カイゼン


お見舞いの時に見た自分のあきれるほどの心の狭さ冷たさを、
どう考えてもこりゃいかん、と反省中。

まず病気の人と接する時の心の持ち方を書いた本を2冊注文。

これを読んで自分の浅はかなところをよく知って、
0.1ミリでも思いやりを成長させたい。


病気の人が言う文句の後ろには、
病気であることの不安やこわさや、
ほんとうに言いたいことがあるのだろうから。

そこを、わからないなりにも少しでも汲みとって、
こういうことがあった時には、
わずかでも病気の人の負担を軽くできるようになろうと思った。



私は非常に辛らつなことを思うことがある。
そのように人に対して何かを思うことは、
同時に、同じ刀で至らぬ自分自身を切りつけていることだから、

この頃の私の心は、手負いで痛い。
実際の病気の痛みにすれば、生ぬるい痛みだけど。


人を判断する人や、人を批判する人は、
その刃で同時に自分を切る痛みを、どうされているんだろう。

ま、そんなことはいいわ。



私の生来の性質は変わりづらいかもしれないけど、
病やケガで痛みのある人と接する時の心については、
学んで改善できる部分があると思うので、
学びたい。

カイゼン、っすーーー。ガンバレーー。





よくこういう短気で浅はかなこと思えるものだと、自分に唖然。自覚して強くなれ、私。
・2012-04-24 冷たさ
・2012-04-25 トントン
・2012-05-01 反省
幼稚すぎる。ひとまわり大きくものを見ないといかんです。








# by moriheiku | 2012-05-15 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
木の葉


ホームで電車を待っていたら、
○○駅と○○駅間で信号故障があり、
信号の点検中で列車の到着が遅れているとのアナウンス。

あ~と思って電光の時刻表の方を見たら、
お隣に並んでいた女の子と目が合って、互いになんとなくにっこり。

そんなに遅くはならなそうですね、となんとなく会話。
こんな時すぐに携帯を見ないのは、めずらしいかも。

女の子は大学生で学校の帰りだそう。
あとは家に帰るだけなのでちょっとくらい電車が遅れても大丈夫なんです、って。

ほっそりした育ちの良さそうな素直な雰囲気があってきれい。
三年生なので今日は就職活動の説明会が学校であったそうだ。

たまたま同じ駅で下りるとわかった。
出口は私とは逆方向。お家は駅の○○口を出て南の方の呉服屋さんだそう。

卒業後ご両親はお店をお手伝いしてほしいとおっしゃる?と聞いたら、
それがどっちでもいいみたい、って。

電車を待つ人がホームに溜まってだいぶ混んできた。
電車が来て乗車してからも、立ったままなんでもない話をしていた。


会話中、
それは円周上にモニターをいくつか並べて見たら面白そう、っていうものがあった。

でも普通は個人でそんなにたくさんモニター(ディスプレイ)、は持ってないし。
テレビがすごく多くて、物もちもとても良いお家だったら、
もしかしたら使っていないテレビもあわせたら出来るかも、
という話に。

私の家ならできるかもしれない、と女の子。
私の部屋にもテレビが三台あるから、って。
家はテレビがたくさんあるんですって。

どうしてそんなにたくさんテレビがあるの?!って聞いたら、

昔から着物をよく買われるお客さんがたが居らっしゃる。
例えば芸者さんのような方々は、お仕事がらたくさん着物を誂えられるんだけど、
まれに着物の代金をお支払いしない人がいるそうだ。

そうするとある日、その大学生のお父様(呉服店のご主人)とおじ様が、
バンで、たとえばその芸者さんのお宅まで行って(在宅時に急襲)、
お代金の代わりに家電や家具を持って来ちゃうそうだ。

そういう方々はお着物代をお支払いしなくても、
豪華な家電や家具を結構どんどん買っていらっしゃるんで、
それを代わりに、と・・・。

それで女の子の家には、家電や家具がたくさんあるって。

えー!呉服屋さんの御商売にはそいういう一面も??!!
思いがけないハードな。


それでお代がわりにその日持って帰った家具家電はどうするの?
(お家にテレビや冷蔵庫がたくさんあっても・・・)
お支払いと引き換えにお返しするの?

って聞くと、さあ、って。そこのところはよくわからないって。
あーどうして聞かないのー。それが普通だから?ご両親に聞いてー。

家の中で物が増えたり減ったりはするけれど、
子供の頃からそのままのものも中にはあるそうで(何か良い木の艶のある箪笥など)。


う~~~~~ん、なんでしょう、この面白さ。

このお嫁にほしいような女の子の口から
バン、とか、トラック、っていうところもリアル。
普段乗っているセダンでなく。

ふふふふ。聞けば聞くほど面白い。


下車した駅の改札で女の子とまたねと別れた。
きっとまたはないと思うけど。




自分とは違う環境や、育ち方、職業、性別、年代の人のお話は、ほんと面白い。


私自身がめったに出会うことのない職業、ということでいえば、
たまたま乗り合わせたタクシー、
一時華々しかった元プロボクサーのタクシー運転手さんとの会話。
銀座の豪遊からタクシーの運転手を選ぶまでのこと、結婚のことや。
なつかしそうにお話されていると、
運転手さんからボクサー時代のラフな風が蘇って、後部シートに吹いてくるようだった。
タクシーのお仕事のご苦労をニュース番組で聞いたことがあったので、
全然職種が違うから転職されて大変ではなかったですか?と尋ねると、
いや、気楽だね。稼ぎはうんと減ったけどねー、
やっぱりボクシングに比べると気が楽なのがいいね。楽しいよ。
とおっしゃっていた。
当節のタクシーの運転手さんがたのご苦労はもちろんあると思うけれど、
この運転手さんは楽しげにざっくばらんにお話しされているけど、
プロのボクサーは、命のぎりぎりの身体で生きているのね、と思った。
運転手さんの強さを感じた。


また、私がちょっとケガで入院してた時のこと。
入院患者同士はギブスしてたり、頭と首を支える櫓を肩から立てていたり、
みんなどっかケガをしてるんだけど
口はたいてい元気なので患者同士でよくお話してたんだけど。

その中の一人がレーサーだった(この方は腕固定タイプ)。
ほんとー?なんて言ってたけど、実はその病院はいろんなレーサーが入院されるところだった。ハハハ。
その人が一足先に退院後、まだ入院中のみんなのお見舞いに来てくれて、
みんなに所属するレーシングチームのカレンダーをくれた。

おおぅ!ある自動車メーカーのレーシングチーム。
表紙はてんで無知な私もテレビでよくお顔と名前を知っている人じゃないですか。
えっ、○月のこれ、○○さん?
顔の前で革のグローブの手を広げかっこ良く写っているこれ、○○さん?
指の間から鋭い眼光。
でも手で顔全体は見えないから、もしかして別人?アハハて感じだったけど、
あとで人に、え、○○っ、会いたかった、なんでサイン貰っとかなかった、と言われた。


こうした私にとっては珍しい職業の方々のお話は、
外国の見聞録や、外国の写真を見るようなめずらしさが楽しいことが多い。

目新しさ。珍しい出来事。


でも例えばそこに入院中、本当に胸に残っているお話は、
たとえば脊椎カリエスで入院されているおばあさまと
お近くにお住まいでお見舞いにいらっしゃるご友人のお爺さまお婆さまがたとの会話。
涙が出るほど楽しいことも、悲しいことも。


本当に興味深く、面白いと思うお話は、
なぜだろう普通の生活をしている普通の人の話の中にある。

同じあいうえお、アルファベットを使いながら、
過去から現在まで様々な物語が生まれてきた。
普通の人の話はそれに似た面白さがある。


同じようにお茶碗とお箸でごはんを食べて、
一見、遠い外国の写真や、珍しいイベントのようには目新しく見えない誰かの人生は、
聞けばすみずみまで異なる物語があって、

ことばの一葉一葉は、それぞれの人生に裏打ちされている他にはない面白だ。
話す人にとってはあたりまえのことも。


こういう会話の時、出来事よりもむしろ
ある出来事に接する人たち自身のそれぞれの人生の感触の方に、
私の心は動いているかもしれない。



それらは話す人にとっては格別のめずらしさでもないので、
聞いてくれ吐かせろと生ぬるい息を吹きかけてすり寄ってくるようなあつかましさもない。
(ああ、私は辛らつ。)

ひらひら、色んな木の葉が降ってくるような、
爽やかさ。


雨降りに、一粒一粒が甘露のような、雨を聞いているみたい。



なんとなく今、漁師さんちのお話を、聞いてみたいなー。









・2011-08-21 立ち話



D君と生き物のはなし  D君には日常
・2010-04-10 エイの話
・2010-04-11 タツノオトシゴの話



・2009-09-09 清き瀬を馬うち渡しいつか通はむ
・2009-11-08 中世芸能の発生 239 さぶるこころさまねし
・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々








# by moriheiku | 2012-05-14 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
路傍の石

髪を切った。
今日行かないんだったら、次に美容室に行けるのは六月になっちゃうと思って。
急だったけど幸い予約を入れられた。

いつも衝動的に行くのでスタイルの計画はなし。
なんでしょうか、私見ですが、私見であることを願いたいですが、
生活感あふれるショートじゃないですか。
(他の人から見てもそうだったりして。)
私の髪は量が多すぎて、思うような軽さになりません。

ショートは手間がかかるよ、と
あらかじめ美容師さんが言ってくれたけど、
ずっと短く切りたかったからそれはいいの。

毎回美容院から帰ってきて泣いて怒っているが、今回泣く気にもならず。
人はいちいち私の頭など見てないし、もういいわ。


どう、と周囲に見せたら、
一人、前より活発そうになった、って。

ツは、どうして切っちゃったの、って。
ツは長いままにしてと言ってたから。

2歳くらい若返った?とみんなに聞いたら、
変わらない、って。

えーーーーー。
こんなに切ったのに、生き生きと若返りもせずってあり?笑える。


9人対1人で、前の方が似合ってた、って。どんなよ~。
(今の方が良いが1人、なぐさめてくれたかも)。
が、数日で見慣れてくれるはず。きらわないで~笑。

でもこれ、どんな服を着たらいいの?



今思ったけど、オカダマサキのようなくるくるのショートヘアにしてみればよかった~~。


何年か前ショートにした時とは違うタイプのショートヘア。
結構短くなったので、その気があれば、
伸ばしていく間に色んな髪型ができそう。


普通のショートだけど、やっぱり私、
も少しだけ女らしい髪型の方が好きだった。


笑うしかないという現在の心境を観察。フフ。


色気なく(もともとあったかは別として)、路傍の石のように、
断髪した気持ちで一年くらい過ごそうっと。







# by moriheiku | 2012-05-13 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
霧  類感


暗闇になる少し前には、ヤマフジのなだれる場所に行けそうだった。
山に近づくと、麓の前あたりで、周囲が白く薄くけむるように見えた。
焚き火の煙が広く流れたあとかと。
火のにおいはない。山肌も空にもどこにも濃淡はない。


しかし北に向く傾斜がはっきりするあたりまで来ると、
水の匂いがいよいよ肌に触れて、これは雲。霧とわかった。
ずいぶん平地の方まで雲が降りた。


あの場所へ行く途中にも、
日光を求めて高い樹木に巻いて昇ったヤマフジの、藤色の花の房が
あそこにここにあるはずだけど。
霧は濃くなり、日暮れが早まったように暗くなって、フジの昇った先は見えない。


毎年ヤマフジの若い緑と藤色の房と蔓が岩肌をなだれる場所で、
ヤマフジは、霧にかすむ中からあらわれた、広く流れる滝の一部のように見えた。

強くうねる幹、みずみずしい葉、うつくしい花のしたたり。
山の水を甘くするヤマフジの香り。


薄暗い霧の中で、ヤマフジの命が光っている。

目で見る光でなく身体で見る光だ。


私がヤマフジの花をいつもいつも待っていつも山の中へ見に行くのは、
それにふれて、私の命が動くからだろう。 同調して。
そんなことは言葉で考えなくても身体は知ってる。
だれでも。ずっと昔の人たちも。ずっと。








うつくしいとは。

万葉集。
万葉人が、うつくしいとは、色や形の面白さでなく
それぞれの姿の中に見出される生きようとしているそのエネルギーを
うつくしいと捉えていたこと。

日本人は自然に命を寄せ重ねてきた。
観念を重ねたのでなく具体的な、身体の、実感の重なり。

池坊さんは、植物にふれることで、
古い時代の日本人の感触を共有されてきたかたなのだろうと思った。
・2012-03-17 中世芸能の発生 431 春の野



古代における神聖とは
・2010-03-16 中世芸能の発生 297 土地の木
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは

神聖の本質は、現代イメージされるタブーでも清浄でもなく、
イノチ生命力の強さが神聖だったこと。
そのことは万葉集歌におけるタマや倭文の用例とその変遷からも理解される。

いきいきしたものにふれると私の命もいきいきする。
さわやかな場所にいけば気が晴れる。臭いものに気持ちはふさぐ。あたりまえのこと。





日本の民俗、ないし信仰のベースは、
論理的、哲学的、体系的、抽象的な思想にあるのでなく、
ある意味原始的ともいえる自然とその実感、自然との共感に基づいている。
素朴な類感の世界だ。

それは発達展開した思想を重ねた後世において、一見見えなくなっているようでも、
消滅することなく民俗の底に生きている。
イノチに近い部分だから。普遍性をもって。

・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元

自然の中に立つ時、
私は日本の文化や宗教は、自然の実感が根元にあると思う。
それは個別化された神や仏より前の、
自分もその一部である自他の分かれない自然の実感だったと思う。




私達は、自分達の生きる時代におけるある物の意味を通して、
いつもその深い底に、本来の性質に、
流れつづけている太い水流に、
常に触れているのではないだろうか。
そこにふれて、心身は動く。
・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷





自然の体感、自然と人の共感が、願望達成のための呪術に展開。 芸能への流れ。
・2012-02-16 中世芸能の発生 428 「ホ」 穂(ほ) 寿(ほ)ぐ 誉(ほ)む 言祝ぎ(ことほぎ)
・2009-12-11 中世芸能の発生 263 ほうほう蛍 まじないのことば
・2009-10-28 中世芸能の発生 233 ふくらすずめ
・2010-02-14 中世芸能の発生 295 奄美のユミグトゥ(ヨミゴト)


自然との類感 → 呪術的性質の芸能 → 芸能    アメノウズメ 白拍子
・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽
・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし


自然との類感 → 呪術的性質の芸能 → 芸能    相撲 囃子
・2010-05-14 中世芸能の発生 309 はやし はやす
・2009-05-13 中世芸能の発生 131 だだ 足踏み




古代の人にとっての花見とは。 

旺盛な咲く花に接して、花の命の旺盛さが伝染して、
こちらの命が活発化することが期待された。
威勢のいいものに接すると、つられてこちらの威勢もよくなり活気づくというような、
元は素朴な身体感覚に基づくもので、
それは身体が自然に求める薬であり、
神仏を媒介に頼まないという意味で素朴なまじない(呪術)の行為でもある。
広く行われていた古来の習俗。
古代には薬、医術と呪術は同じ範疇のものだった。
律令制において宮内の典薬寮に医師と並んで呪禁師が置かれていたように、
その時代にもなお医と呪術は融通している。

花見の習俗。
イノチを活気づける花見 (山見、鳥を見ること、国見) の習俗
・2011-02-24 中世芸能の発生 382 ビターオレンジ ダイダイ(橙)
たとえば御所の、お雛様の、右近の橘(オレンジ)も。

五月の節句 菖蒲の葉
・2010-05-15 中世芸能の発生 310 くすり 呪術

万葉人と花 
・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花





私は結局のところ、論理や理論より、身体感覚を優先する。
その点ひどく現実的。

世の中の全てのものごとの中で、自分が実感できることなどごくわずか。
だから身体感覚を優先することは僭越、という考え方が
まっとうな考え方なのかもしれない。

ただ、さまざまとの接点に身体が感じる感触で、私は世界を認識するから、
その感触は、全ての論理の底。

その感触は、
論理や理論にならない森羅万象の底。

その感触は、
目や耳や肌で組み立てる世界の底。

と思う。
ただ感触する自然を、あると思ってる。
・2010-07-01 ぜんぜん論理的じゃないこと




類感・共感の世界 
・2009-12-08 中世芸能の発生 260 呪術・宗教と身体感覚
・2009-12-07 中世芸能の発生 259 類感 感応
・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型
・2008-06-01 自然と我 04 古代の信仰




滝の水。
命を活気づける祝福。和歌。
古い歌には、イノチのいきおいがある。
ことばの中の水に、自分の水が響く。
歌の中に、石走る水が流れつづけている。
そこに立っているような、ほとばしる水の実感。水に響くイの、祝福の体感。
・2010-08-30 中世芸能の発生 352 滝 木綿花
・2011-03-03 中世芸能の発生 385 石走(いはばし)る垂水(たるみ) 祝福
・2010-09-02 中世芸能の発生 353 ことほぎ 自然
滝の水 命を活気づける祝福。和歌。





私は、日本の民俗や信仰を語るのに、神仏の系譜ばかり追うことは、
むしろその本質から離れていくことだと思う。


またこうした自然とそれにふれる身体的実感からおこった素朴な呪術的行為を、
オカルト的に特別な力のように言うものには、違和感がある。


特別なもののように言う心の底には、
自分への特別視や、自分の優位を求める生臭さがあることも多く。
そこで、自分の心の生臭さは見ないことにしておけるのかな、と思う。

もちろん人それぞれで、
そう思うことで自尊心を保てるなら、それでいいんだけど。
そんなことより、人に親切なことの方がよほど大事だし、
周囲に思いやりをもって接する人の方がよほど素晴らしく、尊敬できることだ。
と思ったりする。余計なことだな。
私の心がせまい。






# by moriheiku | 2012-05-12 08:00 | 歴史と旅 | Trackback | Comments(0)
山の香




あの桐と山藤の木が咲きだしたようなので、

どうしても、と山に行ったけど、

もう時刻が遅すぎて、暗くなって花は見えなかった。




山よりもわずかに明るい空に、

見上げる桐の枝先がシルエットになって、

ああ、あそこに、

花があるとぼんやりわかった。



夜のはじまりの匂い。

桐と藤の花の香りがよくする。

花は見えないけど、ここで咲いている。







耳に聞こえない鈴の音が鳴っているような、桐の花。
・2011-04-19 中世芸能の発生 387 桐の花 自然という底流



ヤマフジ
・2008-04-30 山の紫
・2010-05-06 水の香







# by moriheiku | 2012-05-03 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
反省



お見舞いの病室で思う自分のすんごい心のせまさと冷たさ。
さすがに自分でも、うひゃーこりゃいかん、どうかしてると猛猛猛反省。
つづけてお見舞いに行く私。



お見舞いする相手は、良くなりたいと思って心臓の手術を受けられた人。
手術中に心臓が止まったままになってしまうこともあるところ、
術後意識も回復。

しかしその後、
病院で指導される治療のリハビリや食事やあれこれをなさらないようで、
私は不思議に思った。

何のために手術を受けられたのですか。
良くなるためですか?

それとは逆のことをしていることに、疑問を感じることはないですか?
矛盾にどう折り合いをつけていらっしゃるのですか?
と。

ただ疑問として。ほんとうにふしぎに思って。



しかし、あと3キロやせたらってずっと思ってて、
たったそれすら実行できない私が、そんなこと思うなんて。ハハハッ。

あと5キロやせたらすごすぎ!と思いながら
さっぱり実現できないというそういう私が、

人には、矛盾にどう折り合いをつけていらっしゃるのか、なーんて
そりゃ自分自身に問うてみろ!と、そりゃおかしいだろうと
帰りの電車でプププッっと笑う。



術後日も浅いのだから。
経過が順調でも、患者さんは二、三か月はコルセットつけたままで大変。
痛みや不調があるし、体が元の状態に近づくまでに時間もかかるでしょうし。
痛みのある患者さんの何を私がわかるのかと自分で思う。

どうなるかはわからないけど。
その人の一番そばに居る人が、良くなってほしいと願ってる。
ゆっくり良くなったらいいわ。



それにしても、それにしても。
自分があんまりにも人の心をわからんちんなので、人に聞いてみた。

命があるかないか、まだ瀬戸際のような方が、
望んで手術を受けられて、手術は成功したんだけど、
その後治療に協力されないってどんなお気持ちだと思う?って。

そしたらあまりの私の本気でわからんアホアホぶりに
丁寧に教えてくれた。


その人は今、術後の痛みや体のきかない大変さがあると思うけど、
それでも手術前とはちょっと違っていて、
手術前の息苦しさとかそういうのは減ったと感じられているのでは。

手術して悪かったところは治ったみたい感じられているのでは。って。


そっか。ありがとう!
痛い時の人の気持ちを、少しづつでも汲めるようにならないとね。



その入院されてる人のように
わかりやすく生死の境に居る人だけでなくだけでなく、

誰でもほんとは、この瞬間も死に向き合っていて、
次の瞬間にも死んでいるかもしれないんだから、

今できることを避けているのは、
その患者さんも自分も同じ、

って、耳触り良い、おさまりのよいところでおさめたくはないけれど。

人に対して思ったことは、自分に刺さる。





# by moriheiku | 2012-05-01 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
アオ



雨の落ちる薄暗い庭で、やわらかいあやめが、青く光っている。





青い花

・2009-06-04 クレマチス
・2008-04-29 アヤメ
・2008-05-06 夏の模様
・2010-05-04 青い花
・2008-04-16 池



・2009-04-27 古い山
・2010-05-06 水の香
・2008-04-30 山の紫




高い枝に、鈴の音が鳴っているような、桐の花。
・2011-04-19 中世芸能の発生 387 桐の花 自然という底流






青い花。青い花の香る、季節の移る時期が、たぶん私は好きなんだろう。
緑の水の匂いがする。








# by moriheiku | 2012-04-28 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
フジ


ぱお(実家)の藤棚の藤花はほんの5センチだったのが、
4日後には30センチ近くなって、
淡い藤色の花弁を開いていた。

房の長さに対して、
今年は花がすかすかだ。
それはこの家の地勢のようで、かなしかった。

そのように意識する自分がどうかと思う。
キモの据わらないこと。

藤の花は肥料を食べるので、
せめてよく肥料をやっておかなければいけなかった。




藤の花 ヤマフジ
・2009-04-27 古い山
・2010-05-06 水の香
・2008-04-30 山の紫
いつも山藤を待っている。




・2009-06-04 クレマチス
細い緑の曲線に、青い花







# by moriheiku | 2012-04-27 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
トントン



心臓の手術を終えた親戚のお見舞いに。
集中治療室で、身体のあちこちにつけられた管が、色んな器械につながっている。

6時間ほどの手術は成功し意識が戻ったが、術後のショックで少し混濁されている。


ここはお寺だと私に言う。
看護婦さんが「ここは病院ですよ」と話すけれども、
ここはお寺で、自分は四角い棺桶の中に居た、葬式をしていた、
今朝も上で葬式があった、と言う。
うそだと思うだろう。でもほんとなんだ。と。


私には、ほんとうでも夢でも、どちらでも同じ。
どちらだってかまわない。

誰でもはるか遠くにも近くにも複雑に影響しあう中で生きており、
自分の思いの及ぶ範囲という狭い中で生きてない、

自分の想像できる狭い範囲でない大局の中に生きているのだから、

ここはお寺だという自分の考えに固執したり、
そこに意味を見る必要もないことだ。

ここは病院でもお寺でも、棺桶でもベッドでも、
どっちだっていい。

お経を聞いたとか何かを見たとか、
そういうご自分にフォーカスするより、

今できることを、なさればいいんじゃないですか、と思った。


しかしこんなことは通じないだろうと思って言わなかった。

人への通じなさでは、患者さんと私はトントンか。
自分ではあやしいと思っていないという点でも。ハハハ。



そういうことはあるのかもしれませんね
(でも気にしすぎることはないと思いますよ ←心の声)、
とお話を聞いていたけれど。

誰も信じてくれないんだ、とどんどん熱く話されて、
ベッドの横に居る私から目に入る計器の一つの、デジタル数値がどんどん上がり、
チャイムが鳴りはじめ、自動的にセンターに知らされる。



ベッドの側で寝泊まりしている人が、
ベッドの人が、ここはお寺で棺桶に入っていてお経が聞こえて、
と話すのを聞いて、
呆れたというふりをしながら涙ぐまれるので、私は、

「生前葬をされた方は長生きされるって前に聞いたことがありますよー。
もうお葬式を先にされたのなら、きっとご長寿ですよ^^」
とおちゃらけた。

それがいいともわるいとも、どちらともないけれど、
生きていてほしいと願われていたから。

寝泊まりされている人は
涙をこぼされながら、笑っていらした。


この人にとって、患者さんは、
大切な人なんだと思った。







----------
ひとつのことを自分の想像の範囲で判断すること、
ひとつのことに意味を付けすぎることはあまり意味のないことのように思う。

・2012-02-27 他力本願
・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること

それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救い。







# by moriheiku | 2012-04-25 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
冷たさ


またお見舞いに。まだ集中治療室だが、
慣れた人が体を支え時間をかければ座れるようになったそうだ。
器械と体をつなぐ管の数が減った。
調子が良ければ二、三日後に一般の病室へ移る予定だそう。


ごく軽い食事が始まったが、口に合わない、と
気に入ったものをほんの少ししか食べないそうだ。

朝から一日ケンカばかりしている、と
泊りがけで看護している人が困っている。


見てごらんとおっしゃるので、
入院スケジュールなどの記載のあるファイルを見せてもらったら、
患者さんのお食事のこと、治療食と書いてあった。

「お食事のこと、治療食っていうんですね!
普段召し上がるお食事とちがって、お食事は治療の内かもしれませんね。
お元気になれるようなお料理かもしれませんよ」

と言ってみたけど、口に合わないものは食べたくないとのこと。
そっか。


呼吸の練習をするための器具を渡され指導していただいたものも、
一切しないそうだ。


立ちあがれるようになったら売店でお寿司やジュースを買ってきて食べるとか。


必要な時刻にお薬を看護婦さんが配ってくださるのを、
「薬漬けだな」と文句を言う。


誰に文句をおっしゃっているのだろう。
病気になっている自分自身に?

見やすい表になっている入院中の予定表は、
私には良くなるための予定表に見える。



この方は、いったいどうされたいのだろう?

何のために手術を受けられたのかしら。

良くなりたかったのではないのかしら。

何もかもいやでいやで、これが病人のストレス発散かも。



一つ一つ文句を人に訴えられるけれど、どうして?
どう思ってもらいたいかしら?
被害者であると同意をしてもらいたい気持ちも少しはあるかしら?



痛い。つらい。と訴えるのは良い。

それはつらそうだから、聞いて、
できれば軽減してさしあげられればと思う。

まだ泊りがけでお世話してくれている人に
負担をかけないようにと思う余裕はなくても仕方ないか。





ただ、生死の狭間にいて、


何のために手術を受けられたのですか。
良くなるためですか?

それと逆のことをしていることに、
疑問を感じることはないですか?

矛盾にどう折り合いをつけていらっしゃるのですか?


と聞いてみたかった。


ただただ純粋な疑問で。





私のこの、
底冷えのする冷たさが、どうかしている。









# by moriheiku | 2012-04-24 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
鹿の角

父が、
ゴルフ場で拾ってきた、と言って、
鹿の角を見せてくれた。

兄の子供たちに「見せてやろうと思ってな」と。


あのゴルフ場では鹿を見かけることがあると聞いていた。

対の角の片方。
もう片方も少し探したけどなかったんだ。と言っていた。



象牙のように重い。
頭から落ちたばかりの角だから?

私が二十年くらい前に、
ハンズで見てかっこいいと思って買った鹿角は、
もっと軽い。

時間が経って枯れたから?








鹿角のこと。鹿のこと。
ずっと日記(中世芸能の発生)に打ちたかったこと。

自分の中でわかって文字に打っていないこと。

打とう打とうと思って何年も経ってしまった。
早く打とう。整理しよう。






身に沁みる情けが、情けない~。タハハハ~・・・ハァ。
・2008-02-25 奈良の鹿に食べられました





動物シリーズ?
いつも思いがけない!D君と生き物の話

イグアナ
・2010-04-09 D君の、イグアナの話

エイ
・2010-04-10 エイの話

タツノオトシゴ
・2010-04-11 タツノオトシゴの話

スナメリ
・2009-08-25 海路







# by moriheiku | 2012-04-23 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
水の匂い



水の匂いがする。

花がまじって甘い、水の匂いがする。






# by moriheiku | 2012-04-22 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
自説をのりこえていく



私、わかんないことばっかで、歴史も知らないし、
この日記はばかの記録だ。



上下も左右も、北も南もわかんない中、
あっちからふといい匂いが香った方につられて歩く。


知らないことは楽しいこと。
誰かにとってあたりまえのことも、
自分には新鮮なはじめてのこと。


それでも、知らなすぎて、あんまり行きあたりばったりで、
私はあまりに遠回りをしているから、

レーザーのように、ピンポイントで見透す目がほしい。



経験を通して、今時点の、自説をのりこえていきたい。








# by moriheiku | 2012-04-12 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
中世芸能の発生 434 片手落ち 観念 実感

つづき


知識は助けになることがあるけれど、

知識だけでは、周辺をまわりつづけるだけで、
深いところへはいけない。

身体感を通してしか、
近づけない至れないものがあると思う。

物事ってたいていそうなので、すごくあたりまえだけど。




たとえば信仰や宗教を、○○神の系譜はと、
神仏の系譜でたどることをもっぱらとされることの違和感。

それは、詩について語る時、
文章の技法や技術を語って判断し、
詩の魂を語らないのと同じで、

神仏の系譜や技法ばかり目を向けて信仰を語ろうとするものは、
その核、本質から離れることだと思う。


身体感抜きで、
信仰や宗教を語ることはできないのではと思う。その歴史も。



文化も同じで、

系譜だけをもっぱらに語る時、
文化や民俗の核、本流を語れないと思う。




身体感抜きで語るのは、片手落ちだと思う

・・て意見は、よそで全然聞かないので、
私はずれているんだろうか。






・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元
自然の中に立つ時、
私は日本の文化や宗教は、自然の実感が根元にあると思う。
それは個別化された神や仏以前の、
自分もその一部である自他の分かれない自然の実感だったと思う。




木綿花。
古い歌には、イノチのいきおいがある。
ことばの中の水に、自分の水が響く。
歌の中に、石走る水が流れつづけている。
そこに立っているような、ほとばしる水の実感。
春のよろこび。 水に響く祝福の体感。
・2010-08-30 中世芸能の発生 352 滝 木綿花
・2011-03-03 中世芸能の発生 385 石走(いはばし)る垂水(たるみ) 祝福
・2010-09-02 中世芸能の発生 353 ことほぎ 自然





たとえば『風姿花伝』において、申楽(猿楽・能楽)のはじまりを、

“推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰て、且は天下安全のため、且は諸人快楽のため、六十六番の遊宴を成て、申楽と号せしより以来”

との記述。

ここの記述はよく取り上げられているけれど、なぜかここから、
申楽のルーツを聖徳太子、秦河勝に求めるものがほとんどみたい。

申楽のルーツを求めようとされる方々は、
なぜ聖徳太子、秦河勝の系譜ばかりを追うのだろう。

名前が意味を持たないわけではないけれど、
こうした名前はある意味契機や象徴や権威付けであって、

この部分の記述の核は、
身体に響かせる「天下安全」「諸人快楽」、
祝福の方だと、私は思うけど・・。ずれてるの?

・2011-06-19 中世芸能の発生 400 遊び 神楽





・2012-04-07 中世芸能の発生 433 太い水流





私達は、自分達の生きる時代におけるある物の意味を通して、
いつもその深い底に、本来の性質に、
流れつづけている太い水流に、
常に触れているのではないだろうか。
そこにふれて、心身は動く。
・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷





私は結局のところ、論理や理論より、身体感覚を優先する。
目の錯覚が簡単にひきおこされることなどから、
身体感覚はあてにならないと知ってもなお。
抽象的で昇華された観念よりも、最終的には、身体の実感を優先する。きっと。
その点ひどく現実的。

世の中の全てのものごとの中で、自分が実感できることなどごくわずか。
だから身体感覚を優先することは僭越、という考え方が
まっとうな考え方なのかもしれない。

ただ、さまざまとの接点に身体が感じる感触で、私は世界を認識するから、
その感触は、全ての論理の底。

その感触は、
論理や理論にならない森羅万象の底。

その感触は、
目や耳や肌で組み立てる世界の底。

と思う。

ただ感触する自然を、あると思ってる。
・2010-07-01 ぜんぜん論理的じゃないこと





これまで見てきたたとえば「チ」の感覚、「二」の感覚、「ヒ」の感覚は、
自然に接する身体の感覚としてよくわかる。

これら古い一音節は、私は、
身体に感じる自然の働き、自然の性質の種類とその感触を、
声の音にしたものだと思う。

私は、「チ」「二」「ヒ」の感覚は、
直に自然に接する時、はじめに感じる肌感だと思う。

また、自然の中で、科学や星の運行や、
これまで得てきた知識を、ひとつひとつはずしていった、最後に残るもの。

多様な自然を総体として捉えているとき、
自然と身体の接する所にある身体の実感であり、自然の姿だと思う。
・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感
・2010-07-07 中世芸能の発生 335 固有名詞にならないもの





万葉集。万葉人が、
うつくしいとは、色や形の面白さでなく
それぞれの姿の中に見出される懸命に生きようとしているそのエネルギー、
それをうつくしいと捉えていたこと。

日本人は自然に命を寄せて重ねてきた。

観念を重ねたのでなく具体的な、身体の、実感の重なり。

池坊さんは、植物にふれることで、
古い時代の日本人の感触を、
共有されてきたかたなのだろうと思った。
・2012-03-17 中世芸能の発生 431 春の野





身体に実感をよぶこと。
身体の感覚を起こすこと。

歴史をたどって
自然を身体の中に起こす
遊びだ。
・2009-03-01 草の息

私はただ、ずっと、それだけをしている。






ものと人の共感に、
人のことばの発生と本質があると私は思う。
・2010-04-02 中世芸能の発生 299 ことばの発生と本質




つづく










# by moriheiku | 2012-04-11 08:00 | 歴史と旅 | Trackback | Comments(0)
ことばの発見



すみれの巻いたつぼみが咲きそう。

ああ、私は、よろこんでいるのか。




これをあらわすことばは、祝福。

このすみれは、祝福。








小さなことに心は動いて、
よろこんだり悲しんだり怒ったりして
毎日を過ごす。





花が咲いて心が動いたりうれしく思う心は、
意識はしてないけど、
私の命が、さまざまの命を喜んでいるからかな。

・2012-03-17 中世芸能の発生 431 春の野







ケヤキ。大樹の祝福。扇の神聖視。
・2010-10-12 中世芸能の発生 358 扇の民俗 ケヤキ
樹木の祝福(生命力) → 扇の祝福 → 神のヨリシロとしての扇
に展開していったと思うこと。






ことばの発見。

かたちのないものが、ことばになって、
意味を持って外に出るよろこび。


また、ことばの発見は、意味を見つけるよろこび。
意味の発見。心の発見。
意味の固定化。本来からはなれること。






・2010-02-03 命の全体性
古い自然は、無数に関係しあい、常に更新し、常に再生している。
古い自然は永遠に新しい命なのだと。
ことほぎ。ほぐことば。






芸術の動機
・2012-03-24 中世芸能の発生 432 言語芸術論 芸術と芸能
講演中で吉本さんが、
言葉(芸術)は、自然と人の交流に生まれるって短くおっしゃってたこと。





対象をかかりに、ことばで、
透明に見える中からある部分をすくう。
と現れるある世界。
・2007-09-19 ヨリシロ






あー、こうして並べてみるとすっごくあやしく見えるー。なぜー。アハハハハ。



手に流れる水に水ということばを得たヘレン・ケラー。
どんなにうれしかったかな。







# by moriheiku | 2012-04-08 08:00 | 言葉と本のまわり | Trackback | Comments(0)
中世芸能の発生 433 太い水流

つづき


何年か前のある禅僧の方のインタビューを見た。


インドで生まれた禅が東へ伝搬したルートは概ね二つある。
大陸の南側を通ったものと、大陸の北側を通ったもの。

日本の禅は、大陸の北側を通って伝わったもの。

インドの仏教は各地の信仰や文化と混ざりあいながら世界へ広がった。

日本に伝わった仏教や禅は、
昔の中国や朝鮮半島の国々などの文化や思想の混ざった仏教で、
それが日本に来て日本の文化風土と混ざって育ち、
日本の仏教になった。

チベットの仏教には、やはりチベットに根付いた仏教のありかたがある。



禅は究極には、心を自由に保つこと、ではないかなと思うけれど。


禅の状態に近づく方法として、日本では、
日本人にとっては馴染みの背筋の通った座禅スタイルが代表される。

現在中国の座禅は、時にはうちわをあおぎながらゆったりと座り、禅に近づく。


インタビューでお話されていた禅僧のお坊様は、
アメリカで禅の普及につとめられた方。

お話によると、
アメリカの禅(ZEN)は日本からアメリカへ伝わった禅で、
日本の禅と兄弟の禅なのだが。

日本の禅が仏教(宗教)とワンセットで、
いわば出家や僧侶の禅であったのに対して、
アメリカの禅は出家や僧侶ではない一般の人々にとっての禅であること。

そこに、禅の可能性をご覧になっている。

禅と宗教が重なっていた日本ではついに為し得なかった禅というものを、
アメリカの禅が実現してくれるのではないかと期待している、
とお話しされていた。



この禅宗のお坊様は、
禅の本当に深い場所、本質をご覧になってお話されているのだと思った。

ご自身の宗教にも知識にもとらわれない、

禅そのものをごらんになっているのだと思った。





中世からの宣教師の記録に見るように、
日本の仏教では、
キリスト教の神も異国の神も仏や如来の化生(というか仮の姿)と考えてきたところがある。
(神仏習合もそうした考え方のひとつ)

ただ一つの神を信じる宗教の人々にとっては許しがたい解釈だろうけど、
ともかくそういう考え方はされてきた。

こうした考え方は仏教に限らず古来の信仰にも見られる。

何かのあらわれとしての仏、
何かのあらわれとしての神々、
何かのあらわれとしての草花、
何かのあらわれとしての様々のもの。
という視点。

喜びや悲しみも、何かのあらわれの上に咲いて散る花とする。

時々に対立はありつつも、
何かのあらわれとしてのものの姿であるということは、
いつの時代もどこかで意識されてきたのだと思う。


神仏習合が
どちらかを低く見ることにつながった部分があったのは残念なことだったけれど、
姿の奥のそのものにおいて高低などない。

許しと相互の尊重にもつながる考え方と思う。

そして、
とらわれのない心の自由にもつながる考え方と思う。






私達は、自分達の生きる時代におけるある物の意味を通して、
いつもその深い底に、本来の性質に、
流れつづけている太い水流に、
常に触れているのではないだろうか。
そこにふれて、心身は動く。
・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷




・2008-09-26 水波之伝
このお能の作者が最も心を動かしているのは、
山神でも楊柳観音菩薩でもなく、
作者の心を動かしているのは、
峰の嵐や 谷を駆け下る水の音、滝の音だと思う。
それはきっと古い芸能の根元だと思う。





私も深い本流を見ていたい。







西行や作仏聖の心象。

木や石や土の中にもともとある仏を彫り出すあるいはとりだす。
自分が仏を造形するのでなく。
・2009-08-17 中世芸能の発生 188 作仏聖 円空 棟方志功

うつろうものの奥の仏法を詠み出す。
一首詠み出でては、空の中に一体の如来の形を造る思いをする。
・2008-12-16 本来空





つづく





# by moriheiku | 2012-04-07 08:00 | 歴史と旅 | Trackback | Comments(0)
草木を植えること 花が咲くのをうれしいと思うこと

園芸家の方々が被災地へ行き
被災地で花や植物を植える活動がされているのをニュースで見た。
ソメイヨシノや、外国のお花や。
草花を育てることは希望だと思う。


どうして土地の草木を植えないのかしら。
がれきもまだまだそのままの状態だから、それはこれからかも。

できるだけ土地にもともと生える土地に適応してきた草木花を植えて、
自然を強い望ましい循環におき
全体として土壌風土を豊かに再生できたらいいと思うんだけど。

土地に自然に生える植物などありふれて見えて、
意味がなく思われているだろうか。


漁業やカキや魚養殖の方々のお話によれば、
豊かな陸の栄養分等が川など通じ海に流れこむことが
豊かな海の恵みにつながっているので、
豊かな森を作ることが豊かな海を作ることだそうだ。


津波が押し寄せた場所は沿岸で、深い内陸ではないけれども。
土地の自然風土は、
そこに適したものが全体として複雑に無数に影響しあいながら循環し、
その土地の自然風土をなしてきたもので。

土地の自然風土は、人にとって恵みになる産物も、
そこに暮らしてきた人々の心も、人以外の、地方の豊穣も育ててきたと思うので、

よその草花だけでなく、長い時間かけて土地を作ってきた土地の植物も植えて、
ふるさとの豊かさをもどすことができたら、と思う。

これはきっとよそ者の考えにすぎないのだろうと思うんだけど。




公園を見ると、
どうして土地の草木をわざわざ抜き去って、
土地の草木が自然に出てこないようわざわざ地面をコンクリートで蓋をして、
自然豊かにと言いながら
その上によその草花を植えるのか、私には意味がわからない。






森に降る雨水が木の幹の表面を伝って根元に流れる水のことを樹幹流という。
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること
雨が、空気中の物質を含みながら空から落ちてくる。
それが森の木の幹を伝う短い間に、
水は木の表面についた色んな物質も含んで地面に注がれる。

木の表面についた苔や微生物やカビ、細菌、
森の環境から出るチリなどが含まれた樹幹流の成分は、
木の種類や環境によって異なる。

様々な成分が含まれる樹幹流が地面に注ぐことで、
そこに生きる様々なものや生物、生物以前のものも生きる。

土地に適した樹木を流れる雨水は、
土地に適した成分を含む樹幹流になるため、
森にとって樹幹流の水は、水道水を注ぐのとは違うそうだ。
数えきれないものが無数に互いに関係しあって自然の森は構成している。

もとの自然の状態だと、樹幹流もその森に合って森を構成するけれども、
例えば針葉樹ばかりの植林の木の樹幹流は、
ph等変わって本来の土地や生物に合いづらく、
森や土壌を弱らせる原因のひとつになっている。




生物学者、中村桂子さん。
人間が花を植えるような行為は、
生き物全体として生命をつづかせようとする行為の一環。生き物としての人間の表現。
・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」




花が咲いて心が動いたりうれしく思う心は、
私の命が、さまざまの命を喜んでいるからかな。




・2010-03-16 中世芸能の発生 297 土地の木




・2011-03-17 森林と国土






# by moriheiku | 2012-04-06 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
トンネル


季節の花を心が追うので、目は車窓の外を向いて、電車の中で本が読めない。
私の読書タイムなのに。


梅もミモザも桃も桜も、
ユキヤナギも、
コブシもモクレンもジンチョウゲもシャガも、
今年は重なって咲いて、心はざわつく。


山中に混じる山の桜もおって開いて、
山肌にこの時期だけのあわいドットをつくる。


あの峠の下り坂の、
萌え出した葉の透きとおる黄緑と、桜木の桜色のトンネルを、
今年も下った。






# by moriheiku | 2012-04-05 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
近世 槻 木製


外から声。

「今ちょっと外に出られる?」

うん。


外に出ると、西の夕空を指さして、

「あれ。金星、月、木星。」


「知ってる」

「知ってるの?」

「うん。でもありがとう。きれい。見れてよかったー」

「うん」

にこにこ。





# by moriheiku | 2012-03-26 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
夢でまた会えたら


思いがけない人が夢に出てきてすごくうれしかった。

うれしい気持ちがまだ残ってる。

もう夢の中でしか顔を思い出せない。

夢でまた会いたい。








# by moriheiku | 2012-03-25 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
中世芸能の発生 432 言語芸術論 芸術と芸能
つづき


夜、テレビをつけて、
「ETV特集 吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」
が再放送されていることに気がついた。

番組の終わりの方を少し見ることができた。

2008年の吉本さんの公演を主とする番組で、
2009年と2010年にも一部見たことがあった。



一般的に言われる、
人に伝わってこそ芸術、という考え方には、私自身は
昔からひどく違和感を感じてきた。

人に伝達する目的がなければ、
人は歌を歌ったり絵を描いたりしないかといえばそうでない。

一人でそうしつづける人もいるし。

芸術を生む衝動と、人に伝えることは、別のことと思うから。

人に伝えることがモチベーションになる人は多いということは私にもわかるけれど。



吉本さんの言語をと通じて芸術を語る言語芸術論においては、
言語の表出のしかたは、二通りある。

ひとつは、

・意思や情報を伝えるコミュニケーションとしての表出(指示表出)

もうひとつは、

・沈黙あるいは独り言としての表出(自己表出)

吉本さんは前者を「指示表出」、後者を「自己表出」と名付けている。


番組内の例えなら、

例えば、きれいな花を見た時、
人に「きれいですね」と言うのが「指示表出」。

対して、きれいな花を見た時、
思わず沈黙の中で心の中で思う、
あるいは独り言で「きれいだ」と言うことばが「自己表出」。


吉本さんは後者、沈黙に近い「自己表出」が、
芸術の大部分であると考えられる。



現代は表現手段や語彙も多いので、芸術も昔よりも優れていると考える人が多い。

しかし芸術の本質は、言語でいうならあくまでも「自己表出」の部分であって、

表現方法「指示表出」の部分は芸術を構成する意味があるけれども、
それは枝葉で、
芸術の本質は、言語でいう「自己表出」の部分にあり、
表現やサイズではかることはできない。


例えばドストエフスキーの長編小説と松尾芭蕉の俳句は、
言葉の分量や表現は大きく異なるけれども、
それをもってどちらが芸術的に優れているという判断はできない。


言語の幹や根は、
思わず心中に言うような、沈黙のことば、
限りなく独り言に近いものであり、

芸術の本質はそこなんだということを
吉本さんはおっしゃっている。



こうした吉本さんの言語芸術論は、
人に伝わってこそ芸術という考え方への違和感と合致して思われた。


私はポツポツと、一人ごとのように、芸能の発生をたどろうとしてる。
それは「芸術」の発生でなく、あくまで「芸能」の発生。

(芸能でなく)芸術の核は、
その感触を発しようとする強い衝動にあるのかもしれないなと、

それが芸術を芸能の違いのひとつ、

と、数年前の吉本さんをテレビの画面で見ながら思った。




前にこの放送を見た時には、
あたりまえのように自然に感じて通り過ぎてしまったけれど、
今回の放送を見て前より強く心を打ったことがあった。


講演の中で吉本さんが、
言葉(芸術)は、自然と人の交流に生まれるということを
短くおっしゃっていた。

自然は我々に影響するし、我々も自然に影響を与える。って。

歌や芸術のようなものだけでなく例えば学者の学問なども、
それを表に出さずに自分だけで思っているだけのものでも、
自然と我々は相互に影響し変化しあっていると。


こうした意識は万葉集中にもよく見られ、
万葉人もこうした意識を普通に持っていたし、

平安時代の古今和歌集の仮名序の、

“世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心におもふことを見るものきくものにつけていひい だせるなり、花になくうぐひす、水にすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける、ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心 をもなぐさむるは、うたなり”
(自然が和歌を詠ませるし、また和歌は自然(天地あめつち、鬼、神)も動かす。人とものが相互に影響し合う)

も、

この自然と人が互いに影響を与えあっている古来の意識の系譜
(その変形したもの)と思う。


このように自然(と言うか森羅万象)と自分は共感し影響しあう(融通する)感覚は古くから、
あたりまえに日本人にあったものだけれども、
どうも現代では通じにくくなっているように思う。


この自然(時間や無生物も含む)と人の分離しない感覚は、
日本の思想や民俗のキーになる部分。

だから、吉本さんのようなかたが、
とても大切な部分だからと吉本さんがおっしゃったこのことが、
講演でもっと語られていたら、
と思った。


私は、自然(というか時間や生き物でないものも含む)森羅万象と、
その一部である人との共感をいつも思うから。



日本の文化を指でたどる時、日本のことばや音を聞く時、
いつもそこに帰結する。あまりにもワンパターン。






ETV特集 吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~
・2010-04-01 中世芸能の発生 298 言語の幹や根 芸術言語論

・2008-12-25 「ETV特集 吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」を見て
哲学は美しい

・2010-04-02 中世芸能の発生 299 ことばの発生と本質
ことばは、
情報の伝達のために生まれたのでなく、
ものと人との間の共感に生まれたと思う。
それが展開して、人と人の間の、
情報をやりとりすることばに用いられていった思う。
人と人の間に限らない、
ものと人の共感に、
人のことばの発生と本質があると私は思う。



身体と自然の接点に生まれる ことば
・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感
・2010-07-01 ぜんぜん論理的じゃないこと
・2009-08-30 地続き




私には、ことばは人に属すのでなく、人の声を通って顕在化するもの。
大地を通って顕在化した植物と同じもの。と感じられる。
・2011-10-18 星を結ぶ線をひく




仮名序
・2008-02-01 「仮名序」カナを使う意味
・2008-02-01 「仮名序」和歌の背骨




数えきれないものが無数に互いに関係しあって自然の森は構成している。
自然と人は相互に共感し影響しあう中に居る。日本の自然感。
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること




それとも別のときには、
対象について文字で打つときに、対象を、でなく、
腕の先や、指にある、空気感を、
字面へ乗せて、のぼらそうとしている。
字面に見える文字や文章の意味にはないものを打っている。
全部じゃないけど。たいていは。
・2007-09-19 ヨリシロ
・2007-09-20 芸術と信仰




信仰と芸術の相違。
西行と作歌。西行のような人々にとっての作歌、作仏。

一首詠み出でては、空の中に一体の如来の形を造る思いをする。
一句を思い続けることは、秘密の真言を唱えることと同じ。
・2010-05-20 中世芸能の発生 315 仏教と和歌の習合
・2008-12-16 本来空

作仏聖たちは、
木や棒にもともと宿る力というか、イノチというか、霊力というか、
神仏を見えやすくするので、
その造作はシンプルでいい。
むしろ、それは木や棒を生かす姿でしかありえない。
木に宿らない余計な装飾を加えることは、
その命を打ち消すこと。
木の中のイノチを掘り出す。無常を詠む歌の中の仏法を取り出す。
それは芸術でなく、信仰のわざであること。
・2009-08-17 中世芸能の発生 188 作仏聖 円空 棟方志功
表現よりも、その核を見い出すこと。



今様歌謡に見る。信仰と芸能、仏教と芸術の摩擦と習合。

狂言綺語の誤ちは 仏を讃(ほ)むるを種として 麤(あら)き言葉もいかなるも 第一義とかにぞ帰るなる 
・2010-12-01 中世芸能の発生 368 今様

・2010-05-21 中世芸能の発生 316 今様即仏道 芸能者と仏教
・2011-06-09 中世芸能の発生 398 今様即仏道 命の際(きわ)
・2010-06-22 中世芸能の発生 331 罪業感 今様



つづく







# by moriheiku | 2012-03-24 08:00 | 言葉と本のまわり | Trackback | Comments(0)
ラーメン


三月は
お雛祭りがあり、ホワイトデーがあり、その数日後に誕生日があり、お彼岸があり、
和菓子も、洋菓子も、いただきもののお菓子がいっぱーーーーい。

だから来月からがんばろう。
今月の食べすぎを消化する運動を・・。
(今月からいや今からとどうして言えない)



先日バレンタインデーのお返しにと、
ムがみんなにチョコレートの詰め合わせくれた。

わーーーい、チョコレート大好きーーーー!って
どのチョコレートにしようかなって迷ってたら、

○○(私のこと)には特別によろこぶものを買ってきてあげたとムが言う。

えーーなにーーー!と思わず言うと、ムの手元にはコンビニの袋が。

え~~~~~~なに~~~~~(トーン下がる)。


「なに?いいもの?」 (疑っている)

「いいもの、いいもの」

「私チョコのがいい!」 (すっごく疑っている)

「いいからいいから」


ムのお買い物ついでのコンビニ袋から出てきたもの。
ラーメンじゃん。インスタントラーメン。

「私チョコのがいい!」

「ラーメン食べてみたいって言ってたでしょ」


言ったけど・・。
ラーメンはきらいじゃないけどラーメンを食べる機会はなかなかない。
自分で食事を作ったり誰かと食事に行く時も、
優先順位の上の方にラーメンってこないから食べる機会がない。
それでもう何年も食べてない。

けどラーメン何年も食べてないと言うとムに「日本人じゃない」とか言われるし、
そう言われるとなんだかラーメンを何年も食べてないのおかしい気がしてきたので、
ふと、ラーメン食べてみようかな、って言ったのだ。


ムは、今からランチにこれを食べろと。おいしいの選んでやったと。
こうでもしないと食べる機会ないでしょ、と。

うん。
すっごい色々個袋が入ってるね。

「先にどれ入れるの」

「全部あと」

沸騰したお湯を注いで、5分待って、
大き目の具の袋を切って具を入れる時、少し残そうとしたら、

ム「それも全部入れる」

私「これ白い脂のかたまりじゃない?」

ム「それもおいしいんだから」

そうね。で全部入れたら熱で白い脂のかたまりが溶けて、中からメンマが出てきた。

私「お、全部入れてよかった。」

ム「でしょ」



「おいしかったです。ごちそうさま(-人-)」

角煮っぽい大きいお肉おいしかったです。
ラーメンでなくても、そのままお弁当に入ってたらうれしいな。

「ラーメン食べる気になった?」

「うん。また買ってくれたら食べるかも」


で私もさっきのチョコ~~~。


ム「おまえチョコも食べる気か」

コ「とってあるわよ」

私「わ~♪ありがとう♪ごちそうさま♪」


ホワイトデーにラーメンもらったのはじめてだってば。

おもしろかったです。サンキュー。







# by moriheiku | 2012-03-23 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
中世芸能の発生 431 春の野

つづき


ヒヤシンスが咲いて、うれしかった。
芽が遅くて、もう出ないのかしらと思った。ベランダの鉢。
土に芽がのぞいたと思ったら、あっという間に伸びて咲いた。
ユキヤナギの芽の緑もあふれるように増えている。


遠目にけぶるように見えるあの谷の白梅の群れは、
いつもよりひと月ほどおそく、

今年は、冷えた大気の中の幻の香というよりは、
春のただなかの存在感。


ジンチョウゲが花を咲かせる頃。
こちらはいつものようにちょうど今。



草花を植えること芽や花をよろこぶあたりまえの心が、私の中にもある。
それが私の心臓を動かしている。




万葉集歌を紹介する番組で、
いけばなの池坊の池坊由紀さんが、山部赤人の歌を紹介されていた。

---------------------------------------------------------------
春の野(の)にすみれ摘(つ)みにと来(こ)しわれそ野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝にける (1424)

春の野にすみれを摘もうとして来た私は、野があまりにもなつかしいので、一夜寝てしまったことだ。

・なつかしみ  心ひかれるので。野は官人生活の反対
----------------------------------------------------------------
(参照:『万葉集(一)』中西進著)


番組の中で池坊さんは、野の魅力について、
お花屋さんに並んでいたら目立たないような可憐な草花が、
野山の実際の自然の中で見ると小さくてもそれがすごく生き生きと見えること、
とおっしゃってそして、

美しいとは何だろうかと考えた時、
いけばな人は表面的な例えば色であるとか形の面白さを美しいとしたのではなく、
やっぱり花や植物が懸命に生きようとしているそのエネルギーを
それぞれの姿の中に見出して、そのエネルギーこそが美しいと捉えたんだと思う、

とお話されていた。



池坊さんのおっしゃる、
うつくしいとは、色や形の面白さでなく
それぞれの姿の中に見出される懸命に生きようとしているそのエネルギー、
それをうつくしいと捉えていたこと。

これは古い歌の中に見られる「タマ」の意味と同じ。


古歌によく出てくる例えば「玉蔓(タマカヅラ)」は、
姿形が美しい蔓というのではなく、旺盛な生命力のあらわれている蔓のこと。

単に姿形の良さでなく、
蔓にこもっている旺盛な生命力、エネルギーをうつくしいととらえ
「タマ」の美称が付いた。

しかし時代が下ると、
この旺盛な命のエネルギーとしての「タマ」は忘れられ、
もう平安時代には「タマ」は、もっぱら
真珠のような美しい珠「タマ」の印象に重ねて用いられるようになる。



生まれて間もない子供を、
たま(珠・玉)のような女の子、たま(珠・玉)のような男の子、と言って、
つやつやにかがやく珠・玉のような命のかたまりをよろこびたたえる。

タマのような子ということばに、私達は
見目のうつくしい子供という意味とともに、
生まれたての生き生きとした命のエネルギーの輝きを感じ、受け取っている。


とてもタフで元気なご老人でも、
タマのようなおじいさまおばあさまとは言えないのだ。



「たまきはる」は、命につく枕詞。 
(たまが極(きは、きわ)まる → たまきはる)

「たまきはる」は現代では、「霊魂」が極まる、と解釈されがちだけれども、
古い時代の「たまきはる」の「タマ」は命の力、命のエネルギーのことをさしており、
それが満ち、はりつめた状態が「たまきはる」だったと思う。

私達の命は、春(はる)のように、命のエネルギーのはった状態から、
冬に葉を落とす植物のように、命を削ぎ落して生きていく。
と、昔の人たちに感じられていた。


古いことばの音には、そのもの自体が響いている。
だから古いタマの概念を忘れてしまった現代の私達にも、
古いことばの響きから、タマの意の本質を感じ取る。




池坊由紀さんは上記の赤人の歌について、
美しいということとは何かということにつづけて、

春は色んな命が芽吹く時、
色んなきざし(兆し、萌し)が感じられる時であること、

“春の野に入ることによって、そういった同じように芽吹いている植物の命と自分の命を重ね合わせて、これから成長していこうという希望とか喜びとか期待とかそういうのを実感するそういう場所でもあると思います。”

とお話されていた。



日本人は自然に命を寄せて重ねてきた。


観念を重ねたのでなく、具体的な、身体の、
実感の重なり。


池坊さんは、植物にふれることで、
古い時代の日本人の感触を、
共有されてきたかたなのだろうと思った。





玉葛(たまかずら 玉蔓) 歌に見る「タマ」の意の変遷
・ 2010-08-15 中世芸能の発生 337 綾 玉葛 水流


命(イノチ) = 「イ」の「チ」
・2010-02-11 中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花
「イ」は「厳(いつ)」「いかし(厳し)」の語に今も感じられるように、
たけだけしいほどの自然の生命力の横溢。
「チ」はチカラ。


古代における神聖は、生命力の強さのこと。
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは
・2010-03-16 中世芸能の発生 297 土地の木


春 きざし(予兆) 花
・2008-03-23 春の黄の花木 マンサク
・2008-08-13 「ほ」を見る。
・2012-02-16 中世芸能の発生 428 「ホ」 穂(ほ) 寿(ほ)ぐ 誉(ほ)む 言祝ぎ(ことほぎ)


・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型
日本の思考の底に、主客の分かれない感覚があると思う。
自然と人、神と人、のように個々に相対化しようのないもの、
自然との境のない、
主客のない感覚が、今も思考の底に流れてると思う。





以前、生物学者、生命科学の中村桂子さんが、
万葉集のナデシコの花を植えた歌を紹介されていた。

中村さんは、生き物をみると、
自分だけじゃなく他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、ということが
生き物の中にこもっており、
全体として、つづこうとしている、
ということをお話されていたように思う。

そして、歌や、花を植えることは、
そうした生き物としての人間の表現、とおっしゃっていた。


歌・和歌を「詠(よ)む」と言う。

世(よ) 代(よ) 夜(よ) 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ) ・・

「よ」の音に聞こえるのは、
くりかえしくりかえし、命が再生し、生まれつづける、
永遠の時のイメージ。

「よ」は命のことだ。

「よ」は、くりかえしくりかえしつづいていく命。

かつて、歌(和歌)を「詠(よ)む」と言ったのは、
歌(和歌)の本質に、命のいのりとことほぎがあった記憶。


土橋寛が、和歌を作ることを「ヨム」というのは、
「ヨム」という動詞は「寿ぐ」と同じ意味の語であり、

和歌の根源ないし代表が、
「ヨミ歌」(祝歌)であったことに基づいていると述べた。


平安時代の歌からは消える、
古代の歌にいつもある性質、祈りのようなものを感じる時、私は、

和歌の根源、ないしは和歌の代表が
生命をほぐ「ヨミ歌」(祝歌)であったということは、まことと思う。




中村桂子さん
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」
・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々


「よ」の音 ヨ 詠む 詠む人々
・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ
・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能
日本の信仰というか、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。

それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないようなものだ。

古い日本の芸能は、
自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。



繰り返しつづいていく自然と、遷都、輪廻の思想。
・2011-02-16 中世芸能の発生 380 輪廻 遷宮 遷都


自然に寄せていのる
・2010-02-14 中世芸能の発生 295 奄美のユミグトゥ(ヨミゴト)


自然に寄せてイノチをことほぐ
・2010-09-02 中世芸能の発生 353 ことほぎ 自然
・2011-03-03 中世芸能の発生 385 石走(いはばし)る垂水(たるみ) 祝福
・2010-08-24 中世芸能の発生 346 しづやしづ しづのをだまき くりかえし


花見 (山見、鳥を見ること、国見) でイノチを盛んにする。
旺盛な自然の生命力を伝染させると考えられていたこと。
・2011-02-24 中世芸能の発生 382 ビターオレンジ ダイダイ(橙)



日本の民俗は自然風土と密接にあることが、
君が代のことばの中にも一本の糸になってつづいている。
・2011-02-16 君が代 02
ことほぎは、周囲と無関係に個人を祈るものではないこと。
つながりあう森羅万象、国土草木(山川草木)全てのイノチが、
共に盛んであればこそのもので、共に盛んで長く栄えることの祈りだったこと。





・2011-01-27 中世芸能の発生 379 根元

・2010-02-03 命の全体性




私は結局、このことだけを求めているのではないかと思う。
・2009-03-01 草の息
古代歌謡や、万葉集の歌には、祈りのようなものがある。
願いごとや宗教感が詠まれているということでない。

古い歌には、イノチのいきおいがある。
自然と直接つながっていることばは命、生命の風がある。

私はいつもそれを身体におこしたい。

ただそれだけ。弱いからか。


・2010-10-17 水の旅 都祁 山辺の御井
自然と魂と直接つながっていることばは命、生命の風がある。





「日本の風土というものを自分とじかに対面させて、その心音の部分、
奥深い、日本の自然というものと魂を向き合わせた。そういうすばらしい歌です。」

・2009-11-08 中世芸能の発生 239 さぶるこころさまねし

さびてあまねくなっていく。
それは自然の中に居る時の感覚ととてもよく似ている。





つづく







# by moriheiku | 2012-03-17 08:00 | 歴史と旅 | Trackback | Comments(0)
やけっぱち


ここしばらくの買いものの仕方は、ほんとあかん。
寄付をしたらよかった。

必需品でないものへの物欲の復活は、
明日への期待や希望の回復っていう感じがしたけど、
もっと大事にしなきゃ。

やけっぱちな感じのお買いものなんて。
見失ってるって感じ。


# by moriheiku | 2012-03-01 08:00 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
イエロー


寒くて、梅の花の咲くのがひと月近くも遅れてる。

いつもの白梅の木の、つぼみを見上げて通る。


春らしさにひかれて、
シルク混の薄手でなめらかな、淡いイエローの、
Vネックのニットとカーディガンを買った。


黄色。

暖かくなったらもうすぐにイエローは色が暑い気がして、
この服は着ないかも。




# by moriheiku | 2012-02-29 08:02 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
希望


とっても好みのバッグを見て、
セレクトショップに最後の一個があるかもしれなかったから、
ばーんと買ってくる!って(なぜか)宣言して、買おうとしたけど、
もうなかったーーーーーーーー。

定番ではないしインポートものだし、
あんなに好みのって数年に一度くらいしかない。えーん。


それでなんだかやけになって、
ボトムスを2枚と、靴を3足買った。

余裕でバッグの代金をこえてしまった。けど、
なんだか満足になんない。



だって、好みのきれいなものがひとつあることは、
女にとって明日への希望なんだもん。






# by moriheiku | 2012-02-29 08:01 | つれづれ | Trackback | Comments(0)
中世芸能の発生 430 他力本願 救い


つづき


万葉集では「神“に”祈る」ことを「神“を”祈る」という。

万葉集に神を祈る歌は数多くあるが、
現代の表現のように「神“に”祈る」を書かれたものは一首もない。



私はある人の命が助かってほしいと強く願ったことがある。

もうだめだ、と思った時、

私は、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った。
たすけて、と。


その時、私は、
近視眼的な自分の判断のみに目を向けて、

自分の判断などはるかにこえる森羅万象の関わりの中で生きている、
自分もその一粒であるという共生の感覚を、
切り捨てた。その瞬間だったと思う。


あとに残る苦みは、
全体の命の中にあることを拒否し、切り離した、
独善的な自分への苦みだ。

・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願



この、自力をすべて投げ出すほどの絶望、というのを見て、
自分の力の限界を知って謙虚になったのだと解釈する人がいるけれども、
それはちがう。


自力をすべて投げ出すほど絶望することは、
独善的な自分の判断のみに目を向けて、
(独善的な自分の判断のみ信じて、)
自分の判断などはるかにこえた森羅万象の
大きな関わりの中にあることを否定し拒否すること。


自分のみに目を向けて、

自分の判断などはるかにこえる森羅万象の関わりの中で生きている、
自分もその一粒であるという共生の感覚を、切り捨てた。


私には、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った時が、
その時だった。




私が何か強い願いを持つ時の感覚は「“を”祈る」で、
どうしても「“に”祈る」と言えない。

私にとってはだけど、

どこかにある何か「に」(「へ」)祈ることは、

自分の卑近な判断をこえてはるかに関係し合っている
森羅万象の働きの中にあるということの否定。

無数に関係しあう森羅万象の働きを忘れ切り捨てて、
近視眼的な一見の利を求めることだ。



他力を本願とすることは、
誰かの力をあてにして生きるということでない。


一見自分にとって都合が良く感じられること、
都合の悪く感じられることはあるけれども。

他力を本願とするということは、
そうした人の卑近な判断や把握をこえた
近目には見えない森羅万象の大きな働きの中にいることを自覚すること。


良い悪いなどの判断の範疇にない交錯する無数のイノチ(動植物という意味でなく)の
関わりの中で生きて死ぬという自覚と覚悟が、

他力を本願とするということではないかと私には思える。




他力を本願とする(他力にゆだねて生きる)とは、
誰かの力をあてにして生きることでなく、
自分を生きることの否定でもない。

自分の独善的な判断をはるかにこえる、
森羅万象の関わりの中に自分もあるのだという自覚と覚悟だと思う。



それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもあるのだ。




かつて日本の仏教では、そのような感覚を、
如来の他力を本願とすると解釈したのではないかしらと私には思われる。




うーん。やっぱりうまく言えなかった。







だってだって、
「“に”祈る」 と 「“を”祈る」 は、全然、感覚が違うー。

こうした感覚の共感を、私は本の中の数行に見、万葉集の中に見る。





─── 万葉集における 「神“に”祈る」 と 「神“を”祈る」 ───


“現代のことばでは「神“に”祈る」というが、『万葉集』では「神“を”祈る」と表現しているのである。”(土橋寛『日本語に探る古代信仰』)
この小さな「神“を”いのる」の項目を読んだ時、胸がふるえた。
なぜなら私はどうしても「神“に”祈る」と言えないから。
・2010-08-25 中世芸能の発生 348 神「を」祈る 融通念仏


“我々が「神に祈る」のは、神が祭礼の時以外は縁遠い存在だからであり、万葉人が「神を祈る」というのは、神を身近な存在として、日常的にも祈ったり祭ったりしていたからであろう。そしてそのような意識の源流を辿ってゆくと、「祈り」からさきに述べた「イ罵り」に近づいてゆくのではあるまいか。”(土橋寛『日本語に探る古代信仰』)
さらにいうなら、私は、
その近さは、距離の近さというよりは、
神と人との未分化の状態だったと思う。
・2010-08-26 中世芸能の発生 349 神「を」祈る イ罵(の)り


「天地(あめつち)の神「を」祈りて」の表現に、
あまねくある神々の印象がある。

万葉の人々は、例えば天上などどこか「に」いる神に向かって祈るのでなく、
すべてにいきわたっている神「を」祈る感覚があったと思う。
そういうのは歌に響いてる。

万葉集中の神「を」祈るの表現からも、
万葉時代の人々にとって神は
自分から分離した客観的な「対象」になっておらず、
天地にあまねくあって自分にもある、
万葉の人々の、自と他が未分化の感覚を見ることができると思う。

このことは、相対化され個別化していく霊や神の概念以前の、
自他の境のない、
ものごとが融通している世界観(身体感)の名残と思う。
・2010-08-27 中世芸能の発生 350 神「を」祈る 神「を」祈(の)む


私はある人の命が助かってほしいと強く願ったことがある。
もうだめだ、と思った時、
私は、私の中のすべてを放棄して、自分の外「に」祈った。
たすけて、と。

神「を」祈ると言った万葉の時代から、
神「に」祈ると言う時代へ移った。

自然風土と密な呪術的な民俗信仰の社会から脱し、新しい社会へ移行した。

その間には、自分の中の神「を」捨てるほどの多くの絶望があって、
人は自分の外「に」救済を求めたんだろう。
と思った。
・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願






・2008-06-01 自然と我 04 古代の信仰

・2008-06-03 自然と我 06

・2010-06-21 中世芸能の発生 330 主客の分かれないところ 宗教の原型




・2010-07-01 ぜんぜん論理的じゃないこと
・2009-08-30 地続き
・2008-08-24 弓と自然





自然と他力本願
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること
・2012-02-27 他力本願





・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」

そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、
それが生き物としての人間の表現、

と、おっしゃって、
そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。

日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。

それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。
体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないようなものだ。

中世芸能が生まれるまでの、
芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、
自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。





つづく









# by moriheiku | 2012-02-28 08:00 | 歴史と旅 | Trackback | Comments(0)
他力本願


たった、木の幹を流れる雨水という樹幹流ひとつも、様々なものとの関係している。
めくるめくような大きな範囲で森羅万象は影響しあってる。


ひとつのことを自分の想像の範囲で判断すること、
ひとつのことに意味を付けすぎることはあまり意味のないことのように思う。



近視眼的な一見の利を求めすぎること。
また都合の良い因果、あるいは都合の悪い因果を語ることは、

無数に関係しあっている森羅万象の働きの中にあることを
切り捨てていると思う。



森羅万象が影響しあっている中に生きて死ぬという自覚は、

時間や季節や、地震や津波ももちろん、
自分は人の及ばない無数に影響しあっている自然の中の一部であるという自覚であり、
覚悟だと思う。




仏教で言う他力本願を、人の力をあてにして頼る、と理解して、
批判的に言うのを目にすることがあるけれど。どうして。


他力本願は、
人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない、
自分の人生を生きることの否定でもない。

自分の運命は、自分に見える判断の範疇をはるかにこえた
めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。


仏教で、人智の及ばない森羅万象の無数のはたらきを、
如来の他力と表わされたもので、


他力を本願とすることは、
無数のはたらきの中にあることを信じる(意識する)ことではないかと思う。


他力を本願とすることは、
人智の及ばない無数のはたらきの中にあることの自覚と、覚悟だと思う。




それは、独善的な判断の中で苦しむ者の、救いでもある。






・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-26 中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること

・2010-08-29 中世芸能の発生 351 神「を」祈る 宗教の瞬間 他力本願






・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々
「命っていうのは、やっぱり生き物を見ていますとね。みんなつづいていこう、つづいていこうって一所懸命生きてるなって思うんです。それはもちろん死というものもあるんですけど、なんか自分だけじゃなく、他の生き物たちも含めてつづいていってほしい、っていう、そういうことがみんなの生き物の中にこう、こもってる。」

そうした行動が、人間だったら、歌や、花を植えるとか、そういう行為で、
それが生き物としての人間の表現、

と、おっしゃって、
そういう意味でもこの歌を素晴らしい、と中村さんは思われたそうだ。

日本の信仰というか、信仰ともいえない、謂わば民俗の底には、
自然という水流がずっと続いていると私は思う。

それは個人の教祖や教義など、つけようもないもの。
体系的でも哲学的でもない、
自然の実感としかいえないようなものだ。

中世芸能が生まれるまでの、
芸能と宗教と分化していない古い日本の芸能は、
自然に寄せてヨ(イノチ)をことほぐ、祝福の系譜だ。





# by moriheiku | 2012-02-27 08:00 | 歴史と旅 | Trackback | Comments(0)
中世芸能の発生 429 樹幹流 他力を本願とすること

つづき


雨降り。木の幹に、雲から落ちてきた水が伝って流れている。

森に降る雨水が木の幹の表面を伝って根元に流れる水のことを樹幹流という。


雨が、空気中の物質を含みながら空から落ちてくる。
それが森の木の幹を伝う短い間に、
水は木の表面についた色んな物質も含んで地面に注がれる。


木の表面についた苔や微生物やカビ、細菌、
森の環境から出るチリなどが含まれた樹幹流の成分は、
木の種類や環境によって異なっている。

様々な成分が含まれる樹幹流が地面に注いで、
そこに生きる様々なものや生物、生物以前のものも生きる。

土地に適した樹木を流れる雨水は、
土地に適した成分を含む樹幹流になるので、

森にとって樹幹流の水は、水道水を注ぐのとは違うそうだ。

数えきれないものが無数に互いに関係しあって自然の森は構成している。


もとの自然の状態だと、樹幹流もその森に合って森を構成するけれども、

例えば針葉樹ばかりの植林の木の樹幹流は、
ph等変わって本来の土地や生物に合いづらく、
森や土壌を弱らせる原因のひとつになっている。

また樹木が土地本来の土地に適したものでも、
空気中の排気ガスなど化学物質を含んだ雨水が樹幹流になることで、
環境を変化させ弱らせたりする。

最近では原発事故で排出された放射性物質も、その要因のひとつになった。


たった、木の幹を流れる雨水という樹幹流ひとつも、様々なものとの関係しあう。
めくるめくような大きな範囲で森羅万象は影響しあってる。



もう自然は本来の自然でないから、
人によるコントロールなしには自然は維持できないという意見が
最近大きくなってきて、

そして人の介入なしには維持できない自然になったのだから、
今後はより積極的に、天候気象の人為的な操作を含めて、
人が地球の自然環境をコントロールしていこうという方向性が強くなっていることは、
容易に同意する気持ちになれない。


人が快適に生きることは、自然のバランスを壊すこと。そうなんだけど。

人間に自然環境を思うように動かすだけの知恵が蓄えられているのなら、
いかに人が手の入らない本来の自然を保ちつつ、人は共存するかという方向で、
なんとかしてその知恵を働かせられないものか、
と、どうしても思ってしまう。

私はあまりものを知らなくて自分の意見は自分で見ても幼稚だし、
こういうのは都合のよい理想論と言われてしまうものだと思うけど。




ごく小さな範囲内のたった一本の木を切っただけで、バランスが崩れて、
あっという間に地面は乾き、苔はなくなり、
土は荒れて、生き物がうんと減ってしまったのを見た。


樹幹流というひとつの要素の中にも無数に感じられる、
複雑に影響しあっているバランスを、
近い利益を得るため人間がする行為がうまく操作できると思わない。

自然のさまざまを壊すことは、結局人も壊すことでもあると思う。


人は生きなければならない。
寒い時にはあたたかいお風呂があったらいいし、
お風呂の暖かいお湯は、膝までよりも、肩まであったらすごく幸せ。
私にだってすっごくわかる。

良いお薬と手術で痛みを免れたのならそれは幸い。


それでも、自分も共生の運命の中で生きて死ぬのだという自覚を、
持つのがいいと思う。

自分は共生の運命の中にあるという自覚。覚悟。




人の経験も、森羅万象の関わりと似ていて、
目先のスパンで見るものでなく遠く関係しあう。

様々な経験は結びついて、いくつかの経験にむすんでいく。
ひとつの経験を自分の想像の範囲で判断すること、
ひとつの経験に意味を付けすぎることはあまり意味のないことのように思う。



近視眼的な一見の利を求めすぎること。
また都合の良い因果、あるいは都合の悪い因果を語ることは、

無数に関係しあっている森羅万象の働きの中にあることを
切り捨てていると思う。



森羅万象が影響しあっている中に生きて死ぬという自覚は、

時間や季節も、地震や津波ももちろん、
自分は人の及ばない無数に影響しあっている自然の中の一部であるという自覚であり、
覚悟だと思う。




仏教で言う他力本願を、人の力をあてにして頼る、と理解して、
批判的に言うのを目にすることがあるけれど。どうして。


他力本願は、
人の力をあてにした近視眼的な自己の達成願望でない、
自分の人生を生きることの否定でもない。

自分の運命は、自分に見える判断の範疇をはるかにこえた
めくるめくような相互の関わりの中にあり動いているのだという
強い自覚と、覚悟だと思う。


仏教で、人智の及ばない森羅万象の無数のはたらきを、
如来の他力と表されたもので、


他力を本願とすることは、
無数のはたらきの中にあることを信じる(意識する)こと。


他力を本願とすることは、
人智の及ばない無数のはたらきの中にあることの自覚と、覚悟だと思う。




うーん。どうして?ことばにしようとするとうまくできないんだろう。

今度、も一度チャレンジ。





日本の古い芸能は、祝福の系譜。ことほぎの伝統。
おまじないのような祈りの習俗の流れ。

ことほぎは、自然に寄せてイノチが盛んで栄えることを祈る。
横溢する自然の命の祝福がイノチに反映するように願われた。


ことほぎの特長は、
周囲と無関係に個人を祈るものではないということ。

人は自然の中の一部として、
つながりあっている森羅万象、国土草木(山川草木)、全てのイノチが、
共に盛んであればこそのもので、
共に盛んで長く栄えることを祈る共栄の思想に基づく。


自然の一部としての人の、
自然の共栄の思想が、芸能の底の方にも残ってる。



仏教で仏性とは何をさすのか知らないけれど。
自然の中で、観念的でない具体的なイノチを実感する。
・2008-07-10 神仏習合思想と天台本覚論 01
・2010-08-12 森のイノチ
・2011-03-27 祝福





・2010-08-13 自然と生きること
・2011-04-07 国土の保全 知恵と伝承
・2011-03-17 森林と国土






・2012-02-28 中世芸能の発生 430 他力本願 救い
・2012-02-27 他力本願





・2011-08-18 中世芸能の発生 410 生命の連鎖 歌から掬(すく)いとる方々




つづき




# by moriheiku | 2012-02-26 08:00 | 歴史と旅 | Trackback | Comments(0)
中世芸能の発生 428 「ホ」 穂(ほ) 寿(ほ)ぐ 誉(ほ)む 言祝ぎ(ことほぎ)

つづき


「ほ」は、あらわれ。

「ほ」は、さきがけ。

のような。


冬の明けきらない頃、
枝ばかりの木々の先に咲く花に
「ほ」を見る。

それをしるしのように感じ、
あらわれた「ほ」に、
先の幸いを重ねる。


生物として、背後に来ている季節の予兆を、
身体に感じていると思う。

春のはじまりに、
いくつも「ほ」を見つける。
・2008-08-13 「ほ」を見る。
・2008-03-23 春の黄の花木 マンサク



「ホ」の音に感じるイメージは、さきがけのような。

頭を出した氷山の小さな一角のような。

はっきりと目には見えないもののあらわれのような感じ。

「ホ」という性質。


「ホ」はこれを語根として
「ほぐ(祝ぐ 寿ぐ)」「ほむ(誉める)」「秀(ほ)」「穂(ほ)」等々
祝福のことばに展開している。けれども、

「ホ」のただ一音の印象は、予兆に小さく胸がふるえるもので、
それ自体善でも悪でもない。
意味でない「ホ」は「ホ」という性質だ。


さきがけの「ホ」に、私達は予兆を見る。

まだはっきりと目に見えていないものの姿を「ホ」に感じる。

そしてそれが瑞兆であることを願う。

だから古来「ホ」は、卜(占い)と親しかった。



精霊や神の概念ができてからは、「ホ」は、
精霊や神の真意のあらわれと観念されるようになった。


万葉集にも歌が残る「ほかひびと」(ほがいびと 食乞者)は、
「ことほぎ(言祝ぎ 言寿ぎ)」をして家々から物を乞い歩く芸能者たち。

ほぐ芸能者である彼らのする「ことほぎ」は、
良いことや命令を言うことで、
物事や精霊をその良い状態へ導こうとする予祝(呪術、ままじない的)の芸能をしていた。


それは当時の人々が祝福を求めた願いから、
(あるいは「ほかひ」「ことほぎ」によって「ほ」をあらわすという
一種卜(占)的な面も含まれただろうか、)
あらわれた「ほ」を良い状態へ、積極的に導こうとするような行為だったと、
「ほかい(ほがい)」の名からも思われる。
いうことをきかせようというもの。
同じ呪的行為でも「たまふり」とは少し性質の違うものだ。


古い詞章や歌など見れば、
「ほ」の意味も、予祝の呪術芸能も、
万葉の時代にはすでにこんなに複雑化していたんだけど。


たとえば平安時代、源氏物語 宿木の、
穂(ほ)にいでぬ物思ふらししのすすき招く袂(たもと)の露しげくして、
のように、

外に現れて人目につくようになることを、
「穂(ほ)に出ず」、と人々が言っていた。

やはりそこには、稲の穂、漢字の穂よりずっと前の、
ただ見えていなかったものが表に現れる、
なつかしい「ホ」の響き(印象)がある。


他「ホ」
・2008-08-13 「ほ」を見る。
・2008-03-23 春の黄の花木 マンサク




「イ」
・2012-02-13 中世芸能の発生 425 市(イチ)のイ
・2010-06-05 中世芸能の発生 320 祈(イノ)リ イ罵(ノ)り
日本の「イノリ」(祈り)とは、
抽象的な神に敬虔な願いを捧げるような新しい祈りでなく、
「イ」を宣(ノ)る強い行為であったこと。



「ヨ」
世 代 夜 黄泉(よみ) 常世(とこよ) 詠む(よむ) 寿詞(よごと) 暦(こよみ)
・2010-02-12 中世芸能の発生 293 ヨ
・2010-02-15 中世芸能の発生 296 ヨム 和歌を詠む(よむ) 芸能



「チ」
血(ち) 乳(ちち) 道(みち) 市(いち) ヲロチ(おろち)
・2012-02-14 中世芸能の発生 426 道(ミチ)のチ
・2010-02-11  中世芸能の発生 274 イノチ ユリの花




「ヒ」
日 火 檜 ヒレ(鰭) ヒロメク ヒラメク ヒレ〈領巾・肩巾〉
・2010-02-17 中世芸能の発生 284 ハタ ヒレ
・2010-02-18 中世芸能の発生 285 ヒ ヒル ヒヒル 蝶
・2010-02-19 中世芸能の発生 286 ヒレ ヒラ ヒレ有る骨柄
・2010-02-20 中世芸能の発生 287 ヒロメク 蛇 剣
・2010-10-03 中世芸能の発生 357 檜扇(ひおうぎ)の民俗




「キ」
木(き) 毛(け) 気(き・け) 気枯れ 穢れ(けがれ)
・2011-09-05 中世芸能の発生 412 キ(木) 毛(ケ) キ・ケ(気)




「ユ」
斎(ゆ) 湯(ゆ) ユ槻(ゆつき) ユ笹(ゆささ) ユツ真椿(ゆつまつばき) 
・2010-02-04 中世芸能の発生 268 古代における聖性とは
・2010-04-08 中世芸能の発生 303 日本料理 湯屋 湯聖(ひじり)
・2009-10-19 中世芸能の発生 224 ゆささ 湯




「ニ」
匂う(ニホフ) 丹(ニ) ニフブ(和ぶ 柔和) ニコニコ
・2010-02-13 中世芸能の発生 280 ニフ 土地
・2010-02-13 中世芸能の発生 278 ニコニコ ニフブ 笑む
・2010-02-13 中世芸能の発生 277 住吉のハニフ(黄土)




他「イ」の性質を含む行為の例  斎(い)む 忌(い)む 祝う 呪(いは)う
・2010-02-06 中世芸能の発生 270 イハフ
・2010-02-07 中世芸能の発生 271 イハフ言葉 イハフ行動
・2010-02-08 中世芸能の発生 272 マツル
・2010-02-09 中世芸能の発生 273 イム




<性質をあらわす一音節について>

「チ」「二」「ヒ」  一音節  固有名詞にならないもの  土橋寛 
・2010-02-21 中世芸能の発生 288 自然 身体 実感
・2010-07-07 中世芸能の発生 335 固有名詞にならないもの





・2010-03-05 中世芸能の発生 292 海幸山幸(ウミサチヤマサチ) ことばの音

・2010-05-17 中世芸能の発生 312 ことばの神聖視

・2011-10-04 中世芸能の発生 418 意味の変遷



つづく





# by moriheiku | 2012-02-16 08:00 | 歴史と旅 | Trackback | Comments(0)
< 前のページ 次のページ >