学校の多い本土よりも成績が良く、他の地域に比べて抜きんでていたとは。
教育への熱意。



現在中国では日本由来の言葉が多く使われている。
よく例えに挙げられるのは中華人民共和国という国名の、
中華、人民、共和国、それぞれが日本で作られた言葉だというもの。

ほか経済用語、宇宙に関する用語、科学用語、哲学語、政治語、等々、
中国語中で様々な分野で日本で作られた造語が使われている。

同様に、たとえば朝鮮語の文法の授業で、
名詞、動詞、形容詞、副詞などの和製語が今も使われている。

これら品詞を表す語は、日本で造語された文法用語なので、
これら和製語は日本人にには直感的に理解しやすいが、
朝鮮語ハングルを用いる朝鮮の人々にとっては直覚しずらい言葉になるそうだ。


言うまでもなく中国朝鮮には充実した母国語があり豊かに用いられてきた。
その中で現在使われているこれら日本由来の言葉から、
何が見えるかというと、

近代社会のスタンダードとしての西洋の学問や概念が、
アジアでは早い時期に西洋文明を取り入れた日本で、翻訳、日本語化、体系化され、
まとまった学問の形態として中国・朝鮮の教育に取り入れられた経緯だ。


パラオを日本が委任統治していた時代、
現地の、パラオの人々のための学校では、日本語で授業が行われた。

日本統治下で近代的な教育を行うにあたって、
現地の言語でなく日本語が用いられたことは、

単なる言葉と文化の押し付けでなく、
近代の教育を総合的に学ぶ共通語としての日本語、という一面があっただろう。

現在、現地語でない言語を用いることは、
ただ言語による支配の一点のみに捉えられがちだ。
私自身、各地に日本語が残っている理由をそう解釈し、
そうした行為を疑問に思いつづけていた。

しかし、現地語で近代教育用の用語や体系を作り教育に用いるためには、
十分な現地語の知識と、膨大な学問体系を現地語に組みなおす長い時間と労力が必要だ。

西洋列強の植民地になる可能性のきわにあった日本でも、
明治時代、西洋近代国家にならい近代文明を体系的に取り入れるために
多くの和製語を作ることに腐心した。
文化が大きく変わる時、こうしたひとつひとつにどれほど力を尽くしたかと思う。

(古代思想に興味のある私は、
古代日本で漢字を導入した時に少し似ていると感じた。
日本語の音に漢字の音と意味をあてはめていった苦心が、
太安万侶の古事記の編纂に記録されている。)



国内に数多くのローカルな言語を持つ東南アジアの国々は、
土地々々に固有のローカルな言語とは別に、共通語で教育を行っている。
(例えば200以上の現地語があるいわれるインドネシアの共通語、インドネシア語。)



現在、隣国では、日本併合時代に
朝鮮語の使用を禁じられたと教えられているけれども、
そうだろうか。

日本統治下で、学校で朝鮮語を教えた教科書が残っている。

日本が併合した台湾・朝鮮における日本語の教育、日本語による学校教育は、
ただ支配にだけ結びつくものだろうか。
近代文明の導入と表裏した一面はあったのではないだろうか。


戦後朝鮮で、日帝残滓だからと日本の影響の痕跡を消すことが行われている。
同様に和製語も朝鮮語に置き換えることがされている。
システム全体を別の何かに置き換えることは
代替があるかという問題からはじまるので難しいことが多いだろうが、
和製語については朝鮮語に換えていけばいいと思う。




太平洋戦争で日本が敗戦した後、
パラオはアメリカの信託統治下になった。
以降パラオの方々の教育は英語で行われるようになった。
そしてパラオの人々にとっては、アメリカでの高等教育への道も開けた。

行政の一部をアメリカが行う保護国となったパラオだが、
アメリカ領になったハワイのようにはインフラや社会福祉の充実は行われなかった。
太平洋の島であるので、現在産業は漁業を中心としている。

パラオ共和国がアメリカの保護国から独立したのは、1994年。
太平洋戦争での国連の信託統治領の中では、最後の独立だったそうだ。


パラオやいくつかの国、日本も、
アメリカが軍を置いて防衛を担うかたちで現代まできた。


太平洋の島々を思う時、
島々に今も残る日本の言葉の切れ端が、胸に疼く。




南洋の美しいパラオでも、
中島敦の病弱は治らなかった。

たった33歳で亡くなった。

はじめて『山月記』を読んだ頃、
33歳は、十分に生きた年齢だと思っていた。









・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ
漢字導入よりも前の古い日本語の音。
漢字の意味と異なる、もともとの日本語の意味。

漢字の意味をはずした古い日本語の音から、
その語がもともとなにを表すものだったかがわかる。

漢字を取り入れた時代、
日本語と概念の異なることば(漢字)を日本語に対応させる苦労は、
太安万侶(おおのやすまろ)の古事記編纂の記録にもある。

もとの日本語の意味と、
そこにあてはめた外来の漢字の意味には、どうしてもずれがあるけれども、
そのずれを試行錯誤しながら長い時間かけてすりあわせていった。

漢字の意味を取りこんでいく過程で、
中には、もとの日本語の意味よりも漢字の意味の方に近づいて、
もとの日本のことばの意味から離れ忘れられてていったことばもある。
「ヨ」の語もそのひとつ。

漢字導入よりも前から使われていた古いことばは、
そのものをあらわすのにふさわしい音(ことば)がつけられていた。

したがって古いことばの音の響きに、私たちは、意識しなくても
そのものの性質を感じていると思う。




・2010-08-31 生物多様性 言語の多様性
・2007-06-28 言語のレッドゾーン
漢字の導入よりも前から使われていたことばは、
そのものをあらわすのにふさわしい音(ことば)がついていた。

だから古いことばの音の響きに、私たちは、意識しなくても
そのものの性質を感じていると思う。

日本でも英語を共通語にしろという人が、
なぜ生物多様性、命の多様性の重要性を語れるのかと思う。

世界中の各土地の、生物の多様性、命の多様性のあらわれ出たものが、
土地の言語であり民俗であるのに、

ことばを、
ことばの一面である道具としてしか見られず、
土地の自然風土に生まれ、土地に根付き、
土地に適応して成長してきたことばを軽んじる人が、

滔々と生物多様性、命の多様性を語るのは、
うわごとに聞こえる。




・2010-08-18 中世芸能の発生 340 母語
留学生のH君は、変化に富んだ大きな国土の多民族国家出身。
英語と日本語の他、自分は○○語と○○語が話せる、と言ってた。

○○語の一つはH君の国全体の共通語。
もう一つはH君の出身の民族のことば。

H君の国の共通語とH君の民族のことばはかなり違うの?と聞くと、全然違うと言った。
方言くらいの違いではないという。違う言語って感じだそう。

数百の言語のあるH君の母国。
豊かな自然と多様な動植物の生きてるH君の国の、H君の民族語。





・2008-08-13 「ほ」を見る。
古い日本語の音。性質を表す音。

注意を惹くようなものやこと、身体感覚を起こす性質のもの、
それを昔の人は「ほ」、
「ほ」のあらわれと感じた。

折口信夫。
“人は「ほ」の出来る限り好もしい現れを希ふ。”

“寿詞(よごと)を唱へる事を「ほぐ」と言ふ。「ほむ」と言ふのも、同じ語原で、用語例を一つにする語である。「ほむ」は今日、唯の讃美の意にとれるが、予め祝福して、出来るだけよい状態を述べる処から転じて、讃美の義を分化する様になつたのである。”

“たんに現状の賛美でない。「ほむ」・「ほぐ」という語は予祝する意味の語で、未来に対する賞賛である。その語にかぶれて、精霊たちがよい結果をあらわすものという考えに立っている。”


ことほぎ、言葉で「ほぐ」。よごと。
近年まであった正月の門付けの家褒めなども、
現実にそのようになるよう、ことばとからだでする予祝。
ものごとがそうなるように願って、ほめる。

「ほ」ということばの音の中に、期待がある。


稲の「穂」は、
「ほ」の出現であり、
豊かにみのった「ほ」の結果だ。





“当時、台湾・朝鮮などに対して、日本は一視同仁のひたすらな皇民化のため、強力に「国語普及」の運動をすすめていた。「国語」を唯一の拠りどころとするこの同化方針に、私はまず疑問を感じた。それから「民族と母語」というものに関心をいだいた。はじめ、なぜそれほどまでにして、国語に依存するのだろうかと思った。”
(豊田国夫『日本人の言霊思想』)

各国の植民地への言語政策への言及のあるこの『日本人の言霊思想』を読んだ後も、
どうしても解けない疑問のかけらが残っていた。

思いがけなくパラオのことを通して、
そのかけらの一粒が、少し解けた気がした。

まだうずくまる小さなかけらたちが胸の中にある。
無事に生きて少しづつ私の視野が広がり、少しづつものを知っていったら、
ひとつづつ溶ける日がくると思う。
・2009-06-29 中世芸能の発生 158 母語 母国語 民族語
・2009-06-28 中世芸能の発生 157 『日本人の言霊思想』




・2008-01-21 みつ 08 大伴の御津(みつ)

大戦の時代にふたたび、平時より意識された日本語の言霊思想。

奈良時代に言霊思想(当時の言霊信仰と言えると思う)が隆盛した。
万葉集。遣唐使の出立と帰港。
国を背負うような時、期待された言葉(和歌)の作用。
古代、遣唐使の無事を祈ってかける和歌は、
素朴な願いをからくる呪(まじない)でもあった。
日本のことほぎの伝統。日本の芸能の伝統。

命の際に立つ時には、
ことばにすがるような、ことばによって命全体をふるい立たせるような
心境があったのだろうと思う。当時の人々に強い願いがあったのだ。

今も、心を込めて「元気でね」と声をかけるようなことも、同類だ。


万葉集 山上憶良
旅立つ遣唐使へ別れを告げ無事を祈った好去好来の歌

 神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 倭(やまと)の国は
 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ

    ・・・ 中略 ・・・

 還らむ日には またさらに
 大御神たち 船の舳(ふなのへ)に 御手(みて)うち懸(か)けて
 墨縄(すみなは)を 延(は)へたる如く あちかをし 値嘉の崎(ちかのさき)より
 大伴の 御津の浜辺(はまび)に 直泊(ただは)てに 御船は泊てむ
 恙無(つつみな)く 幸(さき)く坐(い)まして 早帰りませ    (894)


(訳)
 神代から言い伝え来ることには、空に充ちる大和の国は、
 統治の神の厳しき国で、言霊の幸ある国と語りつぎ

    ・・・ 中略 ・・・

 帰国するでしょう日には、さらに大御神は舟の先に御手をかけ、
 墨縄を引き伸ばしたように、あちかをし値嘉の岬を通って、
 大伴の御津の海岸に、まっ直ぐに泊まるべく
 御船は寄港するでしょう。
 無事にしあわせにいらっしゃって、早くお帰りなさい。




つづく
# by moriheiku | 2013-12-02 08:00 | 歴史と旅

川面 冬



引き潮の河口は広い浅瀬となって、
水底に潜っている石が、ぽつんぽつんと頭をのぞかせてる。


人の頭ほどのその石のひとつひとつに、
一羽づつ、鴨が乗ってる。


石を分けて流れる水と石と鴨を、
鉄橋から見てた。
# by moriheiku | 2013-12-01 08:00 | つれづれ

空の音



ことしの春か、初夏くらいから、空の音が変わった。


これまで聞かなかった種類の航空機の音が、
空に聞こえる。


すぐ近くではないけど、
ほどほど近くに、
自衛隊の駐屯地がある。


空港で飛行機をながめながら聞く平和なジェット機の音とは違う種類の音。
いくつかの種類の航空機の音。


時には映画の中だけで聞いたことのある戦闘機のような
空を裂いて速く過ぎていく音を聞いた。


はじめてじかに聞いた。

ああ、これは。すごいな。



だから、空の音から、世の中が変わったと思う。
# by moriheiku | 2013-11-30 08:00 | 音と笛のまわり

中世芸能の発生 456 国家神道 天皇


つづき


母方のご先祖様は、中世期、今住んでいる所に定着した。
中世頃の先祖の方々について話す時母は、
ちょっとケンカが強かったような人たちのようよ(小声)と言っていた。

はは~~ん。
中世、戦国期の人の移動を考え、また後の時代を考えると、
母方のその辺が察せられる。
野武士山伏系か。

義経弁慶たち一行が山伏姿に変装して頼朝の探索からのがれ
東北までたどり着いたのは、
中世期、勧進などする聖、山伏、僧のような人々が
当時日本中をたくさん歩いていて、山伏の変装が違和感がなかったから。

こうした人々の中には、各地の、
母の家のあたりのような地方の山あいに定着していった人も多い。
中世期には多かった。

こうして土地に定着した人々の中には、勢力をもつようになっていったりして、
戦国時代につながっていく。

山間に山伏系の神楽が残っているのは、
こうした人々が各地を歩き、時には定着していった名残だ。
・2009-09-26 中世芸能の発生 206 山伏の延年
・2009-04-16 中世芸能の発生 108 武士の狩猟民的性質について
うわー、あかんやないの


ともかく、そうした経緯で母方の家系は今の土地に定着し、
それから代々、土地のとある神社のある山を守(も)りをする役をしている。
神主さんではない。
こんときの消防車はその役のために用意された)


母たちの話によると、その神社のお祭りや行事にあたって、
江戸時代までは明治時代からのような特別なことはなかったそうだ。

明治より前は、ほったらかしじゃないけど、その、
なんと言ったらいいのか、
今の宮内省にあたるところから使者でいらっしゃる方も、
使者の方から渡される品々も、
質素簡素、というのじゃないけど、その後とくらべればそういうものでね、と。

母が曽祖父母や祖父母から聞いた話では、
大政奉還から明治になって、それまでとがらりと変ったそうだ。

急に、使者の方々の挨拶(装束も)や行事が大きくなり、
御即位など特別なおりに賜る記念のお品は、
飾りの付いた短剣とか豪華なものになって、
その家の人はびっくりしたそうだ。


ああそれは。
天皇の神聖の強化のための、国家神道の流れだったのだ。






法律で、天皇を君主と明記しようとすることには、やはり違和感がある。

名前のなかったもの、名前のつかなかったものに名前をつけた時、
意味は限定され、変質して固定するから。
あまねくあるものの象徴としての存在から離れたものになる気がして。

しかし世界に通じるものにするためには明文化することが必要なのかな。
むずかしいことでわからないけど。



私は、神道は、
古来広く行われてきた生活態度と一体だった民俗信仰、習俗が、
宗教として社会化され体系化されていったものと考えている。
それでも神道に文字による教義は基本的にはない。

神道につながっているものは、
古来の日本の自然風土と、
そこで暮らしてきた日本人に生活態度のようなもので、
あまねくありつづけてきたもののように思う。


天皇はある時代から存在されている方々だけれども。
排除などされることなくこの国で長くつづいてきた天皇という存在のありかたは
これまで続いてきた日本人と日本という国のありかたのあらわれ。
その表出。

だから天皇というありかたは、
日本の歴史、風土、精神性全てと結びついていると日本人には感じられるし、

天皇という存在と天皇のありかたの否定は、日本人にとっては、
日本の歴史、風土、精神性全ての否定と結びつくのだと思う。

そこを狙って抹殺しようとする中朝の意図はすごいと思うけど。

ともかく外国の人々にはそのあたりがわからないことが多いみたいだけど、
時の権力者の王とはちがうのだ。
王様は国そのものもでもないし、自分たちの一部でもない。

また、上下関係をつけることで物事を判断する人々にはどうしても理解されないようだが、
日本人にとって神聖なものとは、
上にあるものでなく、あまねくあるものなのだ。



日本に限らず、
他国の長く続いてきた王家や、
ある国に続いてきたその国の人々が尊重する象徴的なものを
否定したり貶めたりすることは、
その国のありようの全てを否定し、貶めるのと同じだ。
ものや人への自然な尊重の心がある人ならば慎むのでは。
国でなくどこかの土地でもものでも人でも。




たまに、国家神道時代の天皇への崇敬の形が、
大昔からの天皇への崇敬の形と同じだと考えられている意見をみかけるけれども、
やっぱりそれは少し違うのではないだろうか。

案外長い時代を日本の一般の人々は、
おてんとうさまが見てる、って感じで、
何事か知らないけどありがたいと感じられるようなものやおてんとうさまのようなものを心に置いて
生きてたと思う。




お釈迦様も像を作るなと言いのこしたように、
様々な宗教がその初期には、偶像を作ること、偶像を祈ることを禁じた。
しかし多くの宗教がや、がて偶像を作り偶像を通して祈るようになった。





ただ実感の中で生きて、
むしろ意味や存在を限定するような像や教義、そして名前も、
ほんとうは必要ないのだ。

(と思う私は日本の神道的な考え方をしているんだろうか。)






万葉集  石走(いはばし)る垂水(たるみ)  白木綿花(しらゆふはな)に落ち激(たぎ)つ
・2010-09-02 中世芸能の発生 353 ことほぎ 自然
・2010-08-30 中世芸能の発生 352 滝 木綿花
万葉集に、
白くさらしたふっさりした木綿(ゆふ ゆう)が、木綿花と言われて
滝の飛沫に例えられることには、心が躍る。

急流を駈ける水が
岩にあたって白い木綿(ゆふ ゆう)の花のように咲きつづけるうつくしさは、
自然のエネルギーそのもの。

万葉人の目に、ふっさりした白い木綿(ゆふ ゆう)が振るわれる姿は、
そのように映っていたのだなあ。

上記の歌は、詠み人の感慨であると同時に、ことほぎ。

言わなくてもことばの中に自然のイ(威)があり、
これまでも、これからも、くりかえし咲きつづけるイノチの祝福がある。

万葉人が見飽きないと歌に称えた泊瀬吉野の滝の木綿花(ゆふはな)。

今も山間を駈けくだる水を見れば、
その音に、細かくあたる水飛沫に、山と水の匂いに、木綿花のように咲きつづける水に、
心は躍って(激(たき たぎ))って息を吹き返す。

山に行きたい。





・2012-09-13 中世芸能の発生 447 一ノ瀬、二ノ瀬、三ノ瀬 滝 こぶ取りの翁




・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元
白い水










母の通った幼稚園史  明治、大正、昭和の園児たち
・2012-12-22 幼稚園史

母方の人々  いざ江戸   忠義と消防車  桜の文化
・2013-08-20 消防車 忠義 桜

母方の人々  牛を連れて帰る
・2013-08-21 牛と退職金 幕藩体制の終了

母方の家の言い伝え  母屋は無事だった・・・
・2011-04-07 国土の保全 知恵と伝承

↑母方のエピソードあれこれ。
夫婦で浄瑠璃にくるった代のこととか、
学者のふりをした泥棒にだまされたはなしとか、
打ちたいけど、

あ、父方のはなしも打ちたい気がするけど、


でもそれより、早く松と鹿のこと、打たねば。

めちゃくちゃでもなんでも。

私はそれが打ちたい。ずっと。




つづく
# by moriheiku | 2013-08-23 08:00 | 歴史と旅

中世芸能の発生 455 貨幣 勧進 大仏造営


つづき


幕藩体制の終了で、母方の当主さんが江戸から地元へ戻った時、
(今でいう)退職金の一部が牛だったという。生きている牛。
貨幣より前の、物がやり取りされていた時代を、少し身近に思った。



日本人にお金とお金の概念が知られはじめた初期には、
貨幣による物の流通は定着しなかった。
租税もお金で納めるのでなく物だったのだから。

物の交換になれていた人々は、
物とは違って、
それ自体の価値ではない価値で流通するお金というものによる流通の不思議さを、
お金にまつわる不思議な力と理解した。

そのため人々はお金を、不思議な力のあるものとして、
お金が手元に来てもお金として使わず、祀って大切にし、
実際には相変わらず物での流通がつづいた。
初期の貨幣は祭祀の場所から出土している。

奈良時代に富本銭が鋳造されたが、
経済活動の貨幣としては出回らなかったようだ。

中世になると、経済活動の中での貨幣として宋銭が流通している。
市で出回っていたようだ。
でもまだまだ経済全体では物での支払い物の交換の方がメジャー。


時代が下るにしたがって、
布教と寺社運営のための社寺の勧進活動が盛んになっていった。

奈良時代は作善として、労働力の提供が多かった。
その提供された労働力が集合し多くの土木工事が行われた。

人々は神仏に救いを求め、
滅罪や亡者の鎮魂のため、また徳を積み往生を願い、勧進作善に参加した。

一人一人の小さな作善を集めて大きなものをなすということにも、
宗教的に重要な意味があったのもその理由だ。

行基のような優婆塞(私度僧)達が、勧進で人々をいざなって盛んに行った
橋を架ける、道を作るなどの大規模工事は、
宗教的思想の実践でもある会福祉事業。

井戸を掘り、池を作り、道を作り、橋を作る。福祉施設を作り運営する。
後の時代までも勧進の僧、聖たちの多くが、
土木工事のプロデューサーでもあったゆえんだ。

自然居士 勧進の優婆塞 プロモーター ヒーロー 芸能
・2008/09/25 中世芸能の発生 29 勧進聖 自然居士
・2008/07/21 中世 07 芸能の独立
お能の設定にはこうした立場の人々への共感があるようだ


貴族は布施として物や写経を喜捨して後生を祈ることができたけれども、
民衆はささやかな物と、あとは自分の労働力を喜捨、作善とし、後生を願った。



聖武天皇は大仏を建立するにあたって詔(みことのり)を出し、
全ての人々に大仏造営の参加を呼び掛けた。
一枝の草、一把の土を持ってと。

全ての人が参加し一つの何事かを作り上げることは、
当時の仏教の実践でもあり、
古来の信仰を映した国のありかたの理想でもあった。

聖武天皇は官の認めた正式な僧でない私度僧の行基に、
大仏造営の協力を依頼している。

行基は、仏教を説き各地で福祉と大規模土木工事等を行い、
民衆の支持を広く集めていた。

聖武天皇が、朝廷が取り締まる対象ともなる私度僧の行基に
大仏建立への協力を依頼したのは、
単に行基のもとに集まる大勢の労働力だけをあてにしただけのものではなかった。

聖武天皇にとって、行基とそこに参加する人々のようなありようが、
華厳の教えや、古来の民俗信仰にある
無数の個あるいは森羅万象が結び合い一つの世界を成しているという理想の世界に
かなうものだったから。

行基
・2010-05-10 中世芸能の発生 305 勧進と芸能
作善 芸能の芸術化




行基とそこに参加する人々のありようは、
聖武天皇の願った国のありかたの理想に近かった。

聖武天皇にとっては、
どんな方法でもいいから大仏を完成させるのではなく、
人々が広く大仏の建立に参加することに意味があるった。
そのための詔の一文だ。

大仏の造営に皆自発的に関わった人々が実際どのくらいいたかはわからないが。


こうした大仏建立の例に見られるように、
奈良時代には労働力を喜捨とすることはめずらしいことではなかった。




古来の信仰の体系をベースにして渡来の制度をあてはめた律令制度は、
社会・思想の変化にともなって、奈良時代後期には崩壊しつつあった。

神祇信仰と租税の徴収
・2008/09/05 中世芸能の発生 05 神祇信仰と租税徴収
律令制度の崩壊 芸能者の立場の変化
・2010-02-05 中世芸能の発生 269 「神聖」の観念の変化


律令制度の崩壊により寺社は、それまで受けていた国による庇護を失った。
寺社は寺社維持のため、自身での経済活動が必要となった。

大きな寺社は貴族同様各地に大規模荘園を所有しそこから利益を受けるようになるが、
平安時後半には荘園制度も崩壊。
不安定な時代、戦乱も続き、社寺が焼かれたり壊されたりもした。

そのため、もとは仏の教えを知らせ、
人々を仏教にいざなう布教のための勧進活動は、
寺社の維持のため喜捨を募ることにより重きが置かれるようになった。

布施や喜捨の内容も、
仏教の慈悲の実践としての
(今でいうところの)社会福祉活動)への作善、労働力の提供よりも、物へ、
物よりもお金、へと変化していった。
※融通念仏 リンク



僧や聖、比丘尼他、彼らのような宗教性を帯びた人々が
各地を巡って行った勧進の活動は、
より人々を招くことが必要。

経典の教えを知らせ、霊験を説き、
人々の信心と同時に喜捨を募るため行われた勧進の芸能、歌や語りなどは、
より耳目を集めやすく共感(と喜捨)を得やすいものへと工夫され、
勧進の芸能化、興業化が進んだ。

中世芸能の担い手 説経 唱導 勧進 
・2009-05-25 中世芸能の発生 133 俗の土壌
・2009-05-28 中世芸能の発生 136 優しい誤解

後生を願い救いを得たいと勧進の場に集う人々を信仰に招くため、
勧進をする側は、難解な経典の内容を、
人々にとって身近な話題に置き換え物語化したり、
派手になったり、涙を誘ったり、
訴えかける抑揚や動作をつけたり、洗練されたりして、
芸能がさまざまに展開していった。



天岩戸の神話のアメノウズメノミコトのあそびや神楽に象徴されているるように、
古くは芸能は、
あらゆるものを活気づけ、命を活発化、再生させることが期待された
タマフリの実感的習俗だった。

古い時代の対象に直接働きかけ効果を期待された呪術的性質のもの。
・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽

霊や神仏の概念ができてからは、
イノチを活発化させる芸能は霊や神仏をよろこばせなぐさめるものにもなった
(結果として荒ぶる霊や神仏は鎮まるという考え方 鎮め、鎮魂)。

イノチを活気づけるたまふりや神仏や霊にささげる呪術性宗教性を帯びた芸能は、
人々の生活や願いとともに、広く一般化していった。


平安時代に京で猿楽が、それまで一対で行われてきた法会と離れ、
猿楽だけで単独に上演された記録などある。
芸能は、布教のための俗化をしながら、
同時に宗教から離れていくことになった。

宗教と芸能が未分化だった時代は過ぎて、芸能は、
人々へ宗教の周知の役割を持ちながら 同時に宗教と芸能の分離を内包している。
それは、芸能から芸術への分岐にも見える。
・2010-12-01 中世芸能の発生 368 今様

芸能のはじまりの性質上、
完全に宗教と芸能が離れるのはまだうんと後だけど。



信仰や宗教と分離していった芸能。
喜捨されるお布施も、
信仰の意味での作善や喜捨でなく、
芸能への対価になっていく過程。


勧進の僧や聖の行う土木工事も、
民衆の自発的な小口の作善を集め皆で行うことに意味があるという段階から、

徐々に、物やお金による大口の喜捨を募って、
それを労働者に支払うものに変化していった。




経済活動が、
労働力や物の交換と流通の段階から、
貨幣の流通の段階に進み貨幣経済が定着するでには、
結構時間がかかってる。

宗教にかかわる経済は、
経済全体の変化のうちの一例にすぎないことだけれども、
ともかく貨幣経済が浸透には、
社会と意識の変化両方が必要だったんだ。




・2008-06-10 『身毒丸』 折口信夫 01
「田楽法師は、高足や刀玉見事に出来さいすりや、仏さまへの御奉公は十分に出来てるんぢや、と師匠が言はしつたぞ。」
田楽法師。護法童子の名を持つ人。
宗教者の末に連なる芸能の人たち。
遍歴し勧進する芸能する人たちを描いた描写。




静御前 白拍子
・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし
祝福芸。ことほぎ。
呪術的芸能から世俗的芸能へ。
それにともなう芸能する人々の立場の変遷。





全然歴史を知らない私。てさぐり勉強しはじめた頃。
あー成長しない。未だ終わらず。

遍歴する芸能者と商売 傀儡子と櫛 櫛宋銭と唐人(宋の商人)
・2009-01-30 中世芸能の発生 57 遍歴する人々と外国
中世の市には宋銭が流通していた。
宋銭は、日本列島の北から東南アジアまで広く流通していたそうだ。へー。 

勧進 経済の多様化 宋銭
・2008-09-25 中世芸能の発生 28 勧進

供御人 遍歴する人々の経済活動 宋銭
・2009-01-24 中世芸能の発生 53 供御人


こうしてみると、
貨幣が流通するようになった時期と理由が、少しだけわかった気がした。
2013年の今頃。




もー、一気に書いてめっちゃくちゃ。

あとでゆっくり打ちなおそ。



つづく
# by moriheiku | 2013-08-22 08:00 | 歴史と旅

牛と退職金 幕藩体制の終了


こちらで母方の家の、明治時代の手動消防車(?)のこと打ったけど。
母方の家のこといくつか打とうと思う。

会話の途中、たまたまあるゴルフ場の名前が出た。
母が、あそこのコースの半分は、昔おじいちゃんの牧場だった、と
さらっと言った。

ええっ。牧場してたことあるの?

びっくり。
母んちは、昭和の途中まで牧場を持ってた。
牧場を持つにいたった経緯は、
時代が江戸から明治に移ったことに端を発する。

幕藩体制が終了し、明治政府になった頃、
母方の当時の当主さんは、江戸からこの地方、もともとの地元に戻った。

世の中が大きく変化する時代で、
幕府、諸藩の財政はどこもずいぶん大変だったようだ。

幕府や藩がなくなることは、
幕府、藩から給与(禄)ていた人々にとっては、
現代なら勤めしてきた会社自体なくなってしまうことでもあり、
(体制が変わる意味はそれだけじゃないけど)、
当時の当主さんもいったん失職ということになった。

その時お上から皆に、今で言う退職金のようなものが出たんだけど。

財政難のため、
ご当主さんに支払われた当時の退職金うち、
一部が 牛 だったという。

牛?

現物支給?! いきもの支給?

当時の退職金って何で支払われてたか知らないけど、
牛ってあるの? びっくり。

わりと最近(といっても江戸明治)まで
生き物も立派に行き来する財産の一部だったんだー。それともたまたま?

物々交換の原始時代の価値観まで想像しちゃった。
金銀でできた大判小判の類ならともかく、
素材自体はさほど価値の高くないものが価値のあるお金による経済活動って、
思えば変わってる。


さて牛を受け取ったご当主さんは、
この時は消防車(?)を押して往復した)○○街道を、
自身で江戸から牛を引いて地元まで帰ったという・・・。

「えーー、アハハハハハ!大変そう。」

「そりゃ大変でしょう。人が一人で歩いても大変なんだから。」

江戸は遠いの。
牛を連れてあの峠を越え、牛と一緒にあの大川を船で渡りして。
人が歩くのと違って、牛には餌もやらなきゃならないし。

「牛は何頭?」

「退職金の全部じゃないから、一頭だったと思うけど。」


地元に帰った当主さんは、その一頭を育て牛を増やした。
牧場ができるほどに・・・。

で牧場を始めた、と。

各代の方々の本業は別として、牧場の所有はあとの代の人たちに引き継がれた。
戦時中は、牧場で牛さんの出してくれるミルクが、
食糧不足で栄養不足の母や周囲の人々にずいぶん助けになったそうだ。
遠いところから子供のために牛乳を頼みに来る人もいたそうだ。

はー。知らなかった。
宮沢賢治も、結核の妹トシのために、玉子や牛乳をなんとか手に入れて、
アイスクリームを作って看病したんだった。

生きるための牧場。
生きるための牛乳。

「牛乳の牧場だったの?」

「そう」


母がある程度成長する頃まで、その牧場はあり、
母たち兄弟も、牧場を手伝ったそうだ。

昭和の途中お祖父ちゃん(母の父)が、
牧場を市と、ゴルフ場、他に売却することにした。

牧場が好きだった母は、牧場を売ることを聞いた時、
祖父に、自分にゆずって、自分にやらせて、と頼んだそうだが、

祖父は「女が仕事をするものじゃない」(外の仕事、男の仕事という意味)
とかなんとかで、やらせてもらえなかったと言っていた。


私の初めての犬体験は、母の実家のコリー犬。
子供だった私は、コリー犬におんぶしてもらって遊んでもらった。
母の家がコリー犬を飼っていたのは、牧場の名残か。



母の夫(私の父)は、牧場のあとにできたゴルフ場の会員だけど。
これはたまたま。そこが良いコースだから。






けがに味噌を塗った話
・2011-08-21 立ち話

母の通った幼稚園史  明治、大正、昭和の園児たち
・2012-12-22 幼稚園史

母の家の言い伝え  母屋は無事だった・・・
・2011-04-07 国土の保全 知恵と伝承

母方の人々  いざ鎌倉江戸   忠義と消防  桜の文化
・2013-08-20 消防車 忠義 桜
# by moriheiku | 2013-08-21 08:00 | 歴史と旅

消防車 忠義 桜



母方の建物は古く、今も広い土間がある。
その土間の一角に、大型の古びた箱型に車のついたのものがもうずっと置いてある。
あれは何と聞いたら、
母が子供の頃にはもうそこにあったそうだ。
それは昔の消防車のようなもの。
大きな箱型の中に水を入れ、手押しの柄で水が出るしくみ。

母によると
あれが前回動かされたのは、江戸から明治に移ってそうたたない頃。
幕藩体制がなくなり新政府がはじまって、当主はここ地元に戻ってきていた。

ある日江戸(東京)で大きな火事がおきていると聞いた当主は、
江戸が、お上(かみ)が大変だと、
すぐに消火のためこの手動消防車?を押して江戸(東京)に向かったそうだ。

「行くまでに、火、消えてるって!」(私)

当主は○○街道を江戸へ向かった。

「舗装してない道を、この車輪(木製)で!」(私)

「そうそう。○○峠も越えてね。そのあと○○も越えなきゃいけない」(母)

ここから東京は遠いの。
箱型の中に水が入っていない状態でも、押すにはかなり重いだろうこの昔の消防の車を。
何日かかかるだろうに。何人で行ったの。一人?

けれど街道の途中○○あたりで、江戸(東京)の火が鎮火したことを聞きおよび、
当主はそこから引き返してきたそうだ。
また消防の車を押して(あるいは引いて)。

屋敷に戻った時、消防の車は土間のその位置に置かれた。
以来ずっとそこに置かれたままだって。長っ。


もとはこの周囲に火事がおきた時、消火に使うため用意された。
以降動かす必要のなかったことは幸い。

今となっては笑い話のようなかなしいような顛末を聞きながら
「アハハハハハ」と笑ったけれど、

それは現代の私ののほほんとした感覚だからってことも、同時に感じてる。


当時の忠義の心のせつなさ、まっすぐさを思う。
結果的に長く戦がなかった江戸時代、
歴史の本や情報で当時の断片を見ると、
お城勤めばかりでなく日頃は畑を耕したり内職をしたりして日常を過ごしていた武士たちでも、
心身と技を鍛えることをやめておらず、
武士とその家族も、いざ何かが起きた時には、
身を捨てる覚悟があったことを思う。



桜の花は、

春の農耕の開始と、良い実りへの期待と結びつき、
満開のめでたさであり、
流れる時の一瞬を生きて死ぬ、くりかえし流転する、人やものの命と重ねられ、
武士においては、表に出さない覚悟の花でもあり。

桜は時代を生きた人々の思いと結んで、多くのモチーフになってきた。

桜の原産地はどの国かで桜の文化の起源や優劣を競い言い募るなど、
文化とは何かの実感のまるでない、ピントの外れた行為だ。




江戸や明治の人たちは、
中でも年配の方々の口から聞けば、ほんの数代前。
昔のおとぎ話の登場人物でなく、隣で息をして、
笑ったり食べたり悲しんだり、日常を共にした人たちの話は、
今生きている人のことを話すのと変わらない、生きた人々の息吹きがある。




年上の人のお話 

やけどに味噌を塗った話
・2011-08-21 立ち話

母の通った幼稚園史  明治、大正、昭和の園児たち
・2012-12-22 幼稚園史

母の家の言い伝え  母屋は無事だった・・・
・2011-04-07 国土の保全 知恵と伝承

母方の人々  牛を連れて帰る
・2013-08-21 牛と退職金 幕藩体制の終了
# by moriheiku | 2013-08-20 08:00 | 歴史と旅

海岸



短いトンネルを出て、
海岸沿いの道を走る車としばらく並走。

斜め向こうになじみの山容と、あのビル、スポーツクラブの屋根が見えてきて、
電車はなめらかに駅にすべりこむ。

ホームから見える、海に向かう道の交差点の信号はいつも赤。
# by moriheiku | 2013-08-19 08:00 | つれづれ

海 電車



日本中にあるなんでもない家やお店の続く街中をしばらく走ると、
街に海の気配がしてくる。

車窓から海は見えなくても、海が近いとわかる。

数分ぼんやり乗っていると、家々が減り緑が増え、時々南に一瞬光るのは海。

ふたつ目の駅を過ぎて、
駅近くにせめぐ家並を過ぎたら一気に松と海。

遠い岬にかすむタンカー、マリーナのヨットのセールの林、黒い松のシルエット。

線路脇の雑草に風をおこして走る海沿いの電車の、
いつもは山側の緑を私は見ているんだけど、

今日は海を見たよ。
# by moriheiku | 2013-08-18 08:00 | つれづれ

水の印



空気はカラカラ。
昨夜、夜の内に弱雨があるかもの予報を見たが、
朝起きて玄関を開け外を見ても、地面に濡れたあとはなかった。
乾いたのかも。


青い空に長く飛行機雲を引いて、飛行機が飛んで行く。
上空の湿度の高い印。

あんなに上の秋色の空は、今日は水気が多い。
# by moriheiku | 2013-08-17 08:00 | つれづれ

ハンサム



骨格がきれい。

太い骨。顔と同じ幅の首。

女性にはないもの。

軽く走る姿もよく、

枯れてきた姿もまた良い。

あなたのような人をハンサムと言う。
# by moriheiku | 2013-08-16 08:00 | つれづれ

山 瞳が洗われる




乾いた瞳に、山の空気の水が流れて、瞳が洗われる。
# by moriheiku | 2013-08-15 08:00 | つれづれ

ヒグラシ



ヒグラシの響く山と谷が、遠くないことは幸い。

姿の見えないウグイスが響いて、ヒグラシが響いて、
腕は山の空気の水をかきまぜながら、
緑の山を下る。
# by moriheiku | 2013-08-14 08:01 | つれづれ

生きものと土地




用事で京都。
市内をタクシーに乗って、少しうとうとし、
目を覚ました時タクシーが東西南北のいったいどちらへ向いているかわかんない。
けど運転手さんの頭の横から、フロントガラスの向こうに東山が見えると、
ふーと身体が落ち着く。

東山の山々のシルエットを描けといわれても描けないし、
東山のふもとの左京区に住んでたんだから、
東山のシルエットを俯瞰することはあまりなかったはずだけど、

身体のどこかに、東山の気配が刻まれていて、
東山を見ると私の何かは落ち着く。

風光明媚な嵐山の、西の山々を見てもなんともない。

東山について心では特に何にも思っていないのに、
土地は身体に刻まれてる。

比叡山の形だってどうだったかなってくらいだけど、
北東の比叡山の形をみれば身体は満ちる。



今住んでいるところは、
今までで一番長く住んだことになるのかも。

ここでたくさん学んだ、ここに育てられたから、
ここの虫や草や石や川のように、
私はここで生きてここで死ぬ。

他の人に、わからない、と言われる。


国を捨てる人の思いはどういうものだろう。
ちぎれるような思いか、刻まれたなつかしさか、憂鬱か、
自由な未来へ向かおうとする渇望か。
どうしようもできないいろんな思いがあるんだろうな。



これは執着か。

だって刻まれてるんだもん。
私はその一部で、それは私の全部で、分かてない。
感情より前のものということだけなんとなくわかる。
理性で考えれば、良い場所ならどこでもいいと思うのだから。


たぶん犬や猫のテリトリーとか、
渡り鳥が毎年同じ方向へ行くための構造とか、鮭が川に戻るとか、
そういう動物の、普通の構造に似た、生きるための仕組みなんじゃないかな。






・2009-11-13 山
今はすっかり市街地で交通量も多い古くからの道を歩いていて目を上げると、
その先には、ある山のピークがあり、
この道はあの山の頂の方角を目指していた。

この道を歩く人は、あの山の頂を目印に道を歩いていたことがよくわかる。
道は山の麓を通ってさらに先へ伸びる。

こうした道はそこここにある。

現在この道の左右にはビルや建物が建ち並んでいる。
信号や建物に目が行って、道の先の
建物の間になった山の存在感はとても薄い。
今の人にとって道の目印は建物や標識。

建物などなかった昔は、
島や岩、山や木などが目印になった。

海上からも、陸でも。

人や車通りのうんと少ないごく早朝に家を出る日は、
山が息をしているように鮮やかに、晴れやかに見えて、
私もうんと先のあの山の頂を見て歩く。
# by moriheiku | 2013-08-14 08:00 | 歴史と旅

あたりまえの街



ありふれた夜の乗用車のハザード、高架のカープ、側溝のコンクリートの欠けですら,
どこを見ても美しく見えてどきどきするこの景色が、

私のあたりまえの風景になり、その美しさに気づかないようになるまで、
この街に住みたい。
# by moriheiku | 2013-08-13 08:01 | つれづれ

クスノキ

上までヤマフジが巻き付いて、
今時期は木の表面にたくさんのヤマフジの豆が下がってる
大きなクスノキを見上げた。

立派なクスノキ。
無数の葉を濃い緑に茂らせているクスノキ。


この木の前でこの木が立派だと感じるのは、
ヤマフジのような別の木に体を貸すことに犠牲や奉仕を重ねるからではなくて、

まず、ただただ、
ねじれのある太い幹、大きく張った枝
無数のつややかな葉をつけているクスノキに、命の力の発揮を浴びる心地だから。

立派だなあ。すごいなあ!

感嘆するし、圧倒的なすごさにこわくもなるよね。



樹木の多かった日本では、
巨樹は、命の力の発現そのもので、
人は巨樹に、圧倒的な祝福感と畏敬の念を抱いてきた。

宗教が形作られていくと、
こうした特別な木には標(シメ)を張って祝うようになっていった。

このパターンはもちろん巨樹に限らない。
今も自然物を対象にして多く見られる。




私たち(日本人)の信仰の根元は、
教義から始まっているのでもないし、
タブーから始まっているのでもない。
教祖から始まっているのでもない。

取引がはじまりでもなく、約束がはじまりでもなく、
ただただうした自然の実感が根元にあって、

それに社会性や形式、様々の宗教の衣をまとって分岐していったものが
いまに至るまで古来の日本の信仰のかたち。



あちこちでこうした木々に穴をあけて、
薬剤を流しこみ枯らす思いは何だ。
# by moriheiku | 2013-08-13 08:00 | 歴史と旅

ヘリ


さっきから自衛隊のヘリがたくさん上空を通る。

建物に振動するヘリの音。こわい。
# by moriheiku | 2013-08-12 08:01 | 音と笛のまわり

歌手



一声目で心は奪われた。

ああ、この人の声は。

こんなにすごい人だったのか。


無関心でいてホールのシートにもたれていたのを、
身を起こして、その声に混じるように、その人の歌を聞いた。


その人の声は、なぜだろうその人の背後にも厚く響いている。
後ろからコンサートホール中に声が届く。

オーケストラの音も忘れた。



簡単に来日してくれる人じゃないんだと、
あとで聞いた。
あの声にふれることのできた少しの時間。よかったー。
# by moriheiku | 2013-08-12 08:00 | 音と笛のまわり

テリーヌ ゼラチン



今年、お菓子作りと連動して、
ゼラチンを使ったテリーヌなど、
ゼラチン、ゼリーもののお料理に熱心。

お肉や魚介のパテ系テリーヌはほとんど作らず、
透明感があり断面の美しいゼラチンのテリーヌ、
ガラスのグラスや小鉢に野菜や魚介を調味しただしやスープで固めたり寄せたりした
ゼリー寄せや葛、寒天寄せ、ムースに仕立てたもの、
そんなのを多く作ってる。
かなり多く。

一度に作る分量も、
テリーヌ型なら二台分、
一人分づつのデザートグラスやデザートカップなら12個~24個分・・・。

どんだけ作るんだ・・。
たいてい人にもらってもらってるとはいえ。

でもぜんぜん飽きてない。



お菓子もお料理も、ゼリーやムースに力を入れたくなっていたので、
夏前に板ゼラチン1キロ、粉ゼラチン1キロ、アガー500グラム、
寒天は粉寒天だけで500グラム買ったが、
すでに板ゼラチンは買い足した。寒天も。

私のような怠惰な者には、集中する時期は大事。
面倒に感じてたことも、慣れてなんでもないことになるから。
そういうのがひとつ増えるとお菓子作りもお料理も、一層自由になる。


ゼリー、ムースの中でも、
寒天でなくゼラチンを使った和のお料理は私には新鮮。

ゼラチンを使った調味したジュレをかけるだけではなく、
例えば素材によって固さを変えたゼリー寄せは、
ゼリーの中に浮かぶ素材の様子がきれいで、
口の中でほどける感触が新しくて、
ああこれはおいしいなーってつくづく思う。

味も素材の組み合わせも姿も、
ここから付けていくバリエーションは無数なんだ。


洋のテリーヌ、アスピックを作る時にはそれほど気を使っていなかったけど、
調味したおだしなどのゼリー部分を、濁らせず美しい透明に保とうと、
使う素材によってひとつひとつ工夫することも、
素材それぞれの性質を感じることになって発見が多く、
今はすっごく面白いこと。



こんなに作ってるのに意外に減らないのがアガー。
室温でセットするから夏季に持参するのにぴったり、そう思って
うんと使うつもりだった。

たぶん寒天、ゼラチンに比べると、口あたりがそれほどは好みでないんだろう。
これはアガーで作ろうかな、ううん、ゼラチンで、寒天で、葛で、ってなっちゃう。
まだ300グラム以上残ってる。どうする。。

アガーの特徴は、
寒天、ゼラチンにまさる透明感、少しの離水のみずみずしさ。
室温で固まること。
見た目の透明感同様、味と香りにくせがなく、一緒に使う素材がそのまま生きる。
そして(私は案外好みでもなかった)プルンとした口あたり。
ほんと水のようにきれいよね。

良いとこばっかじゃない。ちょっと踏みとどまってがんばろう。アガー使い。
簡単なアガーのゼリー、どんどん作っちゃって、
これは身内にもらってもらおう。なーんて、だめじゃん。
# by moriheiku | 2013-08-11 08:01 | つれづれ

800ml



夏のフルーツをよくコンポートにする。

もう、ほんと、これ、おいしいに決まってるー!
だっておいしいワインやリキュールとかたっぷり使ってるんだもん。
香りもすんごくいい。


できあがったコンポートも大変良い香りがするけれど、
作っている間広がる香りは、
フルーツをコンポートにするよろこびのひとつ。

できたコンポートは、
コンポートにしたフルーツよりも、
むしろこのシロップがごちそう。

市販品のコンポートのシロップとはまったくことなる
おいしいものができるので。


このシロップは、これから様々なデザートにかわる。時には料理にも。
さらりとした美しい香りの水。


そういうわけで私にとってコンポート作りは、
ジャムを作ることはくっきりと違うことになってる。




今日コンポートにしたのはまたも!桃。

桃はいただく機会が多いので。

私は桃の生食は、あ
ればおいしくいただくけど特別好きということでもなく、
むしろ料理に使いたくなるくらい。

桃好きさんには眉をひそめられてしまうけど、
そういうわけで私にとって桃は、
スイーツにするのなら、まずコンポートにしたくなるフルーツナンバーワン。

そして周囲に桃好きさんが多いので、
生食でもお、菓子でも、皆でいただきたいフルーツの代表。


桃には白ワインを使うことが多い。
そしたら生だった桃が、私のすっごく好きなものになる。不思議。


この香りの高さと、
淡いピンクに染まったできあがりの透明な水は、私にとっては魔法。
今回は約800mlの魔法ができた。
# by moriheiku | 2013-08-11 08:00 | つれづれ

和菓子づくり



七月に入ってからはいつも、和菓子を作る回数が増える。

葛や寒天を使う涼しげな和菓子。

みずみずしい緑のカエデを添えて出すような、日本のお菓子。

日本人で日本のきれいさを
心が知らず知らずに知っていることを思うことだ。



洋菓子を作るときは、
たとえばコンポートを用いたお菓子を作るように、
味、香り、舌触り、技術など様々な要素を組み合わせて、
あるイメージ、ある世界を作りあげていくことの楽しさが大きい。

和菓子は、丁寧に手をかけても、シンプル。
より素材に近づけていくような気持ちになる。



和菓子の世界にある余白のきれいさは、
水や草や花、木々のきれいさが宿っている気がする。

引き継がれる記憶のDNAってあるんじゃないかって思うことがある。
日本の記憶が刻まれているんじゃないか。
雑多な現代に生まれても、日本の自然がなじんでいることを思う時に。
# by moriheiku | 2013-08-10 08:01 | つれづれ

お菓子



この頃は季節でお菓子作りがずいぶん変わるようになった。

フルーツ等お菓子の素材はいつも変わるけれど、
素材の変化でなくて
作るお菓子の種類が季節でだいぶ変わるようになった。


五月まではパイ生地を使ったお菓子あれこれを、熱心に作った。
20度を超えたら生地がダレてしまうからと、
気温が上がるぎりぎりまでやっていた。


六月に入ってからはクールデザートが主。

六月中はもっぱらムースで、
それをムースケーキに仕立てることが多かった。

七月八月はゼラチンのもの。
ゼラチン、寒天、アガーを今年はたくさん消費。
お菓子のゼリー、お料理のゼリー。今も継続中。



私は洋菓子は歯ざわりに変化のあるものが好きなので(和菓子は別)、
普段はムースケーキのような組み立てるケーキの土台にする生地は、
ふんわりしたジェノワーズのスポンジ生地でなく、
だんぜんビスキュイやダックワーズ生地、シュクレやブリゼのタルト生地を好む。

けど作るお菓子は人にもらってもらっているので、
人様に喜んでもらえるもの、
それにムースとの組み合わせのことを考えると、
やはりジェノワとの組み合わせは良い相性。

ジェノワ生地といっても様々だから、これはとってもいい機会。
色々なタイプを作ってみることでイメージの幅も広がって面白い。
作らせてくれてありがと。
# by moriheiku | 2013-08-10 08:00 | つれづれ





谷にけむる白。

水墨の世界に匂う夢のようだ。

谷の白梅。
# by moriheiku | 2013-03-07 08:01 | つれづれ